野良ドールのモーニング

森園ことり

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 喉が渇いたので、冷蔵庫で冷やしておいた麦茶を飲み、氷のアイスを食べた。
 アパートはまったく人気のないように静かだ。蝉の声が騒がしく聞こえるだけ。

 一階のアトリエに時蔵さんが出入りするようになってから、たまに話し声を耳にするようになった。でも、それもいまはない。時蔵さんは東北に行ったのだろうし、灰野さんは音をたてない人だからいてもわからない。
 ラジオを聴きながら漫画日記を描いていると、四時頃にドアがノックされた。

「わたし、柳子」

 ドアを開けにいくと、僕はびっくりした。
 そこに立っていたのは、いつかの短髪スウェット男だったからだ。いや、顔は柳子だ。
 短髪の柳子は僕の顔を見て、にいっと笑う。

「驚いた?」
「……だ、誰?」
「柳子だよ。あがっていい? 暑くて死ぬ」

 柳子はタオルで首すじの汗を拭いながら部屋に入ってきた。白いTシャツにグレーのスウェットパンツ。いつもとは違うカジュアルな服装のせいもあって、余計に彼女は別人に見える。
 僕は冷たい麦茶をグラスに注いで彼女に出した。それを彼女は黙ってごくごく飲む。

 ベリーショートというんだろうか。耳も首筋もおでこも丸出し。でも、頭の形がいい彼女には似合ってなくもない。涼し気な目鼻立ちを引き立てて、中性的な雰囲気もする。

「髪切ってきたの?」

 僕の質問に、柳子は笑った。

「元からこの髪型だよ。あのロングヘアはウィッグ」
「え……そうだったの」

 まったく気づかなかった。
 彼女は少年みたいに無造作に自分の頭を触る。

「で、話って?」

 柳子の見た目の変貌に驚き過ぎて本題を忘れかけた。

「あ、あぁ……えっと、三輪苗子っていう元ピアニストを知ってる?」

 彼女はこくっと頷く。

「昨日、実家でテレビ見てたらそのひとが出てきて、柳子さんにあんまり似てるもんだからびっくりしたんだ」
「そう」
「ピアノって共通点もあるし、もしかして、親戚とか、そういうことってあるのかなって……」

 柳子はじっと僕を見てから、ふっと笑った。

「母親だよ。三輪苗子は私の母親」
「えっ、そうなんだ」

 そう、と柳子はさらっと言って小さく息を吐いた。

「とうとうばれたかぁ」

 どこかほっとしているようにもとれる声音だった。

「美帆さんとかにはすぐ言われたけどね。三輪苗子にそっくりだねって」

 普段テレビを見てるひとならそうなのだろう。

「内緒にしててごめんね」
「いや、それは別に……」
「なにから話そう。ちょっと長くなりそうだけどいい?」

 いいよ、と僕は頷いた。


 三輪というのは母親の旧姓だ、と柳子は説明した。
 仕事ではいまも昔の苗字のままで通している。

 結婚して娘を二人出産したあと、ピアニストを引退して小さな音楽スクールをはじめた。はじめは知り合いの子供たちのレッスンを引き受けていたけれど、上達が早いというのが評判になって、徐々に生徒数が増えていった。それで講師も増やし、徐々に規模を大きくしていくことになった。

 さらに知り合いから紹介されたテレビ番組に出演すると、生徒数が一気に増えた。それに気をよくした母親は、美しい長女の櫻子も伴って頻繁にテレビに露出すようになっていった。
 音楽スクールの校長というよりはタレントとして振る舞うようになっていった母親と姉を横目に、柳子はピアニストを目指して日々レッスンに明け暮れていた。

 柳子の心のよりどころは、市民楽団のオーケストラで演奏しているヴァイオリニストの父親だった。穏やかでおとなしい性格の父親は、妻と長女が派手にテレビに出ていても、なにも口を挟まなかった。マイペースに音楽と向き合い、環境の変化に戸惑う柳子をそっと支えてくれた。

 姉妹の仲はいいとはいえなかった。プライドが高く上から物を言う櫻子のことを、柳子は幼い時から苦手としていた。櫻子のほうでも地味で真面目な柳子のことを、つまらない子だと相手にしなかった。
 母親は櫻子を可愛がって、どこへ行くのも一緒。将来はスクールを継がせると周囲にも公言していた。

 そのことを柳子はなんとも思わなかった。むしろ好都合だと喜んでいた。スクールには興味がなかったし、音大を出たら友達と室内楽団を作ろうと考えていたからだ。

 ところが去年、姉の櫻子が運転操作を誤って港から海に落ちて亡くなってしまった。
 ひどく落胆したのは母親だ。思い描いていた未来図がすべて白紙になってしまって呆然とした。柳子や父親も櫻子の死を悲しんだけれど、母親の絶望とはくらべものにならないのは、誰の目にも明らかだった。

