科学的な奇跡

むひ

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氷室恭志郎

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 「全くあのババアは…」

 氷室は家に帰ると車の鍵をテーブルに投げた。乱雑に散らかったビールの缶に当たり二つほどランカランと音を立てて落ちた。
 「チッ」という舌打ちが12畳のリビングに響く。氷室は落ちたビール缶を少し眺め。風呂を沸かしに行った。
 4LDKに一人は広すぎる。だが引っ越そうにもいささか面倒臭い。氷室の妻、冴子が出ていき一年半が経った。「もういいだろう」などと思うがやはりどこかに引きずるものがあるのも確かだった。

 氷室と冴子が結婚したのは氷室が40歳になる年。恋愛結婚だった。親も大学の教授だった氷室は20代には何度かお見合いをさせられたが、研究が楽しく、女性に興味のない氷室は破談を選んだ。近所からも「一生独身のままでいるのか」と噂をされるくらいに女っ気が無かった。
 転機が訪れたのは、もう親もお見合いの話をしなくなった35歳の頃だった。助教授の時、助手として現れた冴子に一目惚れしてしまったのだ。運命が公式であるなら手順を追わずに公式を発見してしまったような衝撃だった。それは氷室を混乱させ、「理論を超えた物が存在する」という事を信じざるを得なかった。とてもじゃないが研究なんて手につかない。まともに話をするのに二年もかかってしまった。その時の冴子は「堅物で無口な研究資料と論文しか興味が無い人」と思っていたことは結婚してから分かったことなのだが。

 30年連れ添った冴子は突然、離婚届をテーブルに置いたまま出ていってしまった。氷室に全く心当たりはない。むしろ大学からの給料と最近ではそれほど多くないがテレビのコメンテーターとしての収入で、暮らしは余裕が出るくらいになったのだ。探そうにもどうしていいのか分からない。冴子の弟は居るが「離婚届を置いて出ていってしまった」なんて冗談でも相談できない。しばらく途方に暮れ、きっとあの発見した公式は間違っていたのかもしれない。氷室はそういう結論に至った。理論を超えたものなど、こんな風に破綻してしまうのだ。破綻するということは間違っているに違いない。
 学術も自然も人間も理論によって成り立っている。それが皮肉にも証明されたのだ。

 風呂から上がった氷室はバスタオルで頭を拭きながら冷蔵庫からビールを取り出し一気に飲み干した。

「明日のスケジュールは…」

 手帳を開き確認する。昼から大学で講義が一件入っているだけだった。

「もう一本飲むか」

氷室は二本目に手をかけた。

 ビールを飲みながら自分の出演した番組の録画をチェックするのが日課になっている。
 再生ボタンを押す。

「ほんとあのババアはわしをバカにするために来てるとしか思えんな。むかむかしてきたわ」

場面はヒートアップしてきた。
「ん?」と巻き戻しを押すと、確かにチリンッと鈴の音が鳴っていた。ちょうど染夢子が「鏡いなりさんの時に気付くべきだったんだよ」と言った後だった。

「ふむ」と考えこんでいたが飲みすぎたんだと停止を押した。
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