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第5話:それでも、この音を届けたい
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数日ぶりに触れた鍵盤は、冷たかった。
音は出さなかった。指先が震えて、弾こうと思っても力が入らなかった。
庭園には、行っていない。
音を聴いてくれる人が、そこにいると分かっていても、どうしても足が動かなかった。
胸の奥に、冷たいものがずっと居座っていた。
空気が変わってきている。姉の様子も、使用人の動きも、何かを隠しているようで。
風の匂いが強くて、音が少しだけ重い。
わかる。――これは、“物語が動き出す気配”だ。
前に読んだ、あの小説と同じ雰囲気が迫ってくる。
弟が、湖に沈んでいく直前の描写を、僕は知っている。
……だから怖かった。
演奏すれば、またあの流れに近づいてしまうような気がして。
ピアノを弾けば、“終わり”が早まる気がして。
音に手を伸ばすのが、怖かった。
「レオ、入るわね」
ドアがノックされて、姉の声がした。
「……あのね、少しだけ、お願いがあるの」
姉は、僕のそばに静かに座った。
手の中に、小さな板切れを持っていた。
「これ、“ユリス”って子から託されたの。あなたに渡してほしいって」
渡されたのは、木片。
表面に、釘のようなもので盛り上がった“形”があった。
指でなぞると、すぐに分かる。これは――文字だ。
ゆっくりと、手探りで読む。
「 き み の お と が す き だ 」
「 え ん そ う し な い き み は き み じ ゃ な い 」
「 も ど っ て き て 」
……言葉が胸の奥に、じわりと染みていった。
見えないのに、目を閉じたくなった。
「それとね、もうひとつ。あなたの演奏を、今度の音楽会で披露してもらえないかって」
「……音楽会?」
「上流の奥様方のサロンよ。小規模だけど、最近ね、“障害者は感情を理解できない”とか、“盲目の子に芸術は無理”なんて声がまた出てきてるの」
姉の声には怒りが混じっていた。
「王太子殿下も仰っていたわ。“感性に貴族も弱者もない”って。だから、あなたの音が、きっと届くと思うの。少しでも、偏見を崩せるなら」
僕は、何も言えなかった。
断ることも、受けることもできずに、ただ黙っていた。
……でも、断れなかった。
当日、姉が僕の手を引いて、サロンに向かった。
小さな舞踏室。たくさんの香水の匂い。見えなくても、周囲のざわめきが分かる。
「“噂の子”ね」「本当に弾けるのかしら」――そんな声が耳に届いた気がした。
僕はピアノの前に座る。
指が震える。でも、逃げ場はなかった。
鍵盤に触れる。呼吸を整える。
そして、あの人の言葉を思い出す。
――きみの音が、好きだ。
……そう言ってくれた、たったひとりの人のために。
今、この音を届けたいと思った。
最初の音が、部屋に響いた。
誰かが息を呑む音がした。
指先はまだ震えていたけれど、それでも音は逃げなかった。
音楽は、僕の心の奥から、静かに流れ出していった。
……弾きたくなかったはずだった。
でも、どうしてだろう。
音を重ねるたびに、僕の中にあった何かが、少しずつほどけていく気がした。
僕は今、たしかに、生きている。
そして、誰かに――音を届けたかった。
音は出さなかった。指先が震えて、弾こうと思っても力が入らなかった。
庭園には、行っていない。
音を聴いてくれる人が、そこにいると分かっていても、どうしても足が動かなかった。
胸の奥に、冷たいものがずっと居座っていた。
空気が変わってきている。姉の様子も、使用人の動きも、何かを隠しているようで。
風の匂いが強くて、音が少しだけ重い。
わかる。――これは、“物語が動き出す気配”だ。
前に読んだ、あの小説と同じ雰囲気が迫ってくる。
弟が、湖に沈んでいく直前の描写を、僕は知っている。
……だから怖かった。
演奏すれば、またあの流れに近づいてしまうような気がして。
ピアノを弾けば、“終わり”が早まる気がして。
音に手を伸ばすのが、怖かった。
「レオ、入るわね」
ドアがノックされて、姉の声がした。
「……あのね、少しだけ、お願いがあるの」
姉は、僕のそばに静かに座った。
手の中に、小さな板切れを持っていた。
「これ、“ユリス”って子から託されたの。あなたに渡してほしいって」
渡されたのは、木片。
表面に、釘のようなもので盛り上がった“形”があった。
指でなぞると、すぐに分かる。これは――文字だ。
ゆっくりと、手探りで読む。
「 き み の お と が す き だ 」
「 え ん そ う し な い き み は き み じ ゃ な い 」
「 も ど っ て き て 」
……言葉が胸の奥に、じわりと染みていった。
見えないのに、目を閉じたくなった。
「それとね、もうひとつ。あなたの演奏を、今度の音楽会で披露してもらえないかって」
「……音楽会?」
「上流の奥様方のサロンよ。小規模だけど、最近ね、“障害者は感情を理解できない”とか、“盲目の子に芸術は無理”なんて声がまた出てきてるの」
姉の声には怒りが混じっていた。
「王太子殿下も仰っていたわ。“感性に貴族も弱者もない”って。だから、あなたの音が、きっと届くと思うの。少しでも、偏見を崩せるなら」
僕は、何も言えなかった。
断ることも、受けることもできずに、ただ黙っていた。
……でも、断れなかった。
当日、姉が僕の手を引いて、サロンに向かった。
小さな舞踏室。たくさんの香水の匂い。見えなくても、周囲のざわめきが分かる。
「“噂の子”ね」「本当に弾けるのかしら」――そんな声が耳に届いた気がした。
僕はピアノの前に座る。
指が震える。でも、逃げ場はなかった。
鍵盤に触れる。呼吸を整える。
そして、あの人の言葉を思い出す。
――きみの音が、好きだ。
……そう言ってくれた、たったひとりの人のために。
今、この音を届けたいと思った。
最初の音が、部屋に響いた。
誰かが息を呑む音がした。
指先はまだ震えていたけれど、それでも音は逃げなかった。
音楽は、僕の心の奥から、静かに流れ出していった。
……弾きたくなかったはずだった。
でも、どうしてだろう。
音を重ねるたびに、僕の中にあった何かが、少しずつほどけていく気がした。
僕は今、たしかに、生きている。
そして、誰かに――音を届けたかった。
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