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終章
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あの後、母は小山内に早く風呂を入るように勧め、新しい服を用意し、日が明ける前に玄関から車までを丁寧に掃除をした。証拠となり得るものは徹底的に排除された。兄は部屋から出てくることはなかったが、何かが起こっていることは敏感に感じ取ったようで、それから数日の間は暴力を振るうことはなかった。あくまで数日の話だったが。
久保田の捜索願は当日のうちに出されていたが、更新はされなかった。と言うのも両親も親しい人物を把握していなかったし、学部にも、サークルにも然程親しい人間はいなかった。SNSに載った女装した小山内とのツーショットを見せても誰も心当たりがなく、唯一親しいと証言が得られた人間、白羽の矢が立ったのが魚住だった。
警察は参考人として事情を聞いた程度に過ぎないが、警察に疑われていると感じた魚住は父親に言いつけた。魚住の父は影響力のある資産家で、傷心の娘を庇い警察に圧力をかけた。久保田の両親は娘の扱いに手を焼いていたようで、捜索届を更新しなかった。捜索届を更新しない以上、警察もそれ以上の追及をやめ、捜査を打ち切った。
小山内は予想以上に早く捜査が打ち切られたことに呆然とした。これでは復讐にならない。手を汚しただけ無駄だったのではないか? という考えが頭をもたげたが、時は戻らない。
久保田の失踪がSNSで拡散され新聞に載る頃、母は自分の息子と事件の関連性に気付き、ヒステリックに喚き立てた。肩に強く爪が食い込み、久保田につけられた傷跡が開く。
もしも。もしも死体が見つかって、久保田の爪に食い込んだ血液から小山内のDNAが検出されたとして。小山内までたどり着いたなら、どの傷のことですか、と聞いてやろうと思っていたのに、残念だった。
*
任意同行を求められた魚住は事情聴取を受けた後、真っ先に小山内を呼び出した。サークルには人身御供とばかりに魚住を差し出した人間しかいない。うっかり口を滑らせようものなら、警察や週刊誌に筒抜けになってしまうだろう。小山内の他に、久保田について話せる共通の知り合いがいなかった。
「まさかこんなことになるなんて……」
赤いセダンの中で、魚住が呟く。憔悴しきった魚住を見るのは初めてのことだった。いつも自信に満ち溢れていて、我が道を突き進む女。それが今、あろうことか小山内という社会的弱者の前で弱音を吐いている。
「久保田が勝手にまとわりついてただけなのに、どうしてこんなことになるの」
顔を覆い嗚咽を漏らす様子を見慣れずそわそわする。そもそも女の涙を見ることがほとんどない。間接的とは言え、小山内が泣かせたのだと思うと、昨日の久保田を連想させた。
魚住はしばらくの間そうしてじっとしていたが、不意に涙を拭き前を向いた。
「私のせいみたいじゃない。久保田が勝手にいなくなっただけなのに。大体あの子ったら……」
話しているうちにいつもの調子を取り戻した。切り替えの速さに流石の小山内も面食らう。
そうだ、そうだった。この女はそういう人間だった。だからこそ、殺してやろうと思ったのに。こうして今も小山内の目の前にいる。
「警察は私を疑ってる。帰りたくない……」
魚住が小山内に向かわせたのは、それなりに格式のあるホテルだった。
*
魚住は慣れた様子でチェックインすると、我が物顔でダブルベッドに腰掛けた。ツインベッドの部屋が空いていなかったので、仕方なくこの部屋になった。
魚住は小山内のことを男として見ていない。ただ家に帰りたくないし、一人にもなりたくない。久保田なき今、都合の良い人間が小山内しか存在しなかった、ただそれだけだった。
魚住は疑われ自尊心を傷付けられたと思っている。ちっぽけなプライドに細かい傷がついたところで、対等ではないのに。傷を舐め合うと言うには傷の程度に差がありすぎた。
