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第7話 その人の正体は、敵
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最近、ラトの様子が少しおかしい。
そう思い始めたのは、三日前だった。
夜の厨房にいつもいた彼が、突然姿を見せなくなった。
翌朝、「すみません、材料の買い出しに」と笑っていたけれど、なんだか目が泳いでいた。
焼き菓子の失敗も増えた。
マドレーヌは焦げ、ブラウニーは半生。厨房の使用人たちは「あいつらしくない」と首をひねっていた。
なのに、私の前では今まで通り。
――いや、無理に今まで通りを装っているようにも見えた。
その夜、私は眠れなかった。
どうしても気になって、部屋の灯りを消し、外を見張るように窓辺に座っていた。
しん、と静まり返った深夜。
外灯の影をすり抜けて、一人の人影が裏門に向かって歩いていくのが見えた。
……ラト。
迷っている間もなく、私は上着を羽織って立ち上がった。
ただの興味ではなかった。信じたいのに、疑ってしまう自分が、苦しかった。
***
森の中に足を踏み入れたとき、夜の空気がぐっと冷たくなった。
満月が雲に隠れ、視界はぼんやりとしたシルエットだけ。
木の根に足を取られないよう注意しながら、私はラトの背を追った。
どれくらい歩いただろう。
小さな開けた場所に出たとき、ラトは誰かと向かい合っていた。
黒いローブをまとった、その影。
私は息を呑んで、木の陰に身を隠した。
音を立てないように、息さえ抑えて――
「……最近、報告が遅いな、ラト=ヴァイゼル」
冷たい声だった。男とも女ともつかない、平坦な声。
「……申し訳ありません。屋敷の出入りに制限がかかっていたので」
「言い訳をするな。お前の任務は、人間側の情報を収集し、我らに送ること。忘れてはいまいな?」
「……忘れてなどいません」
ラトが俯いて答えた。
その横顔には、いつもの柔らかな微笑も、焦げた香りもなかった。
まるで、別人みたいに見えた。
「貴族の動向、王宮の警備、騎士団の訓練情報。全て、お前の目から得るはずだった。……それが、この体たらくとはな」
「……すみません。すぐ整理して、送ります」
「お前、情が移ったのではないか? まさか、あの女に」
一瞬、空気が張り詰めた。
ラトは何も言わなかった。
否定するでもなく、肯定するでもなく。
ただ、視線を逸らして――黙っていた。
「……ふん。次の連絡は満月の夜だ。それまでに動きをまとめておけ」
ローブの影が森に溶けるように消え、ラトだけがその場に取り残された。
月明かりの下、彼は深く息を吐いた。
「……どうでもよくなってきた、なんて……言えないよな」
呟いた声が、静かに響く。
「任務も、報告も、どうでもいい。……だって、あの人が“美味しい”って言ってくれるから」
胸が、ぎゅっと締めつけられた。
私は、その場から動けなかった。
茂みの陰で、立ち尽くしたまま、心がぐらぐらと揺れていた。
***
ラトが去ったあと、私はようやく歩き出した。
足が震えていた。手のひらは冷たくなっていた。
目の前がぐにゃりと歪みそうで、何度も木に手をついて、ようやく屋敷まで戻ってきた。
お菓子をくれた。笑ってくれた。冗談を言った。
でも、ラトは“敵”だった。
魔族のスパイ。原作では、魔族は倒される存在。
私は――
「……はぁ、嫌いになれないよ」
ベッドの上、自分の膝を抱えて、呟いた声が震えていた。
あんな顔、知らなければよかった。
でも、知ってしまった今――あの人が“嘘をついてる”わけじゃないと、どうしても思いたかった。
ラトが最後に呟いた“美味しいって言ってくれるから”。
あの声だけは、本物に聞こえたから。
そう思い始めたのは、三日前だった。
夜の厨房にいつもいた彼が、突然姿を見せなくなった。
翌朝、「すみません、材料の買い出しに」と笑っていたけれど、なんだか目が泳いでいた。
焼き菓子の失敗も増えた。
マドレーヌは焦げ、ブラウニーは半生。厨房の使用人たちは「あいつらしくない」と首をひねっていた。
なのに、私の前では今まで通り。
――いや、無理に今まで通りを装っているようにも見えた。
その夜、私は眠れなかった。
どうしても気になって、部屋の灯りを消し、外を見張るように窓辺に座っていた。
しん、と静まり返った深夜。
外灯の影をすり抜けて、一人の人影が裏門に向かって歩いていくのが見えた。
……ラト。
迷っている間もなく、私は上着を羽織って立ち上がった。
ただの興味ではなかった。信じたいのに、疑ってしまう自分が、苦しかった。
***
森の中に足を踏み入れたとき、夜の空気がぐっと冷たくなった。
満月が雲に隠れ、視界はぼんやりとしたシルエットだけ。
木の根に足を取られないよう注意しながら、私はラトの背を追った。
どれくらい歩いただろう。
小さな開けた場所に出たとき、ラトは誰かと向かい合っていた。
黒いローブをまとった、その影。
私は息を呑んで、木の陰に身を隠した。
音を立てないように、息さえ抑えて――
「……最近、報告が遅いな、ラト=ヴァイゼル」
冷たい声だった。男とも女ともつかない、平坦な声。
「……申し訳ありません。屋敷の出入りに制限がかかっていたので」
「言い訳をするな。お前の任務は、人間側の情報を収集し、我らに送ること。忘れてはいまいな?」
「……忘れてなどいません」
ラトが俯いて答えた。
その横顔には、いつもの柔らかな微笑も、焦げた香りもなかった。
まるで、別人みたいに見えた。
「貴族の動向、王宮の警備、騎士団の訓練情報。全て、お前の目から得るはずだった。……それが、この体たらくとはな」
「……すみません。すぐ整理して、送ります」
「お前、情が移ったのではないか? まさか、あの女に」
一瞬、空気が張り詰めた。
ラトは何も言わなかった。
否定するでもなく、肯定するでもなく。
ただ、視線を逸らして――黙っていた。
「……ふん。次の連絡は満月の夜だ。それまでに動きをまとめておけ」
ローブの影が森に溶けるように消え、ラトだけがその場に取り残された。
月明かりの下、彼は深く息を吐いた。
「……どうでもよくなってきた、なんて……言えないよな」
呟いた声が、静かに響く。
「任務も、報告も、どうでもいい。……だって、あの人が“美味しい”って言ってくれるから」
胸が、ぎゅっと締めつけられた。
私は、その場から動けなかった。
茂みの陰で、立ち尽くしたまま、心がぐらぐらと揺れていた。
***
ラトが去ったあと、私はようやく歩き出した。
足が震えていた。手のひらは冷たくなっていた。
目の前がぐにゃりと歪みそうで、何度も木に手をついて、ようやく屋敷まで戻ってきた。
お菓子をくれた。笑ってくれた。冗談を言った。
でも、ラトは“敵”だった。
魔族のスパイ。原作では、魔族は倒される存在。
私は――
「……はぁ、嫌いになれないよ」
ベッドの上、自分の膝を抱えて、呟いた声が震えていた。
あんな顔、知らなければよかった。
でも、知ってしまった今――あの人が“嘘をついてる”わけじゃないと、どうしても思いたかった。
ラトが最後に呟いた“美味しいって言ってくれるから”。
あの声だけは、本物に聞こえたから。
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