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第一章「野良犬」
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四年前の、ある夏の日のことである。例年の一ヶ月分の降水量が数日で降るような大雨が続いた年で、滝のような大雨が上がった後には必ず猛暑日が続いていた。
男は窓の外を眺めながら大学図書館で借りたハードカバーをぱらぱらとめくった。表紙が閉じる少し重めの音を聞きながら、同じ行動を繰り返す。窓の外は茹だるほど蒸暑く、頼んだアイスコーヒーのグラスは汗のように結露を発していた。喫茶店の片隅のテーブル席はクーラーが効きにくく、アイスコーヒーはとっくに氷水になっていたが、待ち人はまだ現れない。待ち人である女はいつも唐突に呼び付けては彼を待たせ、足のように車を出させた。奨学金を貰い続けるために勉学に励まなければならないにも関わらず、その間は何も手に付かず、無為に時が過ぎていくのを待つより他にはなくなってしまうのだ。
その男の様相は異様だと言えた。極度の猫背であり、着用しているオーバーサイズのチェックシャツがよりそれを強調していた。その上シャツの素材は明らかに冬物で、ボタンは第一ボタンまで留められていた。幾重にも折り曲げた袖からは第二関節より先しか出ておらず、微かに骨張った関節から辛うじて男だと判別できるのみである。髪は目に掛かるほど長く、大きな丸眼鏡の上を覆っていた。眼鏡の奥には眼光の鋭い切れ長の目があったが、一見しただけでは性別が分からないほど整った顔をしていた。
待ち人が現れたのは、アイスコーヒーの結露がテーブルに水溜りを作り、氷すら溶けてなくなった頃だった。来客を告げるベルの音が鳴り、彼は扉へとおもむろに視線を向けた。扉から待ち人が入って来るのが見え、連れ立ってもう一人の人影が見えたが、知らない顔だったためタイミングよく入ってきた他人だと思っていた。
しかし待ち人が近づいてくるにつれ、彼女がもう一人の手を引いているのが目に入り、思わず怪訝な顔になった。手を引かれている女も彼の存在に気付くと、不愉快そうに目を細め顔を歪ませた。
開口一番、謝罪もなく待ち人は彼に告げた。
「車を出して欲しいの、山奥の廃墟まで」
*
待ち人の名前は魚住恵美と言った。魚住には彼の存在は見えないかのように、隣に座った女性と和気藹々とどのケーキを頼むか話している。女性は魚住の様子にも彼の存在にも戸惑いを隠せないようで、細い目でチラチラと彼に視線を向けた。
彼女は骨張った鎖骨と細っそりと長い手足が相まって、おそらく巷では標準なのだろうが、病的なまでの痩身、という印象を与えた。水色ワンピースの上には黒い長袖のカーディガンを羽織っており、白い重そうなバッグを肩からかけていた。鎖骨まである髪を後ろでまとめ、うなじに張り付いた髪がそのアンバランスさを浮き上がらせた。
二人の注文が終わり人数分の冷水がテーブルに届く頃、ようやく魚住は女性の紹介を始めた。
「まずは紹介するわね、写真サークルの後輩で一回生、カメラ女子の久保田。こっちの目付きの悪いのが愛ちゃん。二回生だけど敬語は使わなくてもいいわ」
魚住の紹介に理由こそ違ってはいたが、二人とも眉をひそめた。
小山内は誰に対しても、苗字しか名乗ったことがない。名前を呼ばれたのも今回が初めてだった。おそらく初めて出会った日に、レポートに書かれたフルネームを見たのだと推測された。
「恵美先輩、何でこの人は名前にちゃん付けで私は苗字なんですか。いつも紗彩って呼んでって言ってるじゃないですかぁ」
「今更でしょもう、愛ちゃんで慣れちゃったから愛ちゃん。久保田で慣れちゃったから久保田」