「体洗ってあげるわよ」
「やめてください」
「変な気起こすんじゃないわよ? ワンちゃんみたいなもんだし恥ずかしがらないの」
魚住は小山内の服を無理矢理まくり上げ、絶句した。小山内の身体は血の滲む生傷が絶えなかったが、長年刻まれ続けた虐待の痕の方が、何倍も壮絶に映った。理解が追いつくまでに時間を要したが、自《﹅》分の所有物が自分以外の者に傷物にされたと、筋違いの憤りを感じた。
「それ、どうしたの」
「……家庭の事情で」
嘘は言っていない。九割九分、家庭内暴力でついた傷だった。
「何それ。絶対に許さない。愛ちゃんを傷付けていいのは私だけなんだから」
魚住は小山内を抱きしめた。小山内は魚住の急な行動に戸惑いを覚える。自分を傷つける者を許さない、そんな言葉を聞いたのはもちろん、誰かに抱きしめられるのは、物心がついてから初めてかもしれなかった。小山内はされるがまま深い眠りに落ちた。
*
目覚めると、白くて無機質な天井が目に入る。外泊をしたことがほとんどない小山内は、ここがホテルの一室であることをすぐに理解できない。魚住は既にシャワーを済ませ、ルームサービスを頼んでいた。
「おはよう。早くシャワー浴びてきなよ。愛ちゃんの分は置いとくからさ」
魚住はそう言うとシャワールームに小山内を押し込んだ。低血圧で朝に弱い小山内は、状況を把握できずもそれに従った。扉を閉じて魚住はほっと息をつく。顔を合わせるのが気恥ずかしいような気がしたのだ。魚住は自身の心境の変化に、小山内以上に戸惑いを隠せずにいた。
昨夜は何も起こらなかった。小山内がすぐに眠りに落ちたからだ。魚住は自身の胸のうちで眠る小山内の前髪を耳に掛けた。整った顔が現れる。普段は長い前髪と服装に意識が向くだけで、睫毛は長く、寝顔はまるで天使のようだった。顔だけ見れば、側に置いてあげてもいいかな、と思う。
魚住の周りにはいつも人がいた。ところが今やどうだ。久保田が付きまとい始めた時。そして久保田がいなくなった今。魚住の周りには誰も残らなかった。ただ一人、小山内を除いては。
久保田のことは鬱陶しいと思いつつも、それは常にじゃれついてくる犬に抱くようなもので、本当に邪険に思っていた訳ではなかった。いなくなって初めて気がついた。自分のことを純粋に好いてくれる人なんていないのだと。
生まれた時から人に囲まれていた。お金を使えば好きな人は喜んでくれたし、側にいてくれた。それでも離れて行く人もいたけれど。人に好かれるためにはお金を振り撒くしかない、それが普通だと思っていたから、他に引き留める術を知らなかった。。
小山内や久保田のような人間とは関わり合いになりたくないと思っていた。お金を使わなければ離れていくと思ったのに、それでも寄ってくる理解できない人間。久保田や小山内が執着する理由がわからない。お金でないなら私のことが好きなんでしょう、きっと。その考えが傲りであるとは、誰も指摘しない。
小山内の顔を見つめる。自身の感情の正体が何なのか、魚住には判断がつかない。ただ、この男はお金がなくたってきっと側にいてくれるのだろうという予感がある。
だって私のことが好きな、私の所有物なんだから。
*
チェックアウトしてすぐ、魚住は小山内の実家に乗り込んだ。
小山内の実家は一軒家ではあったが、魚住の目には何とも粗末なものに映った。ひょっとしたら床面積は魚住の私室の方が広いかもしれない。駐車場には不釣り合いな車が二台並んでいる。
突然の来訪者に、小山内の母は戸惑いを隠せずにいた。それが出来の悪い方の息子の連れとあれば、なおのことであった。友達すら連れてきたことがないのに、女性を伴って朝帰りしたのだから。
「はじめまして、突然ですが愛ちゃん連れていきます。二度とこの家には戻りませんので。愛ちゃん、荷物ある?」
小山内はふるふると首を横に振った。必要なものは全て車に避難させていた。とは言っても教科書の類いしかないのだが。
