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3.二年前――月は太陽に心掴まれ。

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 ノクスにしつこく行ってこいと言われ渋々招待を受けたものの、やはりこういった場は苦手だと改めて思う。
 ダンスは好きでは無いし賑やかな場はなんとなく居心地が悪い。なので来ても結局隅に立ってたまにやって来る給仕係から酒を貰うくらいしかすることが無い。
 そのうち催し物が始まり人々が中央に集まり始めたのを見てブルームは会場を抜け出すことにした。

 葉の一枚もなく寂しい姿を晒すブロッサムの木の前にあるベンチに腰掛け、やはり来なければと後悔のため息を吐いたとき鼻がむずむずと疼いた。
 その直後響き渡るくしゃみの音────計二人分。

 そしてブルームは出会う。
 夜には地平線の下に身を隠してしまうはずの太陽に。

 月明りに照らされ燦々と煌く、ふわふわの金糸の髪。
 澄んだ青空色の瞳、大きな明るい眼差しが自分を見上げている。その顔は精巧に作られた人形のように愛らしい。
 ソルフィオーラ・フランベルグと少女は名乗った。舞踏会を開催したフランベルグ家の御息女だ。
 歳は自分よりも一回りほど下だろうか、幼いながらに洗練された美しさを持つソルフィオーラに瞳は釘づけだった。

 彼女を一目見た時から、心臓は狂ったように早鐘を打っていた。
 それが妙に苦しくて、切ない痛みをもたらす。自分は何か病にでも罹ってしまったのだろうか?
 しかし自分は至って元気だ、いつも通りだ。
 それなのに何故か言葉が出てこない。元々口数は少ない方だが、まるで声を奪われてしまったように言葉を紡ぎだせない。……一体何に奪われたというのだろう。

 そんな時、ソルフィオーラの手に一冊の本があることに気づいた。

 本について尋ねると、彼女は面白いくらいにわたわたし出した。
 まるで悪戯しているところを見つかってしまった子供のように言い訳を口にする。
 そんなソルフィオーラに、思わず表情が緩むのを感じた。無意識にいつも皺を寄せてしまう眉間が力を抜く。

(大母上の本か……懐かしいな)

 敬愛する今は亡き祖母。ブルームが幼い頃によく読み聞かせてくれた本だった。
 これはいい機会だと、ブルームはソルフィオーラから本を借りることにした。
 あわよくばこの太陽のような彼女とお近づきになれるかもしれない、と思って。

(────お近づきに? 何を考えているんだ、私は)

 彼女の美しさに頭がどうかしてしまったか。
 あわよくば、だなんて邪なことは考えていない、断じて。
 これは……そう、自分も好きだった本を手に持っていたから興味を惹かれただけ。偶々だ。邪な気持ちからではない、断じてだ。
 ────なんて言い訳を胸中で呟きながら受け取った本を持って座ると、ソルフィオーラも隣に腰を下ろした。

 その時ふわりと揺れた髪から甘いハチミツ林檎のような香りが漂い、ブルームの鼻腔を擽った。

 刹那、ガシィィィィィッと物凄く強い力で胸の奥を掴まれたような錯覚を覚えた。
 いや、錯覚なんかではない。確かに何かが今胸の奥を掴んだ。
 ブルームは思わず胸元を押さえ悶えたい衝動に駆られた。今すぐその地面に横になって、ごろごろごろごろとのた打ち回りたい。

(な、何だ今のは……!)

 本を持つ手に力を込め、ギリギリと奥歯を噛み耐える。
 未だ治まらない衝動に何とか気を逸らさねばとブルームは本に視線を落とす。そのタイミングで、ソルフィオーラが小さく可愛らしいくしゃみをした。
 ハッとして見ると、彼女は顔を手で押さえ恥ずかしそうに俯いていた。
 最初にくしゃみについて見苦しいところをと言っていたから、きっとはしたないと思ったのだろう。
 それに彼女は肩が出るデザインの桃色のドレスを着ていた。
 こんな華奢な肩だ……寒空の下に晒していたら風邪をひく。ブルームはほとんど無意識に上着を脱ぎ、それを彼女の肩に掛けた。

 途端に、恥ずかしくなった。
 紳士らしい行動をした自分が信じられなくて照れ臭くなった。
 彼女が顔を上げたのが分かったので、上着を突き返され気まずい思いをする前にブルームは急ぎ呟いた。