それが言い訳であると、小山内だけが知っていた。その後も納得がいかない様子の久保田は魚住に抗議していたが、やがて意を決したように向かいに座る人物へと顔を差し向けた。
「……あなたのことは何と呼べば?」
「……小山内」
男は喉を微かに震わせ小山内と名乗った。久保田はその声の低さでようやく小山内を男性だと認識し、驚きを隠せない様子だった。必要最低限以下の挨拶を終えると会話は潰え、再び沈黙が訪れる。小山内にとって沈黙は普段ならば気にすることもない。彼の人間関係は極めて狭く、キャンパス内で話すのは教授を除いてほぼ魚住しか居ないからだ。しかし今回は全くの第三者である久保田から若干の戸惑いと気まずさ、そしてそれらを上回る強い嫉妬がうかがえたため視線を落とした。こうした状況下において、相手を刺激しないためにはそれが最善だと、経験則として知っていた。
テーブルに並んだ二人分のケーキセットに対して写真を撮り騒ぐのを横目に、小山内は窓の外へと目を向けた。窓の外は代わり映えのしない景色が広がっている。むんと立ち込める熱気、蜃気楼のように揺らぐ道路。彼にとって彼女たちのような変化が著しいものを見続けることはかなり労力を要する行為だった。
「久保田は大人しそうに見えて意外と辛辣。態度が人によって露骨に変わるの。こないだだってね……」
二人の会話の内容にはまるで興味がわかず、意味は両耳を通り抜け甲高い声だけが脳内にこびりつく。こびりついた声を掻き消そうとするかのように、本日数回目となる水を一気に流し込んだ。中身のない会話はしばらく続き、次の来客を告げるベルに対して発せられた、店員の間延びした声でようやく途切れた。
「食べ終わったら廃墟へ行くわ。場所は車に乗った後で伝える」
「わかりました」
間髪いれずに返答すると、小山内は目を伏せ沈黙した。魚住はそれだけ告げると目の前のケーキを頬張り、再び小山内の存在をないもののように扱った。
「ちょっと待ってください、何で即答? まだどこに行くかもちゃんと言ってないのに……」
「いつもこんなもんよ、私のことが好きだから何でも言うことを聞くの、ね?」
ただでさえやかましい会話を聞かされて辟易としている小山内は言葉を発することすら億劫そうに目を細めた。沈黙を肯定と受け取ったのか、久保田は矢継ぎ早に質問を重ねた。
「信じられない。おふたりはどういう関係なんですか? っていうか私のほうが恵美先輩のこと好きだし、入学してからずっと一緒にいたけどあんたのことなんて知らない。あんたほんと恵美先輩のなんなの?」
敵意を剥き出しにした久保田はふたりに詰め寄った。
「んー……まず毎朝家まで迎えに来てもらうでしょ? 門まで送ってもらったら愛ちゃんは家に戻る。久保田とはキャンパスに入ってからしか会ってない。それに久保田の家は門限が早いからサークルが終わったらすぐ帰るでしょう? 私はその後、飲み会行ったりして、最後、家まで送り届けてもらう。そんな感じ」
「……は?」
理解が追い付かない、とばかりに久保田は首を振った。
「すると何ですか、私が知らないところで二人は毎日会ってるってこと?何ですかそれ、そんなの知らない!!」
「まぁ、あんたに言わなきゃいけないなんて義務ないし」
ヒステリックに叫ぶ久保田に対しても魚住は平静を保ったままだった。そんなことよりもケーキ残さないでね、私の奢りなんだから、と言い放つと自らのケーキにフォークを刺した。久保田はむせながらも、無理矢理ケーキを口へと運んだ。
「やだなぁ、そんな捨て犬みたいな顔しないでよ。私が悪いみたいじゃん。……愛ちゃんと言い久保田と言い、あんたら似てるわ。犬属性なとことか。忠犬よねぇ、エサも与えてないのに尻尾千切れそうなくらいに振っちゃってさ」
食い気味に、久保田は答えた。あからさまに嫌悪感を滲ませた声色だった。
「似てなんかいません。絶対に。……それで、その人は先輩のなんなんですか。まさか恋人なんてことはありませんよね?」
「まさか。……そうね、野良犬に傘を差し伸べたらついてきちゃった、みたいな?」
「どういうたとえなんですかそれ。それに、捨て犬じゃなくて?」
「野良犬よ。捨て犬なんて可愛いもんじゃないわ」
乾いた笑いと共に吐き捨てるように言った。
「ストーカーみたいなもんよ。ぶつかっちゃったが運の尽き、恩を返すまで付きまといますってね。おわびに少しお金を貸しただけなのに。返す程のお金もないの。普通楽な単位の講義を取ってバイトするでしょう? こいつはバカみたいにバイトもするけど、奨学金欲しさにバカみたいに分厚い論文みたいなレポート書いて提出すんの。これが教授にバカ受けでさ。講義中ずっと寝てるくせに評価がいいのよ」
ほぼ大卒の資格を得るためのモラトリアム期間と化している大学で、小山内ほどのレベルで学問に精を出す人間は全体のどれほどを占めるだろうか。対する魚住は一般的な学生である。卒業要件をギリギリ満たす程度の講義のみ受講し、残りの大半をサークル活動とその交友に充てていた。学部も違う二人に接点は生じないはずだった。
「たまたまぶつかったのよ、雨の日に。そしたらそのレポートぶちまけちゃって。分厚すぎて印刷枠超えちゃってて、お金もろくに持ってないのに、締切はその日までだって、捨て犬みたいな顔したから。流石に悪いかなーと思って私の枠を使って印刷したの。まさかそんな分厚いレポートだと思わないじゃない? 結局私の枠も越えちゃったから課金して、こいつ課金の仕方も知らないって言うから教えてやって。そしたらお礼するまで帰らないって言い始めて」
彼らの所属する大学では年間約千枚分が無料で印刷できる制度があり、一年に定額分の印刷枠が学生証に付与されていた。上限を超えた分は有料で印刷枠を増枠することができた。
「気持ち悪いですね」
「ほんとね。あんたも似たようなもんだけど」
「そんなことないですよ、可愛い後輩の戯れじゃないですかぁ」
甘ったるい猫撫で声で媚びると、久保田は次々にケーキを口元に運んだ。先程までの感情的な態度は何だったのだろうかと思うほど、もうケロリとしていた。魚住もそれに慣れているのか、軽く受け流す程度だった。
「……それで、あんまりにも頑なだから、じゃあ今学期の私の分のレポート書いてよって冗談で言ったら分かりました、講義名を教えてくださいって言うから、そのとき書けてなかったやつ全部教えたのね。そしたら三日後には全部終わった、って持ってきたのよ。学部も違う癖に辞書みたいに分厚いやつ」
こーんなによ、こーんなに。と身振り手振りでいかにそのレポートが分厚かったかを力説した。魚住は小山内の存在について誰にも話したことがない。類は友を呼ぶと言われないよう、関わり合いになってはいけない手合いだと思われないよう、その関係性をキャンパスの外ですべて終わらせていた。望んで持ったわけではない秘密を守り続けることは難しく、口をつぐみ続けることに限界を感じていた。共犯者を得た今、水を得た魚のように語り続けた。
「うわぁ……それ、本当に提出したんですか?」
「使い物にならないわよ、あんなの。私が書いたわけないって一目でわかるじゃない。めちゃくちゃ要約して提出してやったわ。お陰様でGPA爆上がりよ」
話がひと段落つくと、魚住は残っていた最後のひと口を大口で放り込こんだ。久保田は小山内をにらみ、魚住に話を続けるよう促した。
「で、それで終わりじゃないんですね」
「これで十分だって言ってるのに付きまとってくるから、逆に便利に使ってやろうと思って」
魚住はコップに残ったアイスコーヒーを一気に飲みほした。
「本当に常識も知らない、しつけもされてない野良犬。誰からも見向きされずにいたから、普通に接しただけでバカみたいに懐いちゃう。そのくせ主人の言うことなんか聞きやしない。自分が主人なんだから。だから、こいつは野良犬」