「いきなり何ですか、名乗りもしないで。誘拐ですよこんなの」
「あなたなんかに名乗る名前はありません。子供を虐待しておいてよく言えますね。いなくなったって何とも思わないくせに」
魚住の勢いに小山内の母はたじろぐ。どうしてそんなことを知っているのだろう。傷は服で隠れるところにしか付けていないし、身体が弱いからと体育の授業を全て休ませるほど徹底していたのに。正直なところ、何かしらの事件に関係しているであろう得体の知れないモノが家に存在することは不気味であり、家から出て行ってくれるのであれば好都合だった。ただ一つ、金のことを除いては。
「私の子供なのよ。家にお金を入れる義務があるの。産んでやったんだから当然よね? 子供なんだから親に恩返ししないと。お兄ちゃんだってまだ働きにいけないし、車のローンだってあるし、居なくなられると困るのよ」
魚住は嫌悪感もあらわに蔑みの目を向けた。流石の魚住でも、小山内が劣悪な環境で生まれ育ったこと、その元凶が目の前の女であることは理解できた。 つまりこいつが、私の所有物を傷つけた張本人。
「そんなにお金が欲しければ差し上げますよ。このくらいでいいですか?」
魚住は札束の入った鞄を投げ付けた。怪訝な目をしていた小山内の母も、鞄を開けると息を呑んだ。小山内に課していた借金を帳消しにするほどの大金が入っていたからだ。
「それではそういうことで。二度と関わらないでください。お金を払ったんだから一台は愛ちゃんのですよね? 乗っていきますから。お邪魔しました。いくよ、愛ちゃん」
何かを喚く小山内の母を背に、魚住は小山内の腕を掴み、外へと連れ出し、玄関の扉を勢いよく閉めた。
陽の光はあまりにも眩しく、小山内は目を細める。振り返って魚住は微笑む。どこにでも行けるのだと、語りかけるように。
魚住の表情は逆光で隠され、小山内の目には映らなかった。
*
魚住はその足で不動産会社へ行き、小山内のための部屋をその場で契約した。初めは一人暮らしにしては広すぎる部屋を契約しようとした魚住だったが、小山内がそれを止め、最終的には学生向けの1LDKになった。契約の段になって、魚住はようやく小山内の本名を知る。
「愛ちゃんじゃないじゃん! 間違ってるなら言ってよ」
「……紛らわしいので」
「それはそうなんだけど。改名するといいよ。名実ともに愛ちゃんになっちゃえばいいじゃん」
改名。そんな手段もあるのか、と小山内は面食らう。呪いのような名前。小山内にコンプレックスを抱かせた、魚住と同じ読みの名前。誰にも呼ばれることのなかった名前に愛着がある訳でもない。唯一自身を差して呼ばれるのが、魚住の呼ぶ「愛ちゃん」だけだった。心の内で反芻してみる。少しくすぐったいような気がした。それが本名になるのなら、それも悪くない。
小山内は寝床があるだけで十分だと主張したが、魚住はそれを許さなかった。その足で家具家電を買いに行き、日が暮れる頃には人が暮らしていけるような部屋が完成した。魚住は満足気に頷くと、帰路についた。
扉が閉まると、小山内はその場に座り込む。魚住がいなくなると、途端に室内は静けさに包まれた。一人部屋を持ったことのない小山内は、自分だけの空間に落ち着かない。
あれだけ逃れられないと思っていた実家から解放された。改名だってできるかもしれない。急に自身の人生を手渡されて、戸惑いを隠せずにいる。呪いを解かれた姫君のような気分だ、などと柄にもないことを思ってしまう。
魚住にどんな心境の変化があったのか、小山内には理解できない。傷痕が同情に堪えないものだったのだろうか。だとしたら滑稽だった。こちらの行動に関わらず、勝手に疎んだり、施したりする。ある種の傲慢さが滲み出ていた。
数時間後、魚住から呼び出される。忙しのないやつだ、と若干口許が緩む。指定された場所に向かうと、山ほどの荷物を抱えた魚住が立っていた。