「……だいぶ読み込まれた跡があるな」

 ポケットサイズの自身の掌くらいしかないその本は、使い込まれたように傷んでいた。
 くたくたに草臥れており、林檎を握りつぶせる握力を持つ自分がちょっと力を込めたら簡単に破れそうなほど。パラパラと捲ってみると、何かで濡らしてしまったのか一部のページはぱりぱりしていた。

 懐かしさがわっと込み上げてくる。

 こんな風に自分もお気に入りの本を読み込み、誤って濡らしては日向に干して乾かそうとした。
 祖母が亡くなり大きくなるにつれて読まなくなってしまったが、何度読んでも飽きなかったあの頃の本が今手元に帰って来たように思えた。
 そして彼女もそうだったのだと思うとなんとなく嬉しくなった。
 物語の内容を思い出そうとブルームは記憶を掘り返す。
 これは少年と少女の冒険で────

「……世界で一番空に近い、天空の塔」

 世界に魔の手を伸ばす敵の正体を知り決戦へと望むことになった前夜。
 それはちょうど数十年に一度のブルームーンの日で……そのシーンを思い出そうとするブルームの手に、柔らかで小さな手が乗った。
 隣に座るソルフィオーラが身を乗り出すように身体を寄せてきたのだ。
 再び香るハチミツ林檎の匂い。そして炸裂する、輝かしい笑顔。

「わたくし、そのシーンが大好きなんですの!」

 その眩しさに、つい目を細めてしまった。
 まるで地平線から顔を出した太陽だ。
 暗がりに包まれていた町を綺麗な朝焼け色に染めていく明るい朝陽のような笑顔である。
 今度は突き刺さるようにブルームの胸へ再び衝動が返って来た。
 これにはついぐうと呻いて胸元を押さえ蹲ってしまった。

「ど、どうかしましたのっ? もしかして、体調が優れないのですか……っ!?」
「……いや、何でもない……」

 急に蹲り出したブルームを心配した彼女が覗き込んでくる。
 ふわふわ漂う髪が頬を撫で、どこかからぞくぞくしたものが昇って来た。

 ソルフィオーラとの距離があまりにも近すぎる。
 悪くない距離だがこれ以上は毒になりそうだったので、ブルームはさりげなく彼女から少し──ほんのちょっぴり離れながら姿勢を正した。
 くいっとずれた眼鏡を押し上げ無の表情を作ったブルームにソルフィオーラはほっと安堵の息をつく。それからまた本についての話題を口にした。

「天空の塔の頂上で二人が眺める大きなブルームーン。そのシーンを描いた挿絵がとても美しいのですよね。その物語で一番印象に残っているシーンですの」

 その場面を思い出しているのかソルフィオーラがうっとりと微笑む。
 ────美しいのは、貴女の方だ。

「数十年に一度のブルームーン……わたくし実際に目にしたことはありませんが、さぞ綺麗なのでしょうね」

 未だ見たことがない景色に思いを馳せ、ほうと悩ましい息を吐くソルフィオーラ。
 ────自分には見たことのない景色よりも目の前にある景色の方が綺麗に思える。

「愛する者と見ればと永遠に幸せになれるというジンクスは幼い頃からの憧れなんですの! 僕は世界を幸せにした後も君を幸せにしたい……美しい景色を前に少年から愛の告白を受けた少女がとてもとても羨ましく思いましたわ。わたくしもいつかこんな風に愛を告げられたいと……」

 白い頬を林檎のようにぽっと赤く染めソルフィオーラは微笑む。
 こんなに愛らしく、可憐な少女なのだ。彼女の望みを叶えられる男がうらめ……羨ましい。
 すぐ隣でころころと表情を変えるソルフィオーラに吸い寄せられたようにブルームは目を逸らせなかった。眉間に寄せた力がまた抜けていく。
 不意に、ソルフィオーラがハッと我に返ったような表情をした。ぼけっと話を聞いていたブルームの様子に気づいたのだ。

「も、申し訳ございません! 初めてお会いしたばかりだと言うのに、つい一方的にお話してしまって……!」
「……い、いや……とんでもない」

 そんな彼女にブルームもハッとして表情を正す。
 ずれてもないのに眼鏡をくいと押し上げ声を絞り出す。

「私は……あまり、話が得意ではない。だから、貴女が話をしてくれて、良かった」

 辛うじて紡いだ拙い言葉。何かを発するのにこんなに緊張したのは生まれて初めてだった。
 やはり自分はおかしくなってしまったのか。彼女と出会ってからのひととき、今までの自分は何だったのかと思えるほど調子が狂う。
 今だって自分が発した言葉に彼女が花開いたように表情を明るくしたから──胸の鼓動が、とてもうるさい。

