3 / 28
第2話 この庭だけは、静かに光っていた
しおりを挟む
足の裏に伝わる石畳の感触。
今日も変わらない順番で、足元をなぞるように庭園への道を歩く。
風の匂い。温室を抜けた先の、ほのかな草と土の香り。
それだけで、もう“あの場所”が近いと分かる。
今日も、来てくれるだろうか。
扉に指をかけて、そっと開く。
音はない。誰の気配もしない――けれど、昨日までの余韻だけが、静かに残っていた。
ゆっくりと、ピアノの前へ。
鍵盤の位置は指でなぞればすぐに分かる。
呼吸を整えて、手を置いた。
今日の一曲は、少し明るめの旋律にした。
心のどこかで、「あの人に聴いてほしい」と思っているのを、自分でも知っていた。
それは、姉や使用人の前では弾かないような、ほんの少し弾むような、やさしい曲。
そして、演奏の途中――音が届いたのか、誰かがそっと足音を消すように近づいてくる。
僕はすぐに分かった。
“ユリス”だ。
彼の気配は独特で、空気の中に溶けるような静けさを持っている。
風の流れも変わる。彼が来ると、庭が音に満たされるような気がする。
演奏を終えると、彼がいつものように僕の手を取ってきた。
そっと、指が走る。
「き れ い」――。
その三文字が、たったそれだけで、胸をふるわせた。
「ありがとう」
そう返して、僕は自分の指でも、彼の手にそっとなぞってみる。
彼が、くすぐったそうにわずかに笑ったような気配がした。
見えないけれど、きっと、顔もやわらかくなっている――そんな気がした。
言葉がなくても、伝え合えることがある。
この庭では、それが本当にあると信じられる。
家に戻ってから、姉が言った。
「今日も、いい演奏だったわ。……あの庭、やっぱり不思議な場所よね」
「うん。……あそこだけ、なんだか音が、透き通ってる気がする」
「私も昔、よく隠れて行ったのよ。……あそこは、世界と切り離されてて、あたたかいの」
姉の声が少しだけ遠くなる。
たぶん、彼女もまた、何かから逃げたくなる日があるのだ。
僕にとっても、そうだ。
この庭園だけは、僕が“見えないまま”でいられて、
誰にも見張られずに音楽と向き合える。
そして――ユリスがいる。
何者かも分からない。でも、
この人にだけは、もっと聴かせたいと思う音がある。
言葉では言えない感情が、少しずつ、音になっていく。
……こんなふうに人と向き合うのは、きっと、初めてだった。
今日も変わらない順番で、足元をなぞるように庭園への道を歩く。
風の匂い。温室を抜けた先の、ほのかな草と土の香り。
それだけで、もう“あの場所”が近いと分かる。
今日も、来てくれるだろうか。
扉に指をかけて、そっと開く。
音はない。誰の気配もしない――けれど、昨日までの余韻だけが、静かに残っていた。
ゆっくりと、ピアノの前へ。
鍵盤の位置は指でなぞればすぐに分かる。
呼吸を整えて、手を置いた。
今日の一曲は、少し明るめの旋律にした。
心のどこかで、「あの人に聴いてほしい」と思っているのを、自分でも知っていた。
それは、姉や使用人の前では弾かないような、ほんの少し弾むような、やさしい曲。
そして、演奏の途中――音が届いたのか、誰かがそっと足音を消すように近づいてくる。
僕はすぐに分かった。
“ユリス”だ。
彼の気配は独特で、空気の中に溶けるような静けさを持っている。
風の流れも変わる。彼が来ると、庭が音に満たされるような気がする。
演奏を終えると、彼がいつものように僕の手を取ってきた。
そっと、指が走る。
「き れ い」――。
その三文字が、たったそれだけで、胸をふるわせた。
「ありがとう」
そう返して、僕は自分の指でも、彼の手にそっとなぞってみる。
彼が、くすぐったそうにわずかに笑ったような気配がした。
見えないけれど、きっと、顔もやわらかくなっている――そんな気がした。
言葉がなくても、伝え合えることがある。
この庭では、それが本当にあると信じられる。
家に戻ってから、姉が言った。
「今日も、いい演奏だったわ。……あの庭、やっぱり不思議な場所よね」
「うん。……あそこだけ、なんだか音が、透き通ってる気がする」
「私も昔、よく隠れて行ったのよ。……あそこは、世界と切り離されてて、あたたかいの」
姉の声が少しだけ遠くなる。
たぶん、彼女もまた、何かから逃げたくなる日があるのだ。
僕にとっても、そうだ。
この庭園だけは、僕が“見えないまま”でいられて、
誰にも見張られずに音楽と向き合える。
そして――ユリスがいる。
何者かも分からない。でも、
この人にだけは、もっと聴かせたいと思う音がある。
言葉では言えない感情が、少しずつ、音になっていく。
……こんなふうに人と向き合うのは、きっと、初めてだった。
16
あなたにおすすめの小説
聖女召喚の巻き添えで喚ばれた「オマケ」の男子高校生ですが、魔王様の「抱き枕」として重宝されています
八百屋 成美
BL
聖女召喚に巻き込まれて異世界に来た主人公。聖女は優遇されるが、魔力のない主人公は城から追い出され、魔の森へ捨てられる。
そこで出会ったのは、強大な魔力ゆえに不眠症に悩む魔王。なぜか主人公の「匂い」や「体温」だけが魔王を安眠させることができると判明し、魔王城で「生きた抱き枕」として飼われることになる。
虚ろな檻と翡翠の魔石
篠雨
BL
「本来の寿命まで、悪役の身体に入ってやり過ごしてよ」
不慮の事故で死んだ僕は、いい加減な神様の身勝手な都合により、異世界の悪役・レリルの器へ転生させられてしまう。
待っていたのは、一生を塔で過ごし、魔力を搾取され続ける孤独な日々。だが、僕を管理する強面の辺境伯・ヨハンが運んでくる薪や食事、そして不器用な優しさが、凍てついた僕の心を次第に溶かしていく。
しかし、穏やかな時間は長くは続かない。魔力を捧げるたびに脳内に流れ込む本物のレリルの記憶と領地を襲う未曾有の魔物の群れ。
「僕が、この場所と彼を守る方法はこれしかない」
記憶に翻弄され頭は混乱する中、魔石化するという残酷な決断を下そうとするが――。
【完結】巷で噂の国宝級イケメンの辺境伯は冷徹なので、まっっったくモテませんが、この度婚約者ができました。
明太子
BL
オーディスは国宝級イケメンであるにも関わらず、冷徹な性格のせいで婚約破棄されてばかり。
新たな婚約者を探していたところ、パーティーで給仕をしていた貧乏貴族の次男セシルと出会い、一目惚れしてしまう。
しかし、恋愛偏差値がほぼ0のオーディスのアプローチは空回りするわ、前婚約者のフランチェスカの邪魔が入るわとセシルとの距離は縮まったり遠ざかったり…?