「お金の使いすぎで勘当されちゃった。私が契約した部屋だしいいわよね?」
……転がり落ちればいい、と思っていた。まさか自分のところに転がり落ちてくるとは思ってもみなかった。
小山内は車を走らせる。これから帰るべき場所となる部屋へと。
*
事件が露見しないまま四年の歳月が経過した。小山内はそのまま院に進学し、研究室の助手となった。小山内と魚住は今もまだ二人暮らしをしている。変わったことはと言えば、小山内が改名したことと、魚住の姓が変わったこと、そして大きくなった腹をさすっていることくらいである。
客観的に見て、小山内にとって今が最も人生で輝ける季節なのだろう。だが、魚住が小山内の心を手に入れた訳ではない。家庭を持つことになったのも、……子供を持つことになったのも、全て魚住の行動を受け入れただけで、小山内の意思で手に入れたものは何一つない。
……大きく膨らんだ魚住の腹を見る度に、脳裏に久保田がよぎる。小山内が自分の意思で成し遂げたことは犯行だけ。能動的に行為に及んだのも、後にも先にもあの日だけだった。復讐を成し遂げることはできなかった。だがその先に勝ち取るべき成果だけが、その手に与えられている。
あの廃墟は今完全に立ち入り禁止になっている。扉は閉鎖され、登山道も封鎖され、朽ちていくのみだ。久保田の死体が見つかることも、おそらくないだろう。
あの施設は廃業と復活を何度も繰り返していたそうだ。建築物は望まれて生み出され、望まれなくなり潰える。望まれずして生まれ落ちる人間とは大違いだ。それでも、廃墟に対する感傷は、どこか自身と似たものを投影しているからこそ生まれるのだろう。
いつか望まれなくなれば、小山内もあの廃墟と同じ途を辿るのだろう。自身で望んで手に入れたものなどないのだから。
犯行が明るみに出なかったことが果たして幸せなことだったのか、今となっては分からない。
廃墟は人が立ち入ることなく、荒廃の一途を辿っている。
久保田の捜索願は当日のうちに出されていたが、更新はされなかった。と言うのも両親も親しい人物を把握していなかったし、学部にも、サークルにも然程親しい人間はいなかった。SNSに載った女装した小山内とのツーショットを見せても誰も心当たりがなく、唯一親しいと証言が得られた人間、白羽の矢が立ったのが魚住だった。
警察は参考人として事情を聞いた程度に過ぎないが、警察に疑われていると感じた魚住は父親に言いつけた。魚住の父は影響力のある資産家で、傷心の娘を庇い警察に圧力をかけた。久保田の両親は娘の扱いに手を焼いていたようで、捜索届を更新しなかった。捜索届を更新しない以上、警察もそれ以上の追及をやめ、捜査を打ち切った。
小山内は予想以上に早く捜査が打ち切られたことに呆然とした。これでは復讐にならない。手を汚しただけ無駄だったのではないか? という考えが頭をもたげたが、時は戻らない。
久保田の失踪がSNSで拡散され新聞に載る頃、母は自分の息子と事件の関連性に気付き、ヒステリックに喚き立てた。肩に強く爪が食い込み、久保田につけられた傷跡が開く。
もしも。もしも死体が見つかって、久保田の爪に食い込んだ血液から小山内のDNAが検出されたとして。小山内までたどり着いたなら、どの傷のことですか、と聞いてやろうと思っていたのに、残念だった。
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任意同行を求められた魚住は事情聴取を受けた後、真っ先に小山内を呼び出した。サークルには人身御供とばかりに魚住を差し出した人間しかいない。うっかり口を滑らせようものなら、警察や週刊誌に筒抜けになってしまうだろう。小山内の他に、久保田について話せる共通の知り合いがいなかった。
「まさかこんなことになるなんて……」
赤いセダンの中で、魚住が呟く。憔悴しきった魚住を見るのは初めてのことだった。いつも自信に満ち溢れていて、我が道を突き進む女。それが今、あろうことか小山内という社会的弱者の前で弱音を吐いている。