「わたくしも、お話しできて嬉しいですわ」

 たったそれだけ。
 もしかしたら単なる社交辞令かもしれないのに、嬉しいと言われてブルームの心は喜びに震えた。
 そして沸騰しそうなほど、体温が急上昇する。真夏でも無いのに暑くなって、熱くなる。

 その時遠くでソルフィオーラの名を呼ぶ声が聞こえ、彼女は立ち上がった。

「ほんのひと時でしたけれど、とても楽しかったですわ。また……お会い出来たら嬉しいです。上着もありがとうございました」

 ブルームに上着を返しながら別れの言葉を告げる。ソルフィオーラは背を向ける前にぺこりとお辞儀をし『それでは失礼致します』と去ろうとした。

 ゆら、ゆらゆらと金糸の髪を揺らし、その髪が映える桃色のドレスを着たソルフィオーラの後姿は陽射しを受け夏に咲き誇る大輪の花のよう。

「ソルフィオーラ嬢……」

 花に向かって声を掛けた。私はその花の名を知っているのに、花はまだ自分の名を知らない。そのことをたった今思い出したのだ。
 立ち上がったブルームは、呼び止められ振り向いたソルフィオーラに近づくと彼女の手を取った。

「私は……ブルーム・セレネイド。王より公爵の位を賜り、領地グレンツェンを統治しております。以後お見知りおきを」

 華奢で柔らかい彼女の手。膝を折り、その手の甲に唇を落とす。
 見上げたソルフィオーラの顔はまた林檎のように頬を赤く染めていた。

「はい、ブルーム様」

 そして可憐に微笑んだ彼女を見送った後、ブルームはしばらくその場に突っ立ったままでいた。
 稼働を停止してしまった機械のようにぴくりとも動かない。

 中庭の静かな空気がブルームを包む。
 数分後、冬の冷たい夜風が頬を撫でた。呼び覚まされたように顔が熱くなる。

(私は今、何をした……!?)

 その場で頭を抱えて蹲った。 
 先ほど行った一連の動作は無意識にやったものだった。
 もう自分の頭が狂ったとしか思えない。

 しかしあれはただの挨拶。手の甲にキスをする行為は貴族の女性相手には普通のこと。
 それに挨拶ごときで動揺するなどいい歳をした男が情けない! 自分自身を叱咤してブルームはふらふらと立ち上がった。

 問題なのは、唇に残ったソルフィオーラの肌の感触でたる。

 柔らかで滑らかで、瑞々しい果実のような肌。
 それらを思い出すと自然と体が前のめりになった。

 傍から見ればなんと間抜けな恰好だろう。
 熱くなった足の間を手で押さえ前屈姿勢になっている所を見られでもしたら変な噂が立つ。
 ただでさえ、若くして爵位を継いだせいか一部の貴族からは好ましく思われていないというのに。
 ブルームはよろよろと力なくベンチに腰を下ろした。

(本当に……どうかしている)

 頭の中はソルフィオーラの事でいっぱいだった。
 一目見た時の衝撃、くるくると変わる愛らしい表情……それらが脳裏に焼き付いたように消えないのだ。
 今さっき別れたばかりだというのに、その笑顔をまたすぐにでも見たくて仕方がない。
 あの太陽のように明るい笑顔で私を照らして欲しい。
 叶うならそれを私にだけに向けて欲しい。

 ブルームは天を仰ぎ見る。
 夜空に浮かぶ無数の星々……星と星を繋いで線を引けば、あら不思議ソルフィオーラの顔がぽんぽんと描かれる。
 もう、末期症状だった。本気で自分は何かの病気に罹ってしまったらしい。こんなにも彼女の事しか考えられないなど、おかし過ぎる。

(もしかしたら、彼女は……)

 太陽の光に照らされて空から舞い降りてきた天使なのかもしれない。

 病を患った私を迎えに来た天使……

 そんなことを考える自分はやっぱりどうかしていると思いながら、ブルームは天使という単語を繰り返し繰り返し呟くのだった。
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