冷徹だったはずなのに溺愛まっしぐらのオーディスと元気だけどおっちょこちょいなセシルのドタバタラブコメです。
異世界転移した元コンビニ店長は、獣人騎士様に嫁入りする夢は……見ない!
めがねあざらし
BL
過労死→異世界転移→体液ヒーラー⁈
社畜すぎて魂が擦り減っていたコンビニ店長・蓮は、女神の凡ミスで異世界送りに。
もらった能力は“全言語理解”と“回復力”!
……ただし、回復スキルの発動条件は「体液経由」です⁈
キスで癒す? 舐めて治す? そんなの変態じゃん!
出会ったのは、狼耳の超絶無骨な騎士・ロナルドと、豹耳騎士・ルース。
最初は“保護対象”だったのに、気づけば戦場の最前線⁈
攻めも受けも騒がしい異世界で、蓮の安眠と尊厳は守れるのか⁉
--------------------
※現在同時掲載中の「捨てられΩ、癒しの異能で獣人将軍に囲われてます!?」の元ネタです。出しちゃった!
令嬢に転生したと思ったけどちょっと違った
しそみょうが
BL
前世男子大学生だったが今世では公爵令嬢に転生したアシュリー8歳は、王城の廊下で4歳年下の第2王子イーライに一目惚れされて婚約者になる。なんやかんやで両想いだった2人だが、イーライの留学中にアシュリーに成長期が訪れ立派な青年に成長してしまう。アシュリーが転生したのは女性ではなくカントボーイだったのだ。泣く泣く婚約者を辞するアシュリーは名前を変えて王城の近衛騎士となる。婚約者にフラれて隣国でグレたと噂の殿下が5年ぶりに帰国してーー?
という、婚約者大好き年下王子☓元令嬢のカントボーイ騎士のお話です。前半3話目までは子ども時代で、成長した後半にR18がちょこっとあります♡
短編コメディです
呪われた辺境伯は、異世界転生者を手放さない
波崎 亨璃
BL
ーーー呪われた辺境伯に捕まったのは、俺の方だった。
異世界に迷い込んだ駆真は「呪われた辺境伯」と呼ばれるレオニスの領地に落ちてしまう。
強すぎる魔力のせいで、人を近づけることができないレオニス。
彼に触れれば衰弱し、最悪の場合、命を落とす。
しかしカルマだけはなぜかその影響を一切受けなかった。その事実に気づいたレオニスは次第にカルマを手放さなくなっていく。
「俺に触れられるのは、お前だけだ」
呪いよりも重い執着と孤独から始まる、救済BL。
となります。
転生したら魔王の息子だった。しかも出来損ないの方の…
月乃
BL
あぁ、やっとあの地獄から抜け出せた…
転生したと気づいてそう思った。
今世は周りの人も優しく友達もできた。
それもこれも弟があの日動いてくれたからだ。
前世と違ってとても優しく、俺のことを大切にしてくれる弟。
前世と違って…?いいや、前世はひとりぼっちだった。仲良くなれたと思ったらいつの間にかいなくなってしまった。俺に近づいたら消える、そんな噂がたって近づいてくる人は誰もいなかった。
しかも、両親は高校生の頃に亡くなっていた。
俺はこの幸せをなくならせたくない。
そう思っていた…
転生したらスパダリに囲われていました……え、違う?
米山のら
BL
王子悠里。苗字のせいで“王子さま”と呼ばれ、距離を置かれてきた、ぼっち新社会人。
ストーカーに追われ、車に轢かれ――気づけば豪奢なベッドで目を覚ましていた。
隣にいたのは、氷の騎士団長であり第二王子でもある、美しきスパダリ。
「愛してるよ、私のユリタン」
そう言って差し出されたのは、彼色の婚約指輪。
“最難関ルート”と恐れられる、甘さと狂気の狭間に立つ騎士団長。
成功すれば溺愛一直線、けれど一歩誤れば廃人コース。
怖いほどの執着と、甘すぎる愛の狭間で――悠里の新しい人生は、いったいどこへ向かうのか?
……え、違う?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる