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大切な名を
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ヒューレシアはただひたすら走っていた。先日と同じように。
違うのは目的だ。前回は逃げることだけを考えていたが、今は違う。ヒューレシアは彼に会うために走っている。
こうして全力で駆けていると、幼いころに戻ったように思える。
記憶を思い出せた分、そのように感じてしまうのかもしれないが。
毎日集落を駆け回り、麦畑で隠れんぼしたり、湖に飛び込み魚を捕まえたり、小さな身体で活発に遊び回っていたあのころ。
早く大人になりたくて仕方がなかった。
「はぁ……はぁ……どこにいるの……」
息が、切れる。
ヒューレシアは足を止め、そこにあった木に背を預け呼吸を整える。
宛もないのは先日と同じだなんて思いながら、霧の深い森の静けさに耳を澄まし目を閉じた。
ヒューレシアの忘れていた過去が瞼の裏に甦る。
自分を少し老けさせたような赤髪の女性と、彼女の肩を抱く紫瞳の男性。
ヒューレシアの父と母だ。ヒューレシアは仲睦まじい夫婦の元に産まれた。
狩人の腕は一流、夫婦で狩りに出ては競い合い大物を獲って帰ってくることしょっちゅう。大らかで頼もしい、大好きだった父と母。
だがヒューレシアが十の頃、森に出た大熊に襲われ…………死んだ。
あの少年と約束をしたのはこの頃。
父と母を同時に失くしたヒューレシアを気遣い連れ出してくれた時だった。
優しい兄的な存在だった幼馴染の少年。六歳上でヒューレシアとは誕生日が近かった。
どうして、あの少年である熊男を面影が無いと思ってしまったのか。
大らかで逞しい熊のような彼の父親にそっくりであるのに。
彼の父親も昔は細かったらしいが、成人したあたりから急激に成長したのだという。
当時の族長で、彼は二十一歳になる日をもって父親の跡を継ぐ予定だった。
奔放だった彼らの父は、ちょうど今のオルトゥルスと同じように二人の女性と結婚しそれぞれに子を成した。
ヒューレシアを『可愛い小熊』と最初に呼んだのは彼らの父だ。ガハハという豪快な笑いと共にヒューレシアを呼ぶ彼の姿が思い出される。
熊男と腹違いの弟であるオルトゥルスそが彼の真似をしてふざけ半分に呼び始め、それを気に入ったベルボワとベルシルワが呼ぶようになったのだ。
ベルボワとベルシルワも、何かとヒューレシアを可愛がってくれた姉的存在。小さな頃からずっと二人は美人だった。
昔からよくオルトゥルスと人目を憚らずいちゃいちゃしていたのだが、成人してからはより大胆になったようだ。
小さなヒューレシアをみんながみんな可愛がった。
早く大人になりたかったのは、少年がそんな自分をいつも大事に守ってくれていたから。ヒューレシアも彼を守れるようになりたかったのだ。
だから水牛のミルクを毎日頑張って飲んでいたのに背はちっとも大きくならず、ぐんぐん背を伸ばすあの少年に近付きたくて必至だった。
もしかしたら今頃になって胸だけが成長を始めたのはミルクのせいかもしれない。
しかし、これだけ思い出しても、どうしても彼の名前だけが思い出せなかった。
言葉として発する準備は出来ているのに声にならないのだ。喉の奥に刺さった魚の小骨のように、違和感としてその場に残る。
まるで脳が彼の名だけを霞の向こうに消してしまったかのよう。全てを覆い隠してしまうこの森みたいに。
この森についても、中の詳細は知らないままだが、知識としてある事を思い出した。
――――濃霧の森は、ボスコ族の自由が侵されないために精霊が作りだした、いわば結界のようなものだということ。記憶の扉が開いたことでようやく思い出せた。
この霧は、精霊の導きのない者を迷わせ侵入を阻むためのものだ。だから、ボスコ族でここに入ることを許されるのは成人した者のみ。成人していない者の立ち入りは禁じられている。
六年前のあの日、成人の儀を翌日に控えていたヒューレシアは、それを破った。二度も。
一度目は両親の仇である大熊の目撃談を聞いて。
二度目はその熊と戦い傷を負った彼の怪我を癒やすために……。
ヒューレシアの瞳から、ぽろりと涙が一筋こぼれた。
一つ、また一つと、次から次へとこぼれ落ちる。湖の中に入ったときのように視界が涙で滲む。
全部、自分がいけなかったのだ。
当時、少年――もうすぐ二十一になる熊男がヒューレシアが森に入ったと聞き追いかけてきてくれなければ確実に死んでいただろう。
彼は、大熊の迫力に手も足も出なかったヒューレシアを庇い……負傷つつも、見事に大熊を討ってみせたのだ。
しかし彼の怪我は酷く、血がどくどくと溢れ出し止まる気配を見せない。
駆けつけた仲間たちが来る頃にはヒューレシアも彼の赤に塗れていた。
仲間たちに急ぎ運ばれていく熊男の背中から溢れる血を今も覚えている。彼が死ぬかもしれないと、不安と恐怖でいっぱいだった。
ショックを受け呆然としていたヒューレシアは、集落に連れ戻されたあとされるがままに家へ放り込まれるが、彼のことが気がかりで落ち着かない。自分のせいで彼が死んだらと思うと、胸が張り裂けそうだった。
そこへ聞こえてきたのは、自分を見張る男たちのヒソヒソ声。
『どうやら薬が足りないらしい。誰かが取りに行かなければアイツは死ぬかもしれない』
――――あの濃霧の森に生える、薬草を。
それを聞いたら、何もせずにいられないわけがなかった。
ヒューレシアはこっそりと窓から抜け出し再び森へ向かう。必ず薬草を持ち帰り彼を助けてみせる、と心に決めて。
もう夜になろうとしていた時だ。
精霊の導きがあろうと大人でも入るのを辞める森の中を、一心不乱にただ走りつづけ、
そして――――ボスコに帰れなくなった。
自分を奴隷として売り飛ばした男たちに出会ってしまったのだ。
珍しい褐色の肌と髪、そして瞳の色を見て襲いかかる男たちに小さなヒューレシアは抵抗することもできず、運悪く男たちは森の外へ辿り着いてしまった。その間も彼の身を案じ、どうか死なないでと繰り返し願った。
それからのことを思い出すのは苦しい。
(結局、わたしは彼を助けてあげられなかった)
なんとか薬が足りたのだろうか? それとも大いなる精霊の奇跡か。
どちらにせよ、彼が無事に生きていてくれたことが何よりも嬉しい。
自分のせいで怪我をしたのに、彼はヒューレシアを恨むことなく、今も昔と変わらず優しい眼差しで見つめてくれる。
待っていてくれた。六年もずっと、自分は必ず帰ってくると信じて。
そんな彼に応えたい。帰ってきたよ、と。
名前を呼んであげたい。あの頃のように。
それでも、何故。
「なまえが、でてこないの……っ!」
嗚咽と共に吐き出された言葉に悔しさを乗せる。
口元がわななき、声が震える。
瞳からは大粒の涙が溢れて止まず、目の奥がじわじわと熱を持ち始めて痛い。
自由を愛する部族とはいえ、定められたルールは少なくその分絶対だ。
二度も禁を破った上、記憶をなくし六年もの間精霊に祈ることもできなかった。もう自分にボスコ族として生きる資格がないのかもしれない。
記憶を追い出したのに、未だ精霊の声を聞けていないのがその証拠……
――――だいじょうぶだよ、ヒューシャ。
そのとき、ふわりと毛布が掛けられたかのように、あたたかいものがヒューレシアの身体を包んだ。
大樹の前で祈ったあの時と同じ感覚だった。思わず振り返り見るが、そこには木しかない。
――――ヒューシャ。
どこかで聞いたことのある声。
それは一番初めに記憶を思い出した時に聞いたものと同じ……だが、あれは。
――――ぼくはいつもきみのそばにいたよ。
ちゃんと守ってあげられなくてごめんね。
待ち望んでいた精霊の声だと、ヒューレシアはようやく気付いた。
聞けなかったのではなかった。ただ、自分がずっと勘違いしていたのだ。
最初から彼の声は聞こえていた。初めに記憶を思い出した時、彼は私を呼んでくれたではないか。――――大切なあの人と同じ声で。
いつも優しく見守ってくれていたあの人の代わりを、私の大事な精霊は努めようとしてくれていたのだ。
こんなところにも、あの人の優しさが残っていた。ほんのひととき止まっていた涙が再び流れる。
ヒューレシアは肩にあるだろう自分を抱く手に重ねるよう、自身のを置いた。そこになんとなく自分のより一回り大きな掌があるような気がした。あたたかい……
「ずっと……そばで守ってくれてたんだね……」
恵まれた小さな幸運は、彼がもたらしてくれたのだ。
だからヒューレシアは話に聞くような惨たらしい思いをせずに済んだ。
最後に受けたあの仕打ちは、そこで彼の力が途切れてしまったが故のこと……六年、祈りによる癒しもないままよくぞ頑張ってくれた。あの時呼びかけてくれた声がなければ、今もあのボロ小屋で絶望していたかもしれない。
――――森の熊は、きみを待ってる。
肩にあった手が離れる。ぼんやりと淡い光を纏う腕がヒューレシアの顔の横からまっすぐに伸ばされ、指先が方向を差す。あの方向に、彼が待っている。
それから、指がヒューレシアの真下を示す。見るとそこには薬草があった。あの日持ち帰ることができなかったあの薬草。ヒューレシアの怪我の手当てに彼が使ってくれたものと同じもの。
ヒューレシアはそれを摘み、立ち上がる。
今度は大丈夫、もう迷わない。
今度こそ、彼の名前を呼べる。
それから走った。
走って、走って走って、彼のもとへまっすぐ。
今のヒューレシアには精霊の導きがある。だから、絶対に会える。
この霧の中を共に進むことができる――――!