 櫻子の四十九日が過ぎたあと、母親は柳子の部屋にやって来た。
 姉の櫻子の部屋にはよく入り浸っていた母親だが、柳子の部屋に来るのは十年ぐらいぶりだった。

「柳子がいてくれてよかった。櫻子ができなかったことを、これからはあなたがするのよ」

 痩せてうつろな目をした母親は、そう柳子に言った。
 悲嘆にくれていまにも倒れそうな母親のことを、柳子は哀れに思った。だから「わかった」と頷いた。

 それから、柳子は母親の手伝いをするようになった。スクールの経営だけでなく、頼まれればピアノの講師も引き受けた。
 そんな柳子を父親は心配して、「無理してないか?」と何度も声をかけた。大丈夫だよ、と柳子はいつも笑顔で答えた。

「お姉ちゃんだってやってたことだし、私でもできるよ」

 柳子の頑張りもあってか、徐々に母親は元気になっていった。そして、スクールだけじゃなくて、テレビの仕事にもそろそろ復帰するつもりだと柳子に伝えた。

「あなたも一緒に出てくれない? 櫻子のかわりじゃなくて、ピアニスト志望の大事な私の娘として」

 自分たちの顔がそっくりなことも、視聴者の関心を惹くはずだ、と母親は笑顔で言った。

「二人で同じ衣装を着て、向かい合わせでピアノを弾いたらきっと見ものよ。演奏会だってできるかもしれない。ピアニストとしての道も開けるかも」

 柳子はそれはできないと、すぐに断った。
 テレビ出演なんてとんでもない。
 演奏家としてならいいけれど、母親や櫻子たちがやっていたようなタレント活動は自分にはつとまらない。
 できるわよ、と母親は何度も柳子を説得しようとした。けれど、柳子の決意は固かった。

「わかったわよ。あなたはどうやら、お父さん似みたいね」

 チクリと皮肉を言ったものの、母親はそれ以降テレビの話を柳子にしなくなった。
 春になり、スクールの会報誌にのせる撮影をすることになった。

 近所にあるいつもの撮影スタジオに二人は赴き、トレードマークの赤いスーツにパンプス姿の母親が撮影をした。
 撮影が無事終わると、着替えをする控室で母親はドレスを着て写真を撮ってみないか、と柳子を誘った。

 撮影スタジオにはレンタルのドレスがたくさん用意してある。趣味で撮影しにくる大人の女性も多数いるとかで、母親は前から一度挑戦してみたかったのだと柳子に言った。

 柳子は興味はまったくなかったけれど、あまりに母親がしつこくすすめるので面倒くさくなり、撮影することを承諾した。
 ひらひらの可愛いお人形みたいな白いドレスを着た柳子は、鏡の中に写った自分に愕然とした。ベリーショートの自分が甘いドレスを着ると、男が着ているみたいで違和感しかない。もっとシンプルな大人っぽいドレスなら違ったかもしれないが。

「これをかぶってみれば」

 そう言って、母親に渡されたのは、ふんわりウェーブしたロングヘアのウィッグだった。
 手伝ってもらいながらウィッグをつけて鏡の前に立つと、驚くほどドレスにしっくりくる。
 しかもどこか既視感があった。そうだ。姉の櫻子みたい。

 顔の作りは違うけれど、姉妹だし年も近いからとても似て見える。
 櫻子はよく手入れをした長い髪を自慢していた。そんな女性らしい髪型を母親も好んでよく褒めていた。
 そういう二人に背を向けるように、いつからか柳子は髪を短くするようになった。最初はボブ、次にショート。最後にはベリーショートにまでなった。服装も女性らしさからは程遠い、男の子っぽいものを好んで着た。

「よく似合うじゃない。さすがに姉妹ね。櫻子によく似てる」

 鏡に写った隣の母親も同じドレスを着ている。
 複雑な思いで鏡を見つめていると、背後のドアが勢いよく開いて誰かが入ってきた。

 肩に置かれた母親の手に力がはいり、くるりと回転させられる。目の前にテレビカメラがあった。レンズが自分に向けられている。見知らぬ大人たちがどっと室内に入ってきた。テレビクルーだ。

「櫻子、笑って」

 耳元で母親が囁いた。いや、私は柳子だ。
 気づくと、出口に向かって走り出していた。テレビクルーたちと押し合いをしたあと、ちょっとできた隙間を突いて部屋から飛び出す。

 あとのことはよく覚えていなかった。
 気づくと、とぼとぼとどこかわからない場所を歩いていた。

 すれ違う人たちがちらちら自分を見ている。そうだ。ドレスのまま出てきてしまった。ウィッグもしたまま。でも長い髪がいまは救いだった。顔を隠せる。
 お金もスマホも持たずに飛び出してきてしまったので無一文だった。
 家に帰るしかない。
 そう思っても引き返す気にはなれなかった。
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