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第1話:その人の名前を、まだ知らない
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昨日の音が、まだ胸の奥に残っていた。
風の気配、足音、沈黙の重なり――あの人は一言も話さなかった。
それでも、確かにそこに“誰か”がいたことを、僕は感じていた。
見られることは、基本的に苦手だ。
僕には見えないぶん、誰かの視線は空気に刺さるように伝わってくる。
けれど昨日のそれは、痛くなかった。
優しくて、少しあたたかくて、ずっとあの場に残っていた気がする。
……また、来てくれるだろうか。
「レオ、起きてる?」
扉の開く音と共に、姉の声が届く。
足音のリズム、パンと布がこすれる音――朝食のトレイを運んでいるらしい。
「朝食、持ってきたよ。今日はちゃんと焦げてない……はず」
「うん。ありがとう。……焦げてても、姉さんのパンは好きだよ」
「もう、そういうこと言うの、ほんと上手くなったね。誰に教わったの?」
ふっと笑う声と、ベッドの端に腰かける柔らかな沈み。
姉――エレナは、いつもこうして、僕の“見えない世界”に気を遣ってくれる。
「今日も……あそこ、行くの?」
パンを渡してくれるとき、手が僕の指先にそっと触れた。
「うん。……行きたい」
「気をつけて。誰にも見つからないようにね」
午後になって、僕は歩き出した。
杖を使うほどではないけれど、手のひらで壁の感触を確かめながら進む。
階段の段差は、足の裏で数えて覚えている。
風の流れと、土の匂いが近づいてくると――旧温室の先、あの庭園に着く。
扉の前で息を整え、ゆっくりと手探りで取っ手を探す。
冷たい鉄に触れ、そっと開いた瞬間――空気が違っていた。
音はなかった。けれど、空気がふわりと揺れていた。
静かで、でも柔らかくて、昨日感じた“誰か”の余韻が残っている気がした。
僕はいつものように、手を伸ばしてピアノの位置を確認し、そっと腰を下ろす。
椅子の角度、鍵盤の感触。これが僕の場所だ。
音を奏で始める。
音は見えないけれど、触れるように感じることがある。
空気が震え、鳥が枝を渡る音が遠くで重なる。
けれど、演奏の途中で“気配”が揺らいだ。
足音はしない。でも、空気が少しだけ変わる。
風の流れが、“誰かの存在”を避けるように動いた。
「……昨日の人、だよね?」
演奏を止め、静かに声をかける。
やっぱり返事はない。
けれど、気配は逃げなかった。
むしろ少しずつ、近づいてくる。
怖くない。不思議だけど、そう思える。
そして――ふいに、僕の手のひらがそっと取られた。
指先が、僕の手の上を滑る。
ゆっくり、ていねいに、文字をなぞるように。
ユ。
リ。
ス。
くすぐったいような感触に、小さく笑いがこぼれた。
「……ユリス……名前、なの?」
少しだけ待っていると、手が小さく動いた。
たぶん、頷いてくれたのだと思う。
声はなかった。でも、ちゃんと伝えようとしてくれていた。
その静かな誠実さが、指のひらからじんわり伝わってきた。
ユリス。
名前を知っただけで、距離が近づいたような気がした。
本当は、もっと聞きたいことがたくさんある。
名前だけじゃ、何も分からない。
だけど今は、それで十分だった。
風がそっと頬を撫でる。
目には見えないけれど――この人は、きっとまた来てくれる。
そう感じられるだけで、胸があたたかくなった。
風の気配、足音、沈黙の重なり――あの人は一言も話さなかった。
それでも、確かにそこに“誰か”がいたことを、僕は感じていた。
見られることは、基本的に苦手だ。
僕には見えないぶん、誰かの視線は空気に刺さるように伝わってくる。
けれど昨日のそれは、痛くなかった。
優しくて、少しあたたかくて、ずっとあの場に残っていた気がする。
……また、来てくれるだろうか。
「レオ、起きてる?」
扉の開く音と共に、姉の声が届く。
足音のリズム、パンと布がこすれる音――朝食のトレイを運んでいるらしい。
「朝食、持ってきたよ。今日はちゃんと焦げてない……はず」
「うん。ありがとう。……焦げてても、姉さんのパンは好きだよ」
「もう、そういうこと言うの、ほんと上手くなったね。誰に教わったの?」
ふっと笑う声と、ベッドの端に腰かける柔らかな沈み。
姉――エレナは、いつもこうして、僕の“見えない世界”に気を遣ってくれる。
「今日も……あそこ、行くの?」
パンを渡してくれるとき、手が僕の指先にそっと触れた。
「うん。……行きたい」
「気をつけて。誰にも見つからないようにね」
午後になって、僕は歩き出した。
杖を使うほどではないけれど、手のひらで壁の感触を確かめながら進む。
階段の段差は、足の裏で数えて覚えている。
風の流れと、土の匂いが近づいてくると――旧温室の先、あの庭園に着く。
扉の前で息を整え、ゆっくりと手探りで取っ手を探す。
冷たい鉄に触れ、そっと開いた瞬間――空気が違っていた。
音はなかった。けれど、空気がふわりと揺れていた。
静かで、でも柔らかくて、昨日感じた“誰か”の余韻が残っている気がした。
僕はいつものように、手を伸ばしてピアノの位置を確認し、そっと腰を下ろす。
椅子の角度、鍵盤の感触。これが僕の場所だ。
音を奏で始める。
音は見えないけれど、触れるように感じることがある。
空気が震え、鳥が枝を渡る音が遠くで重なる。
けれど、演奏の途中で“気配”が揺らいだ。
足音はしない。でも、空気が少しだけ変わる。
風の流れが、“誰かの存在”を避けるように動いた。
「……昨日の人、だよね?」
演奏を止め、静かに声をかける。
やっぱり返事はない。
けれど、気配は逃げなかった。
むしろ少しずつ、近づいてくる。
怖くない。不思議だけど、そう思える。
そして――ふいに、僕の手のひらがそっと取られた。
指先が、僕の手の上を滑る。
ゆっくり、ていねいに、文字をなぞるように。
ユ。
リ。
ス。
くすぐったいような感触に、小さく笑いがこぼれた。
「……ユリス……名前、なの?」
少しだけ待っていると、手が小さく動いた。
たぶん、頷いてくれたのだと思う。
声はなかった。でも、ちゃんと伝えようとしてくれていた。
その静かな誠実さが、指のひらからじんわり伝わってきた。
ユリス。
名前を知っただけで、距離が近づいたような気がした。
本当は、もっと聞きたいことがたくさんある。
名前だけじゃ、何も分からない。
だけど今は、それで十分だった。
風がそっと頬を撫でる。
目には見えないけれど――この人は、きっとまた来てくれる。
そう感じられるだけで、胸があたたかくなった。
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