話は終わった、とばかりに伝票を持って魚住は立ち上がった。
「ま、そんなことどうだっていいのよ、暗くなる前に行きましょ」
男は窓の外を眺めながら大学図書館で借りたハードカバーをぱらぱらとめくった。表紙が閉じる少し重めの音を聞きながら、同じ行動を繰り返す。窓の外は茹だるほど蒸暑く、頼んだアイスコーヒーのグラスは汗のように結露を発していた。喫茶店の片隅のテーブル席はクーラーが効きにくく、アイスコーヒーはとっくに氷水になっていたが、待ち人はまだ現れない。待ち人である女はいつも唐突に呼び付けては彼を待たせ、足のように車を出させた。奨学金を貰い続けるために勉学に励まなければならないにも関わらず、その間は何も手に付かず、無為に時が過ぎていくのを待つより他にはなくなってしまうのだ。
その男の様相は異様だと言えた。極度の猫背であり、着用しているオーバーサイズのチェックシャツがよりそれを強調していた。その上シャツの素材は明らかに冬物で、ボタンは第一ボタンまで留められていた。幾重にも折り曲げた袖からは第二関節より先しか出ておらず、微かに骨張った関節から辛うじて男だと判別できるのみである。髪は目に掛かるほど長く、大きな丸眼鏡の上を覆っていた。眼鏡の奥には眼光の鋭い切れ長の目があったが、一見しただけでは性別が分からないほど整った顔をしていた。
待ち人が現れたのは、アイスコーヒーの結露がテーブルに水溜りを作り、氷すら溶けてなくなった頃だった。来客を告げるベルの音が鳴り、彼は扉へとおもむろに視線を向けた。扉から待ち人が入って来るのが見え、連れ立ってもう一人の人影が見えたが、知らない顔だったためタイミングよく入ってきた他人だと思っていた。
しかし待ち人が近づいてくるにつれ、彼女がもう一人の手を引いているのが目に入り、思わず怪訝な顔になった。手を引かれている女も彼の存在に気付くと、不愉快そうに目を細め顔を歪ませた。
開口一番、謝罪もなく待ち人は彼に告げた。
「車を出して欲しいの、山奥の廃墟まで」
*
待ち人の名前は魚住恵美と言った。魚住には彼の存在は見えないかのように、隣に座った女性と和気藹々とどのケーキを頼むか話している。女性は魚住の様子にも彼の存在にも戸惑いを隠せないようで、細い目でチラチラと彼に視線を向けた。
彼女は骨張った鎖骨と細っそりと長い手足が相まって、おそらく巷では標準なのだろうが、病的なまでの痩身、という印象を与えた。水色ワンピースの上には黒い長袖のカーディガンを羽織っており、白い重そうなバッグを肩からかけていた。鎖骨まである髪を後ろでまとめ、うなじに張り付いた髪がそのアンバランスさを浮き上がらせた。
二人の注文が終わり人数分の冷水がテーブルに届く頃、ようやく魚住は女性の紹介を始めた。
「まずは紹介するわね、写真サークルの後輩で一回生、カメラ女子の久保田。こっちの目付きの悪いのが愛ちゃん。二回生だけど敬語は使わなくてもいいわ」
魚住の紹介に理由こそ違ってはいたが、二人とも眉をひそめた。
小山内は誰に対しても、苗字しか名乗ったことがない。名前を呼ばれたのも今回が初めてだった。おそらく初めて出会った日に、レポートに書かれたフルネームを見たのだと推測された。
「恵美先輩、何でこの人は名前にちゃん付けで私は苗字なんですか。いつも紗彩って呼んでって言ってるじゃないですかぁ」
「今更でしょもう、愛ちゃんで慣れちゃったから愛ちゃん。久保田で慣れちゃったから久保田」
それが言い訳であると、小山内だけが知っていた。その後も納得がいかない様子の久保田は魚住に抗議していたが、やがて意を決したように向かいに座る人物へと顔を差し向けた。
「……あなたのことは何と呼べば?」
「……小山内」
