ヨナと人魚の住まう海底都市

荒野羊仔

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エピソード5. 水

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 陸へ上がってしばらくすると、体が冷えてきた。海に入る瞬間は確かに冷たかったかもしれないけれど、海にいた時には冷たさなんて感じなかったのに。ひょっとして、海の中の方が温かいのだろうか?
 歯をカチカチ言わせながら、空のバケツを持ったサラについて歩く。水を吸った服と釣竿を抱えている分、足取りが重くなる。それにしても、普段にも増して歩くのがしんどい。
 海で浮く感覚を経験したからかもしれない。海の中は上も下もなくて、陸よりも遥かに自由で、体が軽くなったみたいだった。ひょっとして、僕は陸よりも海で生きる方が向いているんじゃないだろうか?
 歩いているうちに日差しで服が乾いていったが、どこまで歩いても生乾きで、湿気ったまま肌に張り付いて気持ち悪い。視線を足元から家の方へ向ける。体感ではもうかなり歩いたはずだけれど、思っていた半分も進んでいなかった。
 サラの手が熱い。子供の体温はいつも高いが、今日は特に日に照らされて熱を帯びた石のように熱く感じた。きっと僕が冷えすぎているせいなんだろうけれど。海の方が温かかったり、陸の方が寒かったり、何だかあべこべだ。もしかしたら人魚の彼女もそう思っているかもしれない。
 僕は初めて人魚に触れたけれど、彼女はどうだろう。人間に触れるのは初めてだっただろうか? 下半身は海に隠れてほとんど見えなかったし、上半身は人間とほとんど変わらなかったと思う。彼女と人間の違いがよく分からなかった。
 神話によると、人魚は声と引き換えに尾を得たと言うが、本当は声じゃなくて、言葉と引き換えだったんじゃないだろうか。だって、僕たちはいつも人魚の声を聴いているのだから。
「長老! ヨナが海の中に入ったー!」
 サラが長老を呼ぶ声で、僕は現実に意識を引き戻される。長老は島の反対側ではなく、今日は比較的家に近い場所に陣取って釣りをしていたようだ。ここのところ、長老は耳が遠くなってきた。サラの声にもまだ気付いていない。サラが一段と大きな声で長老! と呼ぶと、長老はようやくこちらを振り返った。
 サラが文句……事情を話す間に、長老は釣竿を上げ、片付け始めた。長老のバケツには数匹の魚が入っていたが、いずれも小さく、全員の腹を満たせそうにはなかった。最近、魚が獲れる量が少なくなってきている気がする。もうすぐ産卵の季節のはずなのに、魚が浅瀬の方にいないのだ。今年は海流の流れが違うのか? それとも……。
「ふむ、では今日は釣りは辞めにしよう。ヨナ、まずは身体を洗って火に当たりなさい。身体を温めた方がいい。サラ、洗濯を頼むね」
 サラは不貞腐れながら、はい、と答えると、無言で強く、僕の手を引っ張った。
 僕たちの家の近くには貯水池がある。雨水を貯めたもので、僕たちはそれを飲んだり、洗濯に使ったりする。家より少し大きいくらいで、島の皆の生活用水となっている。資源は限られているから、皆基本的には海には入らないようにしている。
 昔、この島がもっと大きくて、大きな川が流れていた頃には、大人たちはみんな海に潜って魚を獲っていたらしい。海で漁をして、川で塩を洗い流す。川には川で魚がいて、海の魚とは味が違ったとか。やがて女神の涙で洗い流されて、川と海は混ざってしまって、海の塩に耐えられず、川の魚のほとんどは死んでしまった。卵を川で産んで、海に出る魚だけが生き残っていて、今では海で暮らしている。
 もしかしたら、僕たちが知らないだけで、どこか別の島、まだ川が残っている島で、彼らは卵を産んでいるのかもしれない。僕たちの知らないどこかで。もしも鳥の翼や魚の尾があったら、見に行くのに。まだ見ぬものを、全て見ることができたらいいのに。
「ヨナ、服脱いで」
 言われるがまま、服を脱いでサラに手渡す。サラは乱暴にそれを引ったくると、池でバシャバシャと洗い始めた。
 普段僕たちは布に水を染み込ませて身体を擦り、汚れを落とす。……塩って、どうやって落とすんだろう? 擦るだけじゃ細かすぎて落ちなさそうだ。
「池に入っちゃダメかなぁ……」
 ボソリと呟くと、すかさずサラに反対された。
「ダメだよ! みんな飲むんだから!」
 サラはそう言うと、濡らした布を差し出した。僕は渋々それを受け取る。
「でも、服だって洗うのに……」
「それは、汚れは下に落ちてくから……」
「僕たちが入ったとしても、汚れは下に落ちていくんじゃない?」
「それは……そうかもだけど」
「サラは、入ってみたくない?」
 サラは、躊躇う様子を見せたものの、否定する様子はなかった。
 僕は知っている。サラが僕に厳しいのは、本当は自分も釣りをしたり、海に入ったりしたいからだ。好奇心が旺盛なのに、小さい子の面倒を見るために自制しているのだ。
 僕は両足をバネにして跳ねると、足から池へと入った。小規模な水飛沫が上がり、サラの顔を濡らす。僕はサラへと手を差し出した。池は流石にサラの足まではつかないが、僕の足がつくくらいの深さしかなかった。サラは僕の手をとると、恐る恐る池へと足を踏み出す。ふわりと服と、身体が浮き上がった。
 初めは戸惑っている様子だったが、次第にその感覚に慣れ始めたようで、笑みが溢れ始めた。
「息を止めて」
 僕が言うと、サラは息を止めた。その両手を握って、僕は水の中へと潜り込む。突然のことに驚いた様子ではあったが、驚いて息をするようなことはなかった。水の中で目が合う。普段の怒ったような目ではなく、澄んだ瞳。サラも味わっているだろうか。水の中で身体が浮く感覚、身体が軽くなったような、自由な感覚。光が差し込んでキラキラと輝く、水の中の世界を。
 息が苦しくならないうちに水面へ上がると、僕はサラに言った。
「サラ、これが水の中の感覚だよ。海はもっと広くて、もっと深くて、波が起きて、光がとっても綺麗なんだ」
「水って、とっても綺麗ね——」
 サラはそう呟くと、息を止めて潜ったり、水面へ出て息を吸い込んだりを繰り返した。恐れなど、何もないみたいだった。そうして幾度目かにようやくそれを止めると、僕の胴にしがみついて満面の笑みを浮かべた。僕が手ですくって水を浴びせると、サラは年相応の子供のように、声を上げて笑った。僕たちはお互いに水を掛け合った。
 昼下がりの日の光で煌めく水飛沫は、見たこともないくらい、キラキラと輝いて見えた。
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