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第一章「聖ルヴァニア修道院の最期」
#22「誘惑」
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聖ルヴァニア修道院の中庭の傍らに、簡素な石造りの建物がある。小礼拝堂として知られるそこは、修道士や修道女の居住区画に隣接している。《灯火の祭壇》を擁する大礼拝堂が主に儀式の場として用いられることに対して、小礼拝堂は修道者の個人的な祈りの場として、日々の暮らしに寄り添っていた。
オリアネッタは木製の扉を開き、小礼拝堂に足を踏み入れた。ステンドグラスの窓を透かした午後の日差しがモノトーンの石床に彩りを添えている。ステンドグラスに描かれているのは、ルヴァニア記に登場する勇者とその仲間たち一人一人の全身画で、そこには物語性も寓意もない。それでも私的な祈りの場に荘厳さを与えるには、充分すぎるほどの芸術性と神聖さを有していた。
礼拝堂の中央の祭壇の前で、一人の若い修道士が祈りを捧げている。
祭壇に掛けられた聖なる布に綴られた聖句が、修道士の祈りに応じて淡く光っている。
聖ルヴァニア修道院では、正午から夕刻までの時間を個人的な鍛錬に割り当てることになっている。かつてはこの時間帯になると、小礼拝堂には大勢の修道士や修道女が集い、神への祈りを通じて己と向き合っていたものだったが、今、ここで祈っているのはこの若い修道士サリエル一人だけだった。
修道者の足は、礼拝堂から遠のいていた。
きっかけは、聖ルヴァニア修道院を見舞った怪異だった。
最初は一部の徳の高い修道士が悪夢に悩まされるだけだった。しかし彼らの怪死が相次ぎ、やがて怪異は誰の目にも明らかな形で現れるようになった。回廊を黒い影が徘徊し、誰もいないはずの礼拝堂から人の話し声が聞こえる──。副修道院長ガラハン・ストリウスと地下祭壇管理者のオルヴァン・デレクが怪異の調査に乗り出したが、彼らは謎の失踪を遂げた。次は自分の番かも知れない。修道者たちは恐慌に陥り、修道院の風紀は乱れた。しかし、この状況を神の試練と捉える者もわずかながら存在する。清廉なるサリエルも、その一人だった。
祈りを終え、祭壇を背にしたサリエルに、オリアネッタは声をかけた。
「わたしのような罪深き者にも、救いは訪れるのでしょうか……」
「……懺悔室はあちらです。未熟な私ではあなたのお役に立つことはできないでしょう」
サリエルはオリアネッタから目をそらし、祭壇の奥を手で示した。そして外に出ようとする。
「待ってください。どうか少しだけ、わたしのために時間をください」
立ち去ろうとするサリエルの袖をオリアネッタは軽く掴んだ。サリエルは眉をひそめたが、オリアネッタは気づかないフリをして、相手の腕に自身の胸を軽く押し当てた。清廉な修道士に身を寄せながら、囁きかける。
「わたしは懺悔室を信用できないのです」
「何故ですか?」
「己の罪深さ故に……」
サリエルは怪訝そうな顔をしたが、その場から動こうとはしなかった。
「わたしは魔王の娘です。魔王の娘は一人しかいません。懺悔をすれば、オズマール様はわたしだとお気づきになるでしょう」
懺悔室の内部は、聖なる魔術で生み出された光のカーテンで仕切られており、告解者の姿は秘匿される仕組みになっている。しかし懺悔の聞き手である司祭長オズマールは、懺悔室への出入りを部下に記録させ、告解者の素性を把握していた。それだけではない。オズマールは《聖光教会》内部の異端派の指示で魔術実験に関与しており、孤児だけでなく修道者も実験台に使っていた。懺悔によって知り得た情報を元に、修道者を脅迫しているのだ。オリアネッタはこの事実をエグラントから聞かされていた。
オリアネッタの言葉にサリエルは呆れたようにため息をついたが、やはりその場から動こうとはしない。
「私は懺悔を聞く前から貴方だと気づいていますが、それは構わないのですか?」
「はい。異端に厳しいオズマール様は、わたしのような存在を決してお許しにはならないでしょう。でも、貴方はそうではありませんから……」
「……それはどうでしょうね」
「わたしは間違っているのですか?」
「さて。私は《聖者の間》に行かねばなりません。ですが、そこに着くまでの間でよろしければ、貴方の懺悔をお聞きいたします。……参りましょうか」
「はい。ありがとうございます。……実は──」
オリアネッタはエグラントやその部下から受けた性的虐待の詳細を、この若く清廉な修道士に打ち明けた。それは懺悔の皮を被った誘惑、狡猾な精神汚染だった。オリアネッタにはサリエルを籠絡しなければならない理由があった。何故なら彼は、ルヴァニア記原本の収蔵された地下書庫への出入りを許された数少ない修道士だったからだ。