「久保田が勝手にまとわりついてただけなのに、どうしてこんなことになるの」
顔を覆い嗚咽を漏らす様子を見慣れずそわそわする。そもそも女の涙を見ることがほとんどない。間接的とは言え、小山内が泣かせたのだと思うと、昨日の久保田を連想させた。
魚住はしばらくの間そうしてじっとしていたが、不意に涙を拭き前を向いた。
「私のせいみたいじゃない。久保田が勝手にいなくなっただけなのに。大体あの子ったら……」
話しているうちにいつもの調子を取り戻した。切り替えの速さに流石の小山内も面食らう。
そうだ、そうだった。この女はそういう人間だった。だからこそ、殺してやろうと思ったのに。こうして今も小山内の目の前にいる。
「警察は私を疑ってる。帰りたくない……」
魚住が小山内に向かわせたのは、それなりに格式のあるホテルだった。
*
魚住は慣れた様子でチェックインすると、我が物顔でダブルベッドに腰掛けた。ツインベッドの部屋が空いていなかったので、仕方なくこの部屋になった。
魚住は小山内のことを男として見ていない。ただ家に帰りたくないし、一人にもなりたくない。久保田なき今、都合の良い人間が小山内しか存在しなかった、ただそれだけだった。
魚住は疑われ自尊心を傷付けられたと思っている。ちっぽけなプライドに細かい傷がついたところで、対等ではないのに。傷を舐め合うと言うには傷の程度に差がありすぎた。
「体洗ってあげるわよ」
「やめてください」
「変な気起こすんじゃないわよ? ワンちゃんみたいなもんだし恥ずかしがらないの」
魚住は小山内の服を無理矢理まくり上げ、絶句した。小山内の身体は血の滲む生傷が絶えなかったが、長年刻まれ続けた虐待の痕の方が、何倍も壮絶に映った。理解が追いつくまでに時間を要したが、自《﹅》分の所有物が自分以外の者に傷物にされたと、筋違いの憤りを感じた。
「それ、どうしたの」
「……家庭の事情で」
嘘は言っていない。九割九分、家庭内暴力でついた傷だった。
「何それ。絶対に許さない。愛ちゃんを傷付けていいのは私だけなんだから」
魚住は小山内を抱きしめた。小山内は魚住の急な行動に戸惑いを覚える。自分を傷つける者を許さない、そんな言葉を聞いたのはもちろん、誰かに抱きしめられるのは、物心がついてから初めてかもしれなかった。小山内はされるがまま深い眠りに落ちた。
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目覚めると、白くて無機質な天井が目に入る。外泊をしたことがほとんどない小山内は、ここがホテルの一室であることをすぐに理解できない。魚住は既にシャワーを済ませ、ルームサービスを頼んでいた。
「おはよう。早くシャワー浴びてきなよ。愛ちゃんの分は置いとくからさ」
魚住はそう言うとシャワールームに小山内を押し込んだ。低血圧で朝に弱い小山内は、状況を把握できずもそれに従った。扉を閉じて魚住はほっと息をつく。顔を合わせるのが気恥ずかしいような気がしたのだ。魚住は自身の心境の変化に、小山内以上に戸惑いを隠せずにいた。
昨夜は何も起こらなかった。小山内がすぐに眠りに落ちたからだ。魚住は自身の胸のうちで眠る小山内の前髪を耳に掛けた。整った顔が現れる。普段は長い前髪と服装に意識が向くだけで、睫毛は長く、寝顔はまるで天使のようだった。顔だけ見れば、側に置いてあげてもいいかな、と思う。
魚住の周りにはいつも人がいた。ところが今やどうだ。久保田が付きまとい始めた時。そして久保田がいなくなった今。魚住の周りには誰も残らなかった。ただ一人、小山内を除いては。
久保田のことは鬱陶しいと思いつつも、それは常にじゃれついてくる犬に抱くようなもので、本当に邪険に思っていた訳ではなかった。いなくなって初めて気がついた。自分のことを純粋に好いてくれる人なんていないのだと。
