眩暈

いなぐ

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7話

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『どうしてアイツは良くて俺はダメなんだよ。』
『秋、どうしたの。』
 兄は心配そうに俺を見上げている。兄は、俺に手荒にベッドに押し倒されたはずなのに、これから何をされるか分かっていないらしい。可愛い弟、という兄の言葉が頭によぎる。真っ直ぐに向けられた、兄の綺麗な瞳を曇らせるのは忍びないが、自身の熱はもう抑えがたかった。
『分かってんだろ。俺が兄さんのこと、どんな目で見てるのか。』
 わざと威圧するような強い口調で言うと、兄は気まずげに目を伏せて、何か言葉を探していた。そうした、兄弟の距離を保とうとする兄の健気な態度は、かえって俺を苛立たせた。肩を強く押し、性的興奮の高まりを示す荒い呼吸をぶつけるように、兄の首元に鼻筋を押し付けた。ベッドの軋みと共に、兄の薄い体も、ぎし、という音を立てたような気がする。唇を肌に当てると、兄の体は震え、俺はトレーナーの下に手を入れて、その素肌を撫でた。
『ぁ……やっ、やだ、秋、なんで、』
 兄の声が動揺と恐怖に揺れ、呼吸が乱れている。恐らく、あの男にされた時の記憶が蘇ったのだろう。手で胸元を弱々しく押し返されるが、そんな抵抗は何の意味も成さなかった。
『兄さん、』
 好きだよ。とは、言えない。本当に好きだったら、こんな相手を傷つけるようなことをするはずがないからだ。兄が、他の誰かと幸せになるくらいなら、俺と一緒に不幸になってほしいとすら思う。初めての行為で、しかも相手の合意を得ていないためどう動いたらいいか分からず、俺は熱を発散するように兄の肌に舌を這わせて、無遠慮に体を撫で回した。兄の体を確かめるように探ることで伝わってくる感触は、俺に歓喜と興奮をもたらしたが、兄にとっては耐え難い行為であるらしく、やだ、やめて、と弱々しく繰り返し、しまいには啜り泣き始めた。その声がやけに耳に引っかかるので、俺は自分の唇を持って兄の口を塞いだ。苦しそうな呼吸がぶつかってきて、舌の侵入を諦めて兄の顔を見る。よく知っている、兄の持つ落ち着いた静かな雰囲気は壊れ、泣いているせいで呼吸が乱れて、まだ中学生である俺に対して怯えている情けない姿が目に映った。胸が痛むと同時に、服がはだけ、傷ついている兄に対して得体の知れない欲求が、おぞましく背中を這い上がってくるのを感じる。俺が兄のズボンに手をかけ、これからの行為をなんとか止めようと伸びてきた手を強く叩いた時、規則的な人工音が兄と俺の世界に侵入した。


 アラームの音だ。
 目が覚めた俺は、じっとりとした不快な汗を全身に感じた。自室の真っ白な天井が目に飛び込んできて現実に引き戻され、頰に触れる冷えた空気に、体の熱も徐々におさまっていく。やだ、とベッドの上で身を震わせる鮮明な兄のイメージが薄まっていくのを、起き上がらずにじっと待った。体を横に向けて、部屋の中をぼんやりと眺める。このベッドに兄が昨日腰掛けて、俺が無理にキスをした時のことを思い出しそうになり、視界に映る本棚に意識を向けようとする。本の背に適当に目を滑らせていくと、秋の瞳、という詩集に目が止まった。
 兄は、季節の中で一番秋が好きだと言う。俺は秋に生まれ、名前もそのことに由来している。この詩集は、三年前の誕生日に兄にもらったものだった。秋、と愛おしげに俺の名を呼ぶ兄の顔を、俺はもう二度と見られないかもしれない。兄に優しく触れたいのに、いざ前にすると、暴力的な欲求に頭が塗りつぶされてしまう。兄のことを考えないようにしたいが、今までの人生で兄と共有してきた時間があまりにも長く、距離を置いて自分自身を見つめ直すにも、俺はまだ人間として成熟していない気がした。しかし、離れなければ、このままでは兄を傷つけてしまう。取り返しのつかないことをして、兄の精神を、人生を壊してしまったら、俺は一生悔やんでも悔やみきれないだろう。
 そういえば、兄が中学に上がるまでは、兄弟で同じベッドに寝ていた。その時、俺が兄と寝る時に感じていたのは安心感と温もりだけで、幸福に満ちていた。兄に欲望を抱く前の自分に戻ることができるとは思わない。ただ、自分の感情を制御して、一人の人間として兄と接するためには、時間と距離が必要だった。俺は深呼吸をし、階下のリビングに行くと、兄はすでにテーブルについていた。
「おはよう。」
 できるだけさりげない調子で兄に声をかけると、兄も「おはよう。」といつものように柔らかい声色で言った。しかし、自分の定席である兄の隣に座ると、兄の体が緊張に硬くなるのが微妙な空気の変化で伝わってきて、胸が苦しくなった。永澤さんの、あんなに泣かせるつもりはなかった、という言葉が頭をよぎる。俺は傷ついた兄に追い討ちを加えるのではなく、家族として兄を支えたいのだが、それはもはや叶わぬ望みなのだろうか。いまや、俺と兄の間には、埋めがたい大きな溝があるような気がした。昨日のことを弁解しようか迷って考えているうちに、言葉にするほど、自分の暴力的な欲望を嘘で塗り固めているだけのような気がした。今までに感じたことのない、気まずい沈黙が俺と兄を覆った。兄が俺の方を見て、何かを言おうと口を開いた時、リビングに入ってきた母によって、兄弟の沈黙は破られた。
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