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3 石川のグラタン
3 石川のグラタン(3)
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「本来なら鎌倉の店に来ていただいたほうがいいんですが、妹がまだ本決まりじゃないからと……」
お兄ちゃん、と石川がはらはらしたように制する。
ははは、と僕は小さく笑った。
陽太さんはがはがは笑う。
「斎藤さんのことは昔から妹がよく話していたので、勝手に親近感を抱いてしまってましてね。初対面な感じが全然しませんよ」
あっはははと一人でおかしそうに笑う。
「いや、想像どおりの爽やかな男前で。ぜひ、神楽坂の店で働いていただけたら嬉しいんですけどね。なんせ妹一人にまかせるのは心配も大きいところでして……」
「お兄ちゃん、ちょっと声が大きい」
一人でしゃべり続ける兄にうんざりしたように、石川がにらみをきかせながら制止する。
「まあまあ、そんな怖い顔しなさんな。斎藤さんもびっくりしておられるよ。うん、まあたしかにいま僕は若干興奮してはいるけどね」
「お兄ちゃん、本当に一度黙って」
少し怒気をはらんだ石川の声に、さすがに陽太さんもぴたりと口を閉じた。
サーカスの口枷をつけられた熊みたいに急におとなしくなった兄と、険しい目つきの妹。
ふうん。こういう関係性なのか。
僕は一人っ子なので、こういう兄妹のやりとりはうらやましくもある。
気づくと、陽太さんは愛くるしいつぶらな目をウインクさせて僕に目くばせしている。妹に怒られちゃいましたよ、というように。
僕はそっと笑いかえした。
まだよく話せてはいないが、陽太さんとはうまくやれそうだ。
石川の兄だから、てっきりスマートでストイックな感じの人かと想像していた。これは嬉しい誤算だ。
僕たちはコーヒーを飲みながら、それから一時間ほど色々話した。
鎌倉野菜の魅力、彼らが目指す店の在り方。
陽太さんのこれまでの経歴も簡単に教えてもらった。
彼も二年ほど留学経験があり、帰国後に有名店で修業していたらしい。そして、僕と似たような目にあった、とさらりと触れた。
「月菜から、斎藤さんの輝かしい経歴は聞いていたので、お店を辞めたらしいと聞いた時には、(もしかして)とは思ったんです。職場の人間関係は意外と難しかったりしますからねえ。……本当に他からはまだ仕事の話はきていないんですか?」
「ええ、どこも」
彼は、そうですかと首をひねった。
「案外狭い世界ですから、邪魔のようなものが入っているのかもしれませんね」
そんなことは思いもしなかったので、僕は驚いた。
でも、言われてみればその可能性はゼロではないのかもしれない。
ただ、彼らがそこまでやるとはちょっと思えないのだけれど。
「どうでしょう。たまたまだと思いますけどね」
「そうですか……」
どこか浮かない表情の陽太さんと石川。
そんな二人を見て、僕も少しだけ不安になる。
確かに、顔の広い松井が方々に声をかけたと言っていたのに、いまだに石川からしか連絡が来ないのはちょっと意外ではある。
細かい条件などはつけてはいないのだから、普通に考えてみれば、もう少し仕事の話が来てもおかしくはない気はする。
実際、僕と同じ時期に仕事を辞めて、松井が仕事探しを手伝った人は、一週間以内に面接が決まったらしい。そして一ヶ月以内には別の店で働きはじめたと耳にした。
「まあ、そんなこと気にしてもしょうがないですね。余計なことを言ってすみません。いやあ、せっかくいい日なのに僕が湿っぽくしてどうするんだって話で」
がはははと笑う陽太さん。
今度は石川も苦笑しつつも制することはなかった。
陽太さんは豪快そうに見えて、繊細な一面もあるようだ。
「斎藤さんと一緒に働けたら僕としても光栄ですよ。オープンしてしばらくは、僕もちょくちょく手伝いに行きますので」
ご機嫌な陽太さんは、僕の創作料理もぜひ新店で取り入れたいと話してくれた。僕としては心惹かれる言葉だった。
「ああ、さすがにそろそろ仕事に戻らないといけません」
陽太さんは腕時計を見ると、悲しそうな顔をした。
「まだまだ話したりないのに」
彼と一緒に僕と石川も腰をあげた。
「実はさっき、お店のほうに伺ってランチをいただいたんです。ローストビーフ、とてもおいしかったです」
陽太さんと石川は「えっ」と同時に声をあげて驚いた。
「お店の雰囲気もとても素敵でした」
「なんで黙っていたんですか。じゃあ、ランチを二回も食べたんですね」
石川は驚きながらも、すまなさそうな表情を浮かべた。
「最初からそのつもりで朝飯を抜いてきたから大丈夫」
「そうだったんですか……」
少しほっとしたように石川は微笑む。
「なあんだ、声をかけてくれればよかったのに。サービスしたかったなぁ」
すっかりうちとけた感じの陽太さんが茶目っ気たっぷりに言って、がはははっとまた豪快に笑った。
「うちのローストビーフ、うまいでしょ。あれ目当てで来店される方も多いんですよ」
「でしょうね。僕もまた絶対食べに行きます」
「嬉しいなあ。今日はほんとにいい日だ」
別れ際、なかば無理矢理、陽太さんにハグされた。恥ずかしかったけれど、ちょっと嬉しかったりもした。
帰りの電車に揺られている時、前向きな気分になれている自分を感じた。
こんな感覚は久しぶりだ。
仕事を辞めて以来僕は、自分のなかにある不安を無意識に抑え込んでいたのかもしれない。
その不安が少しだけ消えた気がする。