生まれた時から人に囲まれていた。お金を使えば好きな人は喜んでくれたし、側にいてくれた。それでも離れて行く人もいたけれど。人に好かれるためにはお金を振り撒くしかない、それが普通だと思っていたから、他に引き留める術を知らなかった。。
小山内や久保田のような人間とは関わり合いになりたくないと思っていた。お金を使わなければ離れていくと思ったのに、それでも寄ってくる理解できない人間。久保田や小山内が執着する理由がわからない。お金でないなら私のことが好きなんでしょう、きっと。その考えが傲りであるとは、誰も指摘しない。
小山内の顔を見つめる。自身の感情の正体が何なのか、魚住には判断がつかない。ただ、この男はお金がなくたってきっと側にいてくれるのだろうという予感がある。
だって私のことが好きな、私の所有物なんだから。
*
チェックアウトしてすぐ、魚住は小山内の実家に乗り込んだ。
小山内の実家は一軒家ではあったが、魚住の目には何とも粗末なものに映った。ひょっとしたら床面積は魚住の私室の方が広いかもしれない。駐車場には不釣り合いな車が二台並んでいる。
突然の来訪者に、小山内の母は戸惑いを隠せずにいた。それが出来の悪い方の息子の連れとあれば、なおのことであった。友達すら連れてきたことがないのに、女性を伴って朝帰りしたのだから。
「はじめまして、突然ですが愛ちゃん連れていきます。二度とこの家には戻りませんので。愛ちゃん、荷物ある?」
小山内はふるふると首を横に振った。必要なものは全て車に避難させていた。とは言っても教科書の類いしかないのだが。
「いきなり何ですか、名乗りもしないで。誘拐ですよこんなの」
「あなたなんかに名乗る名前はありません。子供を虐待しておいてよく言えますね。いなくなったって何とも思わないくせに」
魚住の勢いに小山内の母はたじろぐ。どうしてそんなことを知っているのだろう。傷は服で隠れるところにしか付けていないし、身体が弱いからと体育の授業を全て休ませるほど徹底していたのに。正直なところ、何かしらの事件に関係しているであろう得体の知れないモノが家に存在することは不気味であり、家から出て行ってくれるのであれば好都合だった。ただ一つ、金のことを除いては。
「私の子供なのよ。家にお金を入れる義務があるの。産んでやったんだから当然よね? 子供なんだから親に恩返ししないと。お兄ちゃんだってまだ働きにいけないし、車のローンだってあるし、居なくなられると困るのよ」
魚住は嫌悪感もあらわに蔑みの目を向けた。流石の魚住でも、小山内が劣悪な環境で生まれ育ったこと、その元凶が目の前の女であることは理解できた。 つまりこいつが、私の所有物を傷つけた張本人。
「そんなにお金が欲しければ差し上げますよ。このくらいでいいですか?」
魚住は札束の入った鞄を投げ付けた。怪訝な目をしていた小山内の母も、鞄を開けると息を呑んだ。小山内に課していた借金を帳消しにするほどの大金が入っていたからだ。
「それではそういうことで。二度と関わらないでください。お金を払ったんだから一台は愛ちゃんのですよね? 乗っていきますから。お邪魔しました。いくよ、愛ちゃん」
何かを喚く小山内の母を背に、魚住は小山内の腕を掴み、外へと連れ出し、玄関の扉を勢いよく閉めた。
陽の光はあまりにも眩しく、小山内は目を細める。振り返って魚住は微笑む。どこにでも行けるのだと、語りかけるように。
魚住の表情は逆光で隠され、小山内の目には映らなかった。
*
魚住はその足で不動産会社へ行き、小山内のための部屋をその場で契約した。初めは一人暮らしにしては広すぎる部屋を契約しようとした魚住だったが、小山内がそれを止め、最終的には学生向けの1LDKになった。契約の段になって、魚住はようやく小山内の本名を知る。
「愛ちゃんじゃないじゃん! 間違ってるなら言ってよ」
「……紛らわしいので」
