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番外編 婚約者はじゃじゃ馬な幼女
1.政略結婚とはいうものの
ヴィンセントは深く深くため息をついた。
今日何度目のため息だろう。もう数える気力もない。
「王太子殿下! 飲みすぎです! さっき、これで終わりだっておっしゃっていたじゃないですか」
「さっきはさっき、今は今だ。子供が大人のすることに口を出すものではない」
「まあー!」
王城の奥にある王太子の館。
本来なら日中の慌ただしい執務を終え、一人静かに夜を過ごしているはずの居間はなぜか騒がしかった。
なめらかな布張りの大きなソファー。その中央に腰かけるヴィンセントの正面に仁王立ちしているのは、ずいぶん小柄な少女だ。
「わたくしは殿下のお体を心配しているのです」
「自分の体のことは自分でちゃんとわかっている。あなたは乳母のように口うるさいな」
最近は夜の自室で酒を飲むのが唯一の楽しみだ。
それなのに、空になった杯に酒を注ぐたび、その少女が口を挟んでくるのだ。彼女の遠慮のない口振りに、ついヴィンセントも本音をこぼしてしまう。
「姫こそ、まだこんなところにいてもよろしいのですか? ……子供は寝る時間だろう」
一応大人扱いした丁寧な返答のあとに、ボソッと小声で付け加えると、
「まあー!」
少女がふたたび大きく目を見開いた。
ベアトリーチェ・アンドーネス、十歳。
童顔なのか、素直すぎる表情のせいか、実際の年齢よりも幼く見える。少女というよりは幼女といってもいいくらいだ。
黒褐色の巻き毛は豊かに波打って背中に流れている。瞳は濃い青色。夜明けの空のように美しい。
ただその肌は大国の王女らしくなく、健康的な小麦色に焼けている。外遊びや乗馬が趣味で、侍女が庭にいた彼女に慌ててつばの広い帽子をかぶせている姿を今日も見かけた。
いつも明朗快活な少女は怒る時もわかりやすくぷんぷんしている。
「わたくしは殿下の婚約者ですのよ。未来の奥様です。妻が夫を心配しなくて、だれが心配するというのです」
――婚約者。
そう、信じられないが、本当のことだ。
ベアトリーチェはヴィンセントの未来の妻。獣人の国へと去っていった元の婚約者アナスタージアの代わりに、新しく契約を結んだ正式な婚約者なのだ。
南方の大国アンドーネスの第五王女。
周囲からかわいがられて育ったのだろう。素直で裏表のない性格は好ましい。あれこれと気を回しがちなヴィンセントには、神経を使わなくてもすむ相手はまれだった。
だが、しかし。
「はぁぁぁぁ……」
ヴィンセントはまた長いため息をついた。
政略結婚であることを考えに入れても、たしかにヴィンセントには申し分のない婚約者なのだ。
……まだ十歳である、その事実をのぞけば。
「殿下、今晩はベアトリーチェ様のけなげなお気持ちを汲んでさしあげてはいかがでしょう」
近くに控えていた侍従が落ち着いた声で話しかけてくる。その声音に微笑ましく見守られている気配を感じて、ヴィンセントは降参した。
これ以上側仕えの前で、幼女と馬鹿げた喜劇のようなやりとりを繰り返すのはいたたまれない。
「姫、あなたの気持ちはよくわかった。今夜はもう飲まないと約束しよう」
「本当ですか!? よかったあ」
ベアトリーチェはあどけなく笑った。
どうやらこの姫は、ヴィンセントの身のまわりの者を着々と味方に付けているらしい。侍従があっという間に酒瓶や酒杯を片づけていく。
その様子を見て満足したようにうなずくと、ベアトリーチェは見た目だけはしとやかに挨拶をして、ヴィンセントの部屋を出ていった。
「仕方ない。休むか」
寝るにはやや早い時間だが、もう酒もない。
最近は幼い婚約者に振りまわされて疲れているせいか、以前よりも寝つきがよくなった。
ヴィンセントは自分でも意識せずに、大きなあくびをしていた。
『王太子殿下、はじめまして。わたくしはアンドーネス王国王女ベアトリーチェと申します』
今思えば、初めて会った時はかなり猫をかぶっていたようだ。
レスルーラ王国の貴族たちが集まる王城の大広間で、ベアトリーチェは小さな貴婦人として完璧に礼を尽くした。
『私がレスルーラ王国王太子のヴィンセントだ。祖国を離れ、さみしい思いをすることもあるだろう。私にできることがあったらなんでも言ってほしい』
もちろん侍女や護衛は同行しているが、付き添いの親族はいない。故郷からたった一人で遠い外国にやってきた幼い少女。
彼女の孤独をおもんぱかって、せめてもの思いやりを示したヴィンセントだったが、その気持ちが早々に裏切られるとは思いもしなかった。
「王太子殿下! お仕事は終わられたのですか? 今日もお会いできてうれしいです!」
ベアトリーチェ王女は独りぼっちの深窓の令嬢――ではなく、いつも元気いっぱいだったのだ。
「これから遠乗りに行きませんか!?」
初対面の際のヴィンセントの言葉を額面どおりに受け取ったベアトリーチェは、遠慮なくヴィンセントにものを言うようになった。
無茶なお願いをしたり、高価なものをねだったりするわけではない。とにかく活発で、遠出しようと誘われることが多い。彼女一人では城外に出ることを禁じられているので、外に出るために利用されている気がしないでもない。
今まで面識のあった貴族令嬢とはまったく違う様子に、ヴィンセントは毎回面食らうのだった。
「……姫は乗馬がそれほど好きなのか」
「大好きです! 詩の朗読や楽器の演奏なんかより、ずっと楽しいもの!」
「……なるほど」
まわりにいる侍女たちが慌てて姫の暴走を止めようとする。でも、ベアトリーチェはまったく悪びれず、会うたびに同じようなことを言う。
侍女の無言の謝罪と『どうか乗馬には行かないでほしい。淑女らしくお茶会でもしていてほしい』という圧力――懇願を感じて、ヴィンセントは断りの言葉を口にした。
「今日はあまり時間がないので、遠乗りは今度にしよう」
「また駄目なのですね……。いつになったら、わたくしは遠乗りに行けるのでしょうか」
婚約者の交流の一環として定期的に催されるお茶会の席。
少女はひどく悲しそうに空を見あげた。ヴィンセントもつられて空を見ると、白馬のような形をした白い雲が流れていく。
ベアトリーチェとの結婚は彼女が成人してからと決まっている。あと数年は先の話だ。
しかし十歳にして、彼女はレスルーラ王国に移り住むことになった。実質的な輿入れの仕度をして、この国にやってきたのだ。
ヴィンセントの母である王妃のもとでレスルーラ流の花嫁修業をするという名目ではあったけれど、裏側には彼女の故郷である大国アンドーネスの事情もあった。
「時間があったら、お父上に手紙でも書いてみては?」
「はい。でも、緊急時以外は連絡しないように言われていますので」
「…………」
アンドーネス王国には、彼女が故国と連絡を取ることをよく思わない勢力がいるらしい。
ベアトリーチェはアンドーネスの第三妃の娘だった。
両親には愛されたようだが、母親が病死してしまった。その第三妃はうしろだてが弱く、ベアトリーチェには頼れる縁者が少なかった。
国内の政争が激化しそうになった折り。アンドーネスの国王は、ベアトリーチェの命が危険かもしれない、彼女を国内に置いておくよりも信頼できる相手と政略結婚させてしまいたいと考えた。
ヴィンセントはベアトリーチェの父親である国王と面識があった。数年前にいくつかの国を外遊した際に、友好国の王族と交流を持ったのだ。
アンドーネス王はなぜかヴィンセントを気に入ったようで、その後も折に触れ手紙のやり取りをしていた。
「……しっかり準備をして、近いうちに遠乗りに行こう」
「えっ、本当ですか? わーい、うれしい!」
「姫に喜んでもらえてよかった」
悲しそうに見えて、実はご機嫌ななめなだけだった少女は大きく口を開けて笑った。
おおらかで、まっすぐなベアトリーチェを見ていると、ヴィンセントも知らぬ間に緊張感が消えてくつろいでしまう。
教育係の侍女たちはがっかりしていたが、たまにはいいだろう。突発的な外出ではなく、予定を組んで護衛の計画も立てて出かければ、外野もうるさくは言わないはずだ。
「わたくし、あとで厩に行って馬を選んでもいいかしら!?」
「明日なら私も時間が取れる。レスルーラにもいい馬がいるから、あなたに見せてあげたい」
「楽しみだわあー!」
これはアンドーネスからなかば押しつけられた婚約だ。
しかし、レスルーラの国内では、ヴィンセントが自ら婚約破棄を言い出しながらもアナスタージアに未練があったことをかなりの人間が知っていた。ウィバリー伯爵の陰謀を暴き、その一派を捕らえたことで、だいたいの事情は貴族社会の周知の事実となった。
失恋の傷心のさなかにある王太子の新たな婚約者になろうという令嬢はなかなかいない。
そんなレスルーラの足もとを見られた感は否めないが、こちらにとっても大国との絆や国政の安定性をアピールできるのはありがたいことだ。
政治的な利点を数えて、ヴィンセントはこの婚約に満足感を覚えた。
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