男は喉を微かに震わせ小山内と名乗った。久保田はその声の低さでようやく小山内を男性だと認識し、驚きを隠せない様子だった。必要最低限以下の挨拶を終えると会話は潰え、再び沈黙が訪れる。小山内にとって沈黙は普段ならば気にすることもない。彼の人間関係は極めて狭く、キャンパス内で話すのは教授を除いてほぼ魚住しか居ないからだ。しかし今回は全くの第三者である久保田から若干の戸惑いと気まずさ、そしてそれらを上回る強い嫉妬がうかがえたため視線を落とした。こうした状況下において、相手を刺激しないためにはそれが最善だと、経験則として知っていた。
テーブルに並んだ二人分のケーキセットに対して写真を撮り騒ぐのを横目に、小山内は窓の外へと目を向けた。窓の外は代わり映えのしない景色が広がっている。むんと立ち込める熱気、蜃気楼のように揺らぐ道路。彼にとって彼女たちのような変化が著しいものを見続けることはかなり労力を要する行為だった。
「久保田は大人しそうに見えて意外と辛辣。態度が人によって露骨に変わるの。こないだだってね……」
二人の会話の内容にはまるで興味がわかず、意味は両耳を通り抜け甲高い声だけが脳内にこびりつく。こびりついた声を掻き消そうとするかのように、本日数回目となる水を一気に流し込んだ。中身のない会話はしばらく続き、次の来客を告げるベルに対して発せられた、店員の間延びした声でようやく途切れた。
「食べ終わったら廃墟へ行くわ。場所は車に乗った後で伝える」
「わかりました」
間髪いれずに返答すると、小山内は目を伏せ沈黙した。魚住はそれだけ告げると目の前のケーキを頬張り、再び小山内の存在をないもののように扱った。
「ちょっと待ってください、何で即答? まだどこに行くかもちゃんと言ってないのに……」
「いつもこんなもんよ、私のことが好きだから何でも言うことを聞くの、ね?」
ただでさえやかましい会話を聞かされて辟易としている小山内は言葉を発することすら億劫そうに目を細めた。沈黙を肯定と受け取ったのか、久保田は矢継ぎ早に質問を重ねた。
「信じられない。おふたりはどういう関係なんですか? っていうか私のほうが恵美先輩のこと好きだし、入学してからずっと一緒にいたけどあんたのことなんて知らない。あんたほんと恵美先輩のなんなの?」
敵意を剥き出しにした久保田はふたりに詰め寄った。
「んー……まず毎朝家まで迎えに来てもらうでしょ? 門まで送ってもらったら愛ちゃんは家に戻る。久保田とはキャンパスに入ってからしか会ってない。それに久保田の家は門限が早いからサークルが終わったらすぐ帰るでしょう? 私はその後、飲み会行ったりして、最後、家まで送り届けてもらう。そんな感じ」
「……は?」
理解が追い付かない、とばかりに久保田は首を振った。
「すると何ですか、私が知らないところで二人は毎日会ってるってこと?何ですかそれ、そんなの知らない!!」
「まぁ、あんたに言わなきゃいけないなんて義務ないし」
ヒステリックに叫ぶ久保田に対しても魚住は平静を保ったままだった。そんなことよりもケーキ残さないでね、私の奢りなんだから、と言い放つと自らのケーキにフォークを刺した。久保田はむせながらも、無理矢理ケーキを口へと運んだ。
「やだなぁ、そんな捨て犬みたいな顔しないでよ。私が悪いみたいじゃん。……愛ちゃんと言い久保田と言い、あんたら似てるわ。犬属性なとことか。忠犬よねぇ、エサも与えてないのに尻尾千切れそうなくらいに振っちゃってさ」
食い気味に、久保田は答えた。あからさまに嫌悪感を滲ませた声色だった。
「似てなんかいません。絶対に。……それで、その人は先輩のなんなんですか。まさか恋人なんてことはありませんよね?」
「まさか。……そうね、野良犬に傘を差し伸べたらついてきちゃった、みたいな?」
「どういうたとえなんですかそれ。それに、捨て犬じゃなくて?」