「それはそうなんだけど。改名するといいよ。名実ともに愛ちゃんになっちゃえばいいじゃん」
改名。そんな手段もあるのか、と小山内は面食らう。呪いのような名前。小山内にコンプレックスを抱かせた、魚住と同じ読みの名前。誰にも呼ばれることのなかった名前に愛着がある訳でもない。唯一自身を差して呼ばれるのが、魚住の呼ぶ「愛ちゃん」だけだった。心の内で反芻してみる。少しくすぐったいような気がした。それが本名になるのなら、それも悪くない。
小山内は寝床があるだけで十分だと主張したが、魚住はそれを許さなかった。その足で家具家電を買いに行き、日が暮れる頃には人が暮らしていけるような部屋が完成した。魚住は満足気に頷くと、帰路についた。
扉が閉まると、小山内はその場に座り込む。魚住がいなくなると、途端に室内は静けさに包まれた。一人部屋を持ったことのない小山内は、自分だけの空間に落ち着かない。
あれだけ逃れられないと思っていた実家から解放された。改名だってできるかもしれない。急に自身の人生を手渡されて、戸惑いを隠せずにいる。呪いを解かれた姫君のような気分だ、などと柄にもないことを思ってしまう。
魚住にどんな心境の変化があったのか、小山内には理解できない。傷痕が同情に堪えないものだったのだろうか。だとしたら滑稽だった。こちらの行動に関わらず、勝手に疎んだり、施したりする。ある種の傲慢さが滲み出ていた。
数時間後、魚住から呼び出される。忙しのないやつだ、と若干口許が緩む。指定された場所に向かうと、山ほどの荷物を抱えた魚住が立っていた。
「お金の使いすぎで勘当されちゃった。私が契約した部屋だしいいわよね?」
……転がり落ちればいい、と思っていた。まさか自分のところに転がり落ちてくるとは思ってもみなかった。
小山内は車を走らせる。これから帰るべき場所となる部屋へと。
*
事件が露見しないまま四年の歳月が経過した。小山内はそのまま院に進学し、研究室の助手となった。小山内と魚住は今もまだ二人暮らしをしている。変わったことはと言えば、小山内が改名したことと、魚住の姓が変わったこと、そして大きくなった腹をさすっていることくらいである。
客観的に見て、小山内にとって今が最も人生で輝ける季節なのだろう。だが、魚住が小山内の心を手に入れた訳ではない。家庭を持つことになったのも、……子供を持つことになったのも、全て魚住の行動を受け入れただけで、小山内の意思で手に入れたものは何一つない。
……大きく膨らんだ魚住の腹を見る度に、脳裏に久保田がよぎる。小山内が自分の意思で成し遂げたことは犯行だけ。能動的に行為に及んだのも、後にも先にもあの日だけだった。復讐を成し遂げることはできなかった。だがその先に勝ち取るべき成果だけが、その手に与えられている。
あの廃墟は今完全に立ち入り禁止になっている。扉は閉鎖され、登山道も封鎖され、朽ちていくのみだ。久保田の死体が見つかることも、おそらくないだろう。
あの施設は廃業と復活を何度も繰り返していたそうだ。建築物は望まれて生み出され、望まれなくなり潰える。望まれずして生まれ落ちる人間とは大違いだ。それでも、廃墟に対する感傷は、どこか自身と似たものを投影しているからこそ生まれるのだろう。
いつか望まれなくなれば、小山内もあの廃墟と同じ途を辿るのだろう。自身で望んで手に入れたものなどないのだから。
犯行が明るみに出なかったことが果たして幸せなことだったのか、今となっては分からない。
廃墟は人が立ち入ることなく、荒廃の一途を辿っている。
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感想ありがとうございます。歪なキャラクターたちの結末を最後まで楽しんで読んで頂けたなら、望外の喜びです。この物語は一旦の終わりを迎えますが、この後に訪れる破滅の予感を感じ取っていただけたなら、著者冥利に尽きます。頂いた感想を糧に、これからも精進いたします。