そうして辿り着いた……清らかな水のせせらぎが奏でる場所で、彼は待っていた。
あの熊の毛皮を被った、熊のように大きな彼が小川の中に腰を下ろしている。
この場所をヒューレシアは知っていた。
「ヒューシャ」
黒曜石の双眸にヒューレシアの姿が映される。
そこに映る自分の姿は全力で走ったせいで髪は酷く乱れさぞ滑稽にみえることだろう。
でもそんなことなどどうでもよかった。
彼が選んだ『再会』の場所。
それはあの日、再会した場所だった。
見下ろすヒューレシアと立ち上がった男の視線が同じ高さになる。
何か言いたいのに、はぁはぁと息が切れて言葉が口から出てこず、ヒューレシアはただ口をぱくぱくさせる。
「ヒューシャ?」
そんなヒューレシアに向けて――――どうした? と男が問いかける。
(ほんと変わらない……)
その問い掛け方は昔からの癖だ。
そんな彼がたまらなく大事で、大好きなのだ。
「バルトゥルス……!」
やっと呼べた名前と滲む視界。
こぼれた涙が地面に落ちる前に、ヒューレシアの身体は大きな身体に包み込まれた。
違うのは目的だ。前回は逃げることだけを考えていたが、今は違う。ヒューレシアは彼に会うために走っている。
こうして全力で駆けていると、幼いころに戻ったように思える。
記憶を思い出せた分、そのように感じてしまうのかもしれないが。
毎日集落を駆け回り、麦畑で隠れんぼしたり、湖に飛び込み魚を捕まえたり、小さな身体で活発に遊び回っていたあのころ。
早く大人になりたくて仕方がなかった。
「はぁ……はぁ……どこにいるの……」
息が、切れる。
ヒューレシアは足を止め、そこにあった木に背を預け呼吸を整える。
宛もないのは先日と同じだなんて思いながら、霧の深い森の静けさに耳を澄まし目を閉じた。
ヒューレシアの忘れていた過去が瞼の裏に甦る。
自分を少し老けさせたような赤髪の女性と、彼女の肩を抱く紫瞳の男性。
ヒューレシアの父と母だ。ヒューレシアは仲睦まじい夫婦の元に産まれた。
狩人の腕は一流、夫婦で狩りに出ては競い合い大物を獲って帰ってくることしょっちゅう。大らかで頼もしい、大好きだった父と母。
だがヒューレシアが十の頃、森に出た大熊に襲われ…………死んだ。
あの少年と約束をしたのはこの頃。
父と母を同時に失くしたヒューレシアを気遣い連れ出してくれた時だった。
優しい兄的な存在だった幼馴染の少年。六歳上でヒューレシアとは誕生日が近かった。
どうして、あの少年である熊男を面影が無いと思ってしまったのか。
大らかで逞しい熊のような彼の父親にそっくりであるのに。
彼の父親も昔は細かったらしいが、成人したあたりから急激に成長したのだという。
当時の族長で、彼は二十一歳になる日をもって父親の跡を継ぐ予定だった。
奔放だった彼らの父は、ちょうど今のオルトゥルスと同じように二人の女性と結婚しそれぞれに子を成した。
ヒューレシアを『可愛い小熊』と最初に呼んだのは彼らの父だ。ガハハという豪快な笑いと共にヒューレシアを呼ぶ彼の姿が思い出される。
熊男と腹違いの弟であるオルトゥルスそが彼の真似をしてふざけ半分に呼び始め、それを気に入ったベルボワとベルシルワが呼ぶようになったのだ。
ベルボワとベルシルワも、何かとヒューレシアを可愛がってくれた姉的存在。小さな頃からずっと二人は美人だった。
昔からよくオルトゥルスと人目を憚らずいちゃいちゃしていたのだが、成人してからはより大胆になったようだ。
小さなヒューレシアをみんながみんな可愛がった。
早く大人になりたかったのは、少年がそんな自分をいつも大事に守ってくれていたから。ヒューレシアも彼を守れるようになりたかったのだ。
だから水牛のミルクを毎日頑張って飲んでいたのに背はちっとも大きくならず、ぐんぐん背を伸ばすあの少年に近付きたくて必至だった。
もしかしたら今頃になって胸だけが成長を始めたのはミルクのせいかもしれない。
しかし、これだけ思い出しても、どうしても彼の名前だけが思い出せなかった。
言葉として発する準備は出来ているのに声にならないのだ。喉の奥に刺さった魚の小骨のように、違和感としてその場に残る。
まるで脳が彼の名だけを霞の向こうに消してしまったかのよう。全てを覆い隠してしまうこの森みたいに。
この森についても、中の詳細は知らないままだが、知識としてある事を思い出した。
――――濃霧の森は、ボスコ族の自由が侵されないために精霊が作りだした、いわば結界のようなものだということ。記憶の扉が開いたことでようやく思い出せた。
この霧は、精霊の導きのない者を迷わせ侵入を阻むためのものだ。だから、ボスコ族でここに入ることを許されるのは成人した者のみ。成人していない者の立ち入りは禁じられている。
六年前のあの日、成人の儀を翌日に控えていたヒューレシアは、それを破った。二度も。
一度目は両親の仇である大熊の目撃談を聞いて。
二度目はその熊と戦い傷を負った彼の怪我を癒やすために……。
ヒューレシアの瞳から、ぽろりと涙が一筋こぼれた。
一つ、また一つと、次から次へとこぼれ落ちる。湖の中に入ったときのように視界が涙で滲む。
全部、自分がいけなかったのだ。
当時、少年――もうすぐ二十一になる熊男がヒューレシアが森に入ったと聞き追いかけてきてくれなければ確実に死んでいただろう。
彼は、大熊の迫力に手も足も出なかったヒューレシアを庇い……負傷つつも、見事に大熊を討ってみせたのだ。
しかし彼の怪我は酷く、血がどくどくと溢れ出し止まる気配を見せない。
駆けつけた仲間たちが来る頃にはヒューレシアも彼の赤に塗れていた。
仲間たちに急ぎ運ばれていく熊男の背中から溢れる血を今も覚えている。彼が死ぬかもしれないと、不安と恐怖でいっぱいだった。
ショックを受け呆然としていたヒューレシアは、集落に連れ戻されたあとされるがままに家へ放り込まれるが、彼のことが気がかりで落ち着かない。自分のせいで彼が死んだらと思うと、胸が張り裂けそうだった。
そこへ聞こえてきたのは、自分を見張る男たちのヒソヒソ声。
『どうやら薬が足りないらしい。誰かが取りに行かなければアイツは死ぬかもしれない』
――――あの濃霧の森に生える、薬草を。
それを聞いたら、何もせずにいられないわけがなかった。
ヒューレシアはこっそりと窓から抜け出し再び森へ向かう。必ず薬草を持ち帰り彼を助けてみせる、と心に決めて。
もう夜になろうとしていた時だ。
精霊の導きがあろうと大人でも入るのを辞める森の中を、一心不乱にただ走りつづけ、
そして――――ボスコに帰れなくなった。
自分を奴隷として売り飛ばした男たちに出会ってしまったのだ。
珍しい褐色の肌と髪、そして瞳の色を見て襲いかかる男たちに小さなヒューレシアは抵抗することもできず、運悪く男たちは森の外へ辿り着いてしまった。その間も彼の身を案じ、どうか死なないでと繰り返し願った。
それからのことを思い出すのは苦しい。
(結局、わたしは彼を助けてあげられなかった)
なんとか薬が足りたのだろうか? それとも大いなる精霊の奇跡か。
どちらにせよ、彼が無事に生きていてくれたことが何よりも嬉しい。
自分のせいで怪我をしたのに、彼はヒューレシアを恨むことなく、今も昔と変わらず優しい眼差しで見つめてくれる。
待っていてくれた。六年もずっと、自分は必ず帰ってくると信じて。
そんな彼に応えたい。帰ってきたよ、と。
名前を呼んであげたい。あの頃のように。
それでも、何故。
「なまえが、でてこないの……っ!」
嗚咽と共に吐き出された言葉に悔しさを乗せる。
口元がわななき、声が震える。
瞳からは大粒の涙が溢れて止まず、目の奥がじわじわと熱を持ち始めて痛い。
自由を愛する部族とはいえ、定められたルールは少なくその分絶対だ。
二度も禁を破った上、記憶をなくし六年もの間精霊に祈ることもできなかった。もう自分にボスコ族として生きる資格がないのかもしれない。
記憶を追い出したのに、未だ精霊の声を聞けていないのがその証拠……
――――だいじょうぶだよ、ヒューシャ。
そのとき、ふわりと毛布が掛けられたかのように、あたたかいものがヒューレシアの身体を包んだ。
大樹の前で祈ったあの時と同じ感覚だった。思わず振り返り見るが、そこには木しかない。
――――ヒューシャ。
どこかで聞いたことのある声。
それは一番初めに記憶を思い出した時に聞いたものと同じ……だが、あれは。
――――ぼくはいつもきみのそばにいたよ。
ちゃんと守ってあげられなくてごめんね。
待ち望んでいた精霊の声だと、ヒューレシアはようやく気付いた。
聞けなかったのではなかった。ただ、自分がずっと勘違いしていたのだ。
最初から彼の声は聞こえていた。初めに記憶を思い出した時、彼は私を呼んでくれたではないか。――――大切なあの人と同じ声で。
いつも優しく見守ってくれていたあの人の代わりを、私の大事な精霊は努めようとしてくれていたのだ。
こんなところにも、あの人の優しさが残っていた。ほんのひととき止まっていた涙が再び流れる。
ヒューレシアは肩にあるだろう自分を抱く手に重ねるよう、自身のを置いた。そこになんとなく自分のより一回り大きな掌があるような気がした。あたたかい……
「ずっと……そばで守ってくれてたんだね……」
恵まれた小さな幸運は、彼がもたらしてくれたのだ。
だからヒューレシアは話に聞くような惨たらしい思いをせずに済んだ。
最後に受けたあの仕打ちは、そこで彼の力が途切れてしまったが故のこと……六年、祈りによる癒しもないままよくぞ頑張ってくれた。あの時呼びかけてくれた声がなければ、今もあのボロ小屋で絶望していたかもしれない。
――――森の熊は、きみを待ってる。
肩にあった手が離れる。ぼんやりと淡い光を纏う腕がヒューレシアの顔の横からまっすぐに伸ばされ、指先が方向を差す。あの方向に、彼が待っている。
それから、指がヒューレシアの真下を示す。見るとそこには薬草があった。あの日持ち帰ることができなかったあの薬草。ヒューレシアの怪我の手当てに彼が使ってくれたものと同じもの。
ヒューレシアはそれを摘み、立ち上がる。
今度は大丈夫、もう迷わない。
今度こそ、彼の名前を呼べる。
それから走った。
走って、走って走って、彼のもとへまっすぐ。
今のヒューレシアには精霊の導きがある。だから、絶対に会える。
この霧の中を共に進むことができる――――!
そうして辿り着いた……清らかな水のせせらぎが奏でる場所で、彼は待っていた。
あの熊の毛皮を被った、熊のように大きな彼が小川の中に腰を下ろしている。
この場所をヒューレシアは知っていた。
「ヒューシャ」
黒曜石の双眸にヒューレシアの姿が映される。
そこに映る自分の姿は全力で走ったせいで髪は酷く乱れさぞ滑稽にみえることだろう。
でもそんなことなどどうでもよかった。
彼が選んだ『再会』の場所。
それはあの日、再会した場所だった。
見下ろすヒューレシアと立ち上がった男の視線が同じ高さになる。
何か言いたいのに、はぁはぁと息が切れて言葉が口から出てこず、ヒューレシアはただ口をぱくぱくさせる。
「ヒューシャ?」
そんなヒューレシアに向けて――――どうした? と男が問いかける。
(ほんと変わらない……)
その問い掛け方は昔からの癖だ。
そんな彼がたまらなく大事で、大好きなのだ。
「バルトゥルス……!」
やっと呼べた名前と滲む視界。
こぼれた涙が地面に落ちる前に、ヒューレシアの身体は大きな身体に包み込まれた。
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