太さんのもわもわの顎鬚に、女性らしくなった石川、ざあざあという静かな波音が、頭の中でまざりあい、心地よい疲労感を覚えた。
早いうちに返事をしよう。
僕は目を閉じ、心地よい眠りに落ちていった。
*
お兄ちゃん、と石川がはらはらしたように制する。
ははは、と僕は小さく笑った。
陽太さんはがはがは笑う。
「斎藤さんのことは昔から妹がよく話していたので、勝手に親近感を抱いてしまってましてね。初対面な感じが全然しませんよ」
あっはははと一人でおかしそうに笑う。
「いや、想像どおりの爽やかな男前で。ぜひ、神楽坂の店で働いていただけたら嬉しいんですけどね。なんせ妹一人にまかせるのは心配も大きいところでして……」
「お兄ちゃん、ちょっと声が大きい」
一人でしゃべり続ける兄にうんざりしたように、石川がにらみをきかせながら制止する。
「まあまあ、そんな怖い顔しなさんな。斎藤さんもびっくりしておられるよ。うん、まあたしかにいま僕は若干興奮してはいるけどね」
「お兄ちゃん、本当に一度黙って」
少し怒気をはらんだ石川の声に、さすがに陽太さんもぴたりと口を閉じた。
サーカスの口枷をつけられた熊みたいに急におとなしくなった兄と、険しい目つきの妹。
ふうん。こういう関係性なのか。
僕は一人っ子なので、こういう兄妹のやりとりはうらやましくもある。
気づくと、陽太さんは愛くるしいつぶらな目をウインクさせて僕に目くばせしている。妹に怒られちゃいましたよ、というように。
僕はそっと笑いかえした。
まだよく話せてはいないが、陽太さんとはうまくやれそうだ。
石川の兄だから、てっきりスマートでストイックな感じの人かと想像していた。これは嬉しい誤算だ。
僕たちはコーヒーを飲みながら、それから一時間ほど色々話した。
鎌倉野菜の魅力、彼らが目指す店の在り方。
陽太さんのこれまでの経歴も簡単に教えてもらった。
彼も二年ほど留学経験があり、帰国後に有名店で修業していたらしい。そして、僕と似たような目にあった、とさらりと触れた。
「月菜から、斎藤さんの輝かしい経歴は聞いていたので、お店を辞めたらしいと聞いた時には、(もしかして)とは思ったんです。職場の人間関係は意外と難しかったりしますからねえ。……本当に他からはまだ仕事の話はきていないんですか?」
「ええ、どこも」
彼は、そうですかと首をひねった。
「案外狭い世界ですから、邪魔のようなものが入っているのかもしれませんね」
そんなことは思いもしなかったので、僕は驚いた。
でも、言われてみればその可能性はゼロではないのかもしれない。
ただ、彼らがそこまでやるとはちょっと思えないのだけれど。
「どうでしょう。たまたまだと思いますけどね」
「そうですか……」
どこか浮かない表情の陽太さんと石川。
そんな二人を見て、僕も少しだけ不安になる。
確かに、顔の広い松井が方々に声をかけたと言っていたのに、いまだに石川からしか連絡が来ないのはちょっと意外ではある。
細かい条件などはつけてはいないのだから、普通に考えてみれば、もう少し仕事の話が来てもおかしくはない気はする。
実際、僕と同じ時期に仕事を辞めて、松井が仕事探しを手伝った人は、一週間以内に面接が決まったらしい。そして一ヶ月以内には別の店で働きはじめたと耳にした。
「まあ、そんなこと気にしてもしょうがないですね。余計なことを言ってすみません。いやあ、せっかくいい日なのに僕が湿っぽくしてどうするんだって話で」
がはははと笑う陽太さん。
今度は石川も苦笑しつつも制することはなかった。
陽太さんは豪快そうに見えて、繊細な一面もあるようだ。
「斎藤さんと一緒に働けたら僕としても光栄ですよ。オープンしてしばらくは、僕もちょくちょく手伝いに行きますので」
ご機嫌な陽太さんは、僕の創作料理もぜひ新店で取り入れたいと話してくれた。僕としては心惹かれる言葉だった。
「ああ、さすがにそろそろ仕事に戻らないといけません」
陽太さんは腕時計を見ると、悲しそうな顔をした。
「まだまだ話したりないのに」
彼と一緒に僕と石川も腰をあげた。
「実はさっき、お店のほうに伺ってランチをいただいたんです。ローストビーフ、とてもおいしかったです」
陽太さんと石川は「えっ」と同時に声をあげて驚いた。
「お店の雰囲気もとても素敵でした」
「なんで黙っていたんですか。じゃあ、ランチを二回も食べたんですね」
石川は驚きながらも、すまなさそうな表情を浮かべた。
「最初からそのつもりで朝飯を抜いてきたから大丈夫」
「そうだったんですか……」
少しほっとしたように石川は微笑む。
「なあんだ、声をかけてくれればよかったのに。サービスしたかったなぁ」
すっかりうちとけた感じの陽太さんが茶目っ気たっぷりに言って、がはははっとまた豪快に笑った。
「うちのローストビーフ、うまいでしょ。あれ目当てで来店される方も多いんですよ」
「でしょうね。僕もまた絶対食べに行きます」
「嬉しいなあ。今日はほんとにいい日だ」
別れ際、なかば無理矢理、陽太さんにハグされた。恥ずかしかったけれど、ちょっと嬉しかったりもした。
帰りの電車に揺られている時、前向きな気分になれている自分を感じた。
こんな感覚は久しぶりだ。
仕事を辞めて以来僕は、自分のなかにある不安を無意識に抑え込んでいたのかもしれない。
その不安が少しだけ消えた気がする。
太さんのもわもわの顎鬚に、女性らしくなった石川、ざあざあという静かな波音が、頭の中でまざりあい、心地よい疲労感を覚えた。
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