地下書庫の出入りには、厳重な制限が設けられている。しかし書庫の整理のために高位の修道士に一時的な閲覧許可が与えられることがあり、現在はサリエルがその役目を担っていた。オリアネッタはルヴァニア記の原本を閲覧するために、サリエルに邪念を植え付けた。
魔王オルディミールの娘であることを知らされたあの日から、既に数年の月日が流れていた。
オリアネッタは木製の扉を開き、小礼拝堂に足を踏み入れた。ステンドグラスの窓を透かした午後の日差しがモノトーンの石床に彩りを添えている。ステンドグラスに描かれているのは、ルヴァニア記に登場する勇者とその仲間たち一人一人の全身画で、そこには物語性も寓意もない。それでも私的な祈りの場に荘厳さを与えるには、充分すぎるほどの芸術性と神聖さを有していた。
礼拝堂の中央の祭壇の前で、一人の若い修道士が祈りを捧げている。
祭壇に掛けられた聖なる布に綴られた聖句が、修道士の祈りに応じて淡く光っている。
聖ルヴァニア修道院では、正午から夕刻までの時間を個人的な鍛錬に割り当てることになっている。かつてはこの時間帯になると、小礼拝堂には大勢の修道士や修道女が集い、神への祈りを通じて己と向き合っていたものだったが、今、ここで祈っているのはこの若い修道士サリエル一人だけだった。
修道者の足は、礼拝堂から遠のいていた。
きっかけは、聖ルヴァニア修道院を見舞った怪異だった。
最初は一部の徳の高い修道士が悪夢に悩まされるだけだった。しかし彼らの怪死が相次ぎ、やがて怪異は誰の目にも明らかな形で現れるようになった。回廊を黒い影が徘徊し、誰もいないはずの礼拝堂から人の話し声が聞こえる──。副修道院長ガラハン・ストリウスと地下祭壇管理者のオルヴァン・デレクが怪異の調査に乗り出したが、彼らは謎の失踪を遂げた。次は自分の番かも知れない。修道者たちは恐慌に陥り、修道院の風紀は乱れた。しかし、この状況を神の試練と捉える者もわずかながら存在する。清廉なるサリエルも、その一人だった。
祈りを終え、祭壇を背にしたサリエルに、オリアネッタは声をかけた。
「わたしのような罪深き者にも、救いは訪れるのでしょうか……」
「……懺悔室はあちらです。未熟な私ではあなたのお役に立つことはできないでしょう」
サリエルはオリアネッタから目をそらし、祭壇の奥を手で示した。そして外に出ようとする。
「待ってください。どうか少しだけ、わたしのために時間をください」
立ち去ろうとするサリエルの袖をオリアネッタは軽く掴んだ。サリエルは眉をひそめたが、オリアネッタは気づかないフリをして、相手の腕に自身の胸を軽く押し当てた。清廉な修道士に身を寄せながら、囁きかける。
「わたしは懺悔室を信用できないのです」
「何故ですか?」
「己の罪深さ故に……」
サリエルは怪訝そうな顔をしたが、その場から動こうとはしなかった。
「わたしは魔王の娘です。魔王の娘は一人しかいません。懺悔をすれば、オズマール様はわたしだとお気づきになるでしょう」
懺悔室の内部は、聖なる魔術で生み出された光のカーテンで仕切られており、告解者の姿は秘匿される仕組みになっている。しかし懺悔の聞き手である司祭長オズマールは、懺悔室への出入りを部下に記録させ、告解者の素性を把握していた。それだけではない。オズマールは《聖光教会》内部の異端派の指示で魔術実験に関与しており、孤児だけでなく修道者も実験台に使っていた。懺悔によって知り得た情報を元に、修道者を脅迫しているのだ。オリアネッタはこの事実をエグラントから聞かされていた。
オリアネッタの言葉にサリエルは呆れたようにため息をついたが、やはりその場から動こうとはしない。
「私は懺悔を聞く前から貴方だと気づいていますが、それは構わないのですか?」
「はい。異端に厳しいオズマール様は、わたしのような存在を決してお許しにはならないでしょう。でも、貴方はそうではありませんから……」
「……それはどうでしょうね」
「わたしは間違っているのですか?」
「さて。私は《聖者の間》に行かねばなりません。ですが、そこに着くまでの間でよろしければ、貴方の懺悔をお聞きいたします。……参りましょうか」
「はい。ありがとうございます。……実は──」
オリアネッタはエグラントやその部下から受けた性的虐待の詳細を、この若く清廉な修道士に打ち明けた。それは懺悔の皮を被った誘惑、狡猾な精神汚染だった。オリアネッタにはサリエルを籠絡しなければならない理由があった。何故なら彼は、ルヴァニア記原本の収蔵された地下書庫への出入りを許された数少ない修道士だったからだ。
地下書庫の出入りには、厳重な制限が設けられている。しかし書庫の整理のために高位の修道士に一時的な閲覧許可が与えられることがあり、現在はサリエルがその役目を担っていた。オリアネッタはルヴァニア記の原本を閲覧するために、サリエルに邪念を植え付けた。
魔王オルディミールの娘であることを知らされたあの日から、既に数年の月日が流れていた。
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