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第八章 嵐
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「――なにを、言っているの?」
椅子に腰を下ろしたステファーヌは、両手をだらりと腰の横に垂らしている。その右手には赤いワインが半分ほど注がれたグラスがあった。
「お疲れだろうからと、コランタンが運んできたワインをお薦めしたのですが……飲まれた直後に様子がおかしくなり……震えだして……」
ジェルメーヌはすぐさま駆け寄り、ステファーヌの頬を両手で掴んだ。まだ温かいが、両目の瞳孔は開いている。唇は紫色に変色し、その隙間から僅かに泡を吹いている。
「どういうこと!?」
鋭い眼差しでジェルメーヌが辺りを睨み付けると、ステファーヌと一緒に来た従僕の少年が捲くし立てた。
「あ、あの……若様と一緒にいらした方がワインを運んでいらしたんです! 僕はなにもしていません!」
疑いを払拭しようとしてか、従僕は一生懸命弁明する。
「コランタン! コランタン!」
ジェルメーヌは振り返って声を張り上げるが、部屋にはコランタンの姿がない。
「コランタン? どこへ行ったんだ? さきほどまでそこに……」
ピュッチュナー男爵も困惑した様子で辺りを見回す。
狭い居間の中のどこにも、コランタンの姿はない。
「まさか、あの子が……!?」
顔を引き攣らせたピュッチュナー男爵の額からは、脂汗が流れ出す。
「なぜ、フランソワ様を……?」
「――これは、ステファーヌよ」
ステファーヌの頸動脈に指を当て、動きがないことを確認すると、ジェルメーヌは唸るように告げた。
「犯人は……フランソワのつもりで犯行に及んだのでしょうけれど」
実行犯はコランタンなのだろうか、とジェルメーヌは混乱する頭の中で必死に考えた。
コランタンは自分が運んできたワインで公子の様子がおかしくなったため、怖くなって逃げ出しただけなのかもしれない。彼は多少調子が良すぎるところがあり、宿の帳場で出されたワインを毒味もせずに出したことに良心の呵責を覚えたのではないだろうか。
「まさか! どういうことですか!」
血相を変えたピュッチュナー男爵はジェルメーヌに詰め寄るが、詳しく説明する暇などジェルメーヌにはなかった。
「なぜ……誰が毒を盛った? 公子暗殺を謀ったのは、誰?」
ピュッチュナー男爵もコランタンも、ブラモント伯爵令嬢として現れたのが実はフランソワではなくステファーヌであることに気付いてはいなかった。つまり、ステファーヌと一緒にこの宿に現れたブラモント伯爵一行以外は、ステファーヌが本物のフランソワ公子だと勘違いをしていたのだ。
反対に、ピュッチュナー男爵とコランタンは、これまで自分と一緒にいた公子がジェルメーヌ公女であることを知っていた。
もし、公子一行に刺客が紛れ込んでいたとすれば、身代わりであるジェルメーヌと本物であるフランソワが入れ替わっていることを知らなければ、とっくに殺害を実行していてもおかしくない。
(コランタンが、刺客だったというの?)
自分とほとんど年齢が変わらないコランタンが本当に犯人だとすれば、どうして彼が公子暗殺に関わることになったのか、想像もできない。
(まさか、ピュッチュナー男爵がコランタンに命じて公子暗殺を計画したわけではないわよね?)
疑い出せば、誰も信じられなくなる。
(これは、ステファーヌ? それとも、フランソワ?)