「野良犬よ。捨て犬なんて可愛いもんじゃないわ」
乾いた笑いと共に吐き捨てるように言った。
「ストーカーみたいなもんよ。ぶつかっちゃったが運の尽き、恩を返すまで付きまといますってね。おわびに少しお金を貸しただけなのに。返す程のお金もないの。普通楽な単位の講義を取ってバイトするでしょう? こいつはバカみたいにバイトもするけど、奨学金欲しさにバカみたいに分厚い論文みたいなレポート書いて提出すんの。これが教授にバカ受けでさ。講義中ずっと寝てるくせに評価がいいのよ」
ほぼ大卒の資格を得るためのモラトリアム期間と化している大学で、小山内ほどのレベルで学問に精を出す人間は全体のどれほどを占めるだろうか。対する魚住は一般的な学生である。卒業要件をギリギリ満たす程度の講義のみ受講し、残りの大半をサークル活動とその交友に充てていた。学部も違う二人に接点は生じないはずだった。
「たまたまぶつかったのよ、雨の日に。そしたらそのレポートぶちまけちゃって。分厚すぎて印刷枠超えちゃってて、お金もろくに持ってないのに、締切はその日までだって、捨て犬みたいな顔したから。流石に悪いかなーと思って私の枠を使って印刷したの。まさかそんな分厚いレポートだと思わないじゃない? 結局私の枠も越えちゃったから課金して、こいつ課金の仕方も知らないって言うから教えてやって。そしたらお礼するまで帰らないって言い始めて」
彼らの所属する大学では年間約千枚分が無料で印刷できる制度があり、一年に定額分の印刷枠が学生証に付与されていた。上限を超えた分は有料で印刷枠を増枠することができた。
「気持ち悪いですね」
「ほんとね。あんたも似たようなもんだけど」
「そんなことないですよ、可愛い後輩の戯れじゃないですかぁ」
甘ったるい猫撫で声で媚びると、久保田は次々にケーキを口元に運んだ。先程までの感情的な態度は何だったのだろうかと思うほど、もうケロリとしていた。魚住もそれに慣れているのか、軽く受け流す程度だった。
「……それで、あんまりにも頑なだから、じゃあ今学期の私の分のレポート書いてよって冗談で言ったら分かりました、講義名を教えてくださいって言うから、そのとき書けてなかったやつ全部教えたのね。そしたら三日後には全部終わった、って持ってきたのよ。学部も違う癖に辞書みたいに分厚いやつ」
こーんなによ、こーんなに。と身振り手振りでいかにそのレポートが分厚かったかを力説した。魚住は小山内の存在について誰にも話したことがない。類は友を呼ぶと言われないよう、関わり合いになってはいけない手合いだと思われないよう、その関係性をキャンパスの外ですべて終わらせていた。望んで持ったわけではない秘密を守り続けることは難しく、口をつぐみ続けることに限界を感じていた。共犯者を得た今、水を得た魚のように語り続けた。
「うわぁ……それ、本当に提出したんですか?」
「使い物にならないわよ、あんなの。私が書いたわけないって一目でわかるじゃない。めちゃくちゃ要約して提出してやったわ。お陰様でGPA爆上がりよ」
話がひと段落つくと、魚住は残っていた最後のひと口を大口で放り込こんだ。久保田は小山内をにらみ、魚住に話を続けるよう促した。
「で、それで終わりじゃないんですね」
「これで十分だって言ってるのに付きまとってくるから、逆に便利に使ってやろうと思って」
魚住はコップに残ったアイスコーヒーを一気に飲みほした。
「本当に常識も知らない、しつけもされてない野良犬。誰からも見向きされずにいたから、普通に接しただけでバカみたいに懐いちゃう。そのくせ主人の言うことなんか聞きやしない。自分が主人なんだから。だから、こいつは野良犬」
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