目の前にある骸は、さきほど自分の前で鏡を見ているように瓜二つの顔で笑っていたものとは似ても似つかない。
血の気のなくなった肌は青白く、身体は弛緩しきっている。
さきほどまでは光り輝いていた髪の色さえくすんで見えた。
「――いいえ、これは誰でもないわ」
ステファーヌの顔から手を離すと、ジェルメーヌは寝室に飛び込んだ。
「クロイゼル、すぐに居間にある死体をここに運び込んで、服をすべて剥ぎ取りなさい」
感情を押し殺した声で鋭く命じる。
「――死体?」
ミネットに言われて化粧室の中にある箱という箱を運び出す手伝いをさせられていたクロイゼルは、怪訝な表情を浮かべた。
「説明している暇はないわ。このままでは、フランソワ公子が暗殺されたという醜聞がプラハ中に広まってしまうわ」
大切なのは、誰が殺されたかではない。
フランソワ公子は生きているという事実を世間に認知させることだ。
(少なくとも、ミネットとクロイゼルなら信用しても大丈夫なはずよ。クロイゼルにステファーヌを殺す理由も暇もないもの)
ピュッチュナー男爵も、ステファーヌに同行していた見知らぬ従僕も信じられない以上、ジェルメーヌはクロイゼルを信じるしかない。
息を飲んで凍り付いているミネットの横を足早に通り過ぎ、クロイゼルは驚くほどの冷静さで居間へと向かった。
長椅子に座っているステファーヌを一瞥すると、すぐに横抱きにして寝室へと運ぶ。
寝台の上に寝かせると、ジェルメーヌに視線を向けた。
抱き上げた瞬間に、すでにステファーヌは息絶えていることがわかったようだ。
「服を脱がせて。それから、身元がわからないような粗末な服を着せて、死体を始末してちょうだい。ヴルタヴァ川に捨てても構わないわ……いえ、その方が都合がいいかもしれない。水遊びをしていて足を滑らせ溺れた死体のようにでもしてしまって」
溺死体にでもしなければ、ステファーヌの顔から身元が判明しないとも限らない。ロレーヌ公子と同じ顔の少年の死体が見つかったとなれば、それだけで充分世間では話題となる。
「そんな扱いをして……いいのか?」
微動だにしないステファーヌから服を脱がせながら、クロイゼルが珍しく躊躇った様子を見せた。
「これは公女殿の……」
「それはステファーヌじゃないわ。そんな……醜い顔をしているのが……ステファーヌなわけがないじゃないの」
ジェルメーヌが低い声で断言すると、両手で口を押さえていたミネットが弾かれたように泣き出した。
それを無視して、ジェルメーヌは矢継ぎ早に指示を出す。
椅子に腰を下ろしたステファーヌは、両手をだらりと腰の横に垂らしている。その右手には赤いワインが半分ほど注がれたグラスがあった。
「お疲れだろうからと、コランタンが運んできたワインをお薦めしたのですが……飲まれた直後に様子がおかしくなり……震えだして……」
ジェルメーヌはすぐさま駆け寄り、ステファーヌの頬を両手で掴んだ。まだ温かいが、両目の瞳孔は開いている。唇は紫色に変色し、その隙間から僅かに泡を吹いている。
「どういうこと!?」
鋭い眼差しでジェルメーヌが辺りを睨み付けると、ステファーヌと一緒に来た従僕の少年が捲くし立てた。
「あ、あの……若様と一緒にいらした方がワインを運んでいらしたんです! 僕はなにもしていません!」
疑いを払拭しようとしてか、従僕は一生懸命弁明する。
「コランタン! コランタン!」
ジェルメーヌは振り返って声を張り上げるが、部屋にはコランタンの姿がない。
「コランタン? どこへ行ったんだ? さきほどまでそこに……」
ピュッチュナー男爵も困惑した様子で辺りを見回す。
狭い居間の中のどこにも、コランタンの姿はない。
「まさか、あの子が……!?」
顔を引き攣らせたピュッチュナー男爵の額からは、脂汗が流れ出す。
「なぜ、フランソワ様を……?」
「――これは、ステファーヌよ」
ステファーヌの頸動脈に指を当て、動きがないことを確認すると、ジェルメーヌは唸るように告げた。
「犯人は……フランソワのつもりで犯行に及んだのでしょうけれど」
実行犯はコランタンなのだろうか、とジェルメーヌは混乱する頭の中で必死に考えた。
コランタンは自分が運んできたワインで公子の様子がおかしくなったため、怖くなって逃げ出しただけなのかもしれない。彼は多少調子が良すぎるところがあり、宿の帳場で出されたワインを毒味もせずに出したことに良心の呵責を覚えたのではないだろうか。
「まさか! どういうことですか!」
血相を変えたピュッチュナー男爵はジェルメーヌに詰め寄るが、詳しく説明する暇などジェルメーヌにはなかった。
「なぜ……誰が毒を盛った? 公子暗殺を謀ったのは、誰?」
ピュッチュナー男爵もコランタンも、ブラモント伯爵令嬢として現れたのが実はフランソワではなくステファーヌであることに気付いてはいなかった。つまり、ステファーヌと一緒にこの宿に現れたブラモント伯爵一行以外は、ステファーヌが本物のフランソワ公子だと勘違いをしていたのだ。
反対に、ピュッチュナー男爵とコランタンは、これまで自分と一緒にいた公子がジェルメーヌ公女であることを知っていた。
もし、公子一行に刺客が紛れ込んでいたとすれば、身代わりであるジェルメーヌと本物であるフランソワが入れ替わっていることを知らなければ、とっくに殺害を実行していてもおかしくない。
(コランタンが、刺客だったというの?)
自分とほとんど年齢が変わらないコランタンが本当に犯人だとすれば、どうして彼が公子暗殺に関わることになったのか、想像もできない。
(まさか、ピュッチュナー男爵がコランタンに命じて公子暗殺を計画したわけではないわよね?)
疑い出せば、誰も信じられなくなる。
(これは、ステファーヌ? それとも、フランソワ?)
目の前にある骸は、さきほど自分の前で鏡を見ているように瓜二つの顔で笑っていたものとは似ても似つかない。
血の気のなくなった肌は青白く、身体は弛緩しきっている。
さきほどまでは光り輝いていた髪の色さえくすんで見えた。
「――いいえ、これは誰でもないわ」
ステファーヌの顔から手を離すと、ジェルメーヌは寝室に飛び込んだ。
「クロイゼル、すぐに居間にある死体をここに運び込んで、服をすべて剥ぎ取りなさい」
感情を押し殺した声で鋭く命じる。
「――死体?」
ミネットに言われて化粧室の中にある箱という箱を運び出す手伝いをさせられていたクロイゼルは、怪訝な表情を浮かべた。
「説明している暇はないわ。このままでは、フランソワ公子が暗殺されたという醜聞がプラハ中に広まってしまうわ」
大切なのは、誰が殺されたかではない。
フランソワ公子は生きているという事実を世間に認知させることだ。
(少なくとも、ミネットとクロイゼルなら信用しても大丈夫なはずよ。クロイゼルにステファーヌを殺す理由も暇もないもの)
ピュッチュナー男爵も、ステファーヌに同行していた見知らぬ従僕も信じられない以上、ジェルメーヌはクロイゼルを信じるしかない。
息を飲んで凍り付いているミネットの横を足早に通り過ぎ、クロイゼルは驚くほどの冷静さで居間へと向かった。
長椅子に座っているステファーヌを一瞥すると、すぐに横抱きにして寝室へと運ぶ。
寝台の上に寝かせると、ジェルメーヌに視線を向けた。
抱き上げた瞬間に、すでにステファーヌは息絶えていることがわかったようだ。
「服を脱がせて。それから、身元がわからないような粗末な服を着せて、死体を始末してちょうだい。ヴルタヴァ川に捨てても構わないわ……いえ、その方が都合がいいかもしれない。水遊びをしていて足を滑らせ溺れた死体のようにでもしてしまって」
溺死体にでもしなければ、ステファーヌの顔から身元が判明しないとも限らない。ロレーヌ公子と同じ顔の少年の死体が見つかったとなれば、それだけで充分世間では話題となる。
「そんな扱いをして……いいのか?」
微動だにしないステファーヌから服を脱がせながら、クロイゼルが珍しく躊躇った様子を見せた。
「これは公女殿の……」
「それはステファーヌじゃないわ。そんな……醜い顔をしているのが……ステファーヌなわけがないじゃないの」
ジェルメーヌが低い声で断言すると、両手で口を押さえていたミネットが弾かれたように泣き出した。
それを無視して、ジェルメーヌは矢継ぎ早に指示を出す。
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