プリエ・セイレーン

詠月あさひ

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第一章

メールの街に女神の祈りを

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海風がそよぐ。潮の香りがつんと鼻腔をつくが、嫌なものではない。海が近いのは、少女にとって良いことだった。

海は良い。深い澱みを湛えているくせにそれを感じさせないほどに透き通った水の美しさで魅了する。穏やかなだけでなく時に荒く、怒り狂う女性のような一面も見せるが、凪いでいるときは至って穏やかなものだ。漣が寄せては返し、耳に心地良いその音は人々の心を慰める。海は、人間の故郷だ。だからこそ、こんなにも海を眺めていると落ち着くのだろう。胎内で母の鼓動に耳を傾けているように漣の音を聞いていると、少女は嫌なことを忘れられた。だから、海が好きなのだ。それと共に海沿いに位置するこの港街、メールに生まれたことを心底感謝していた。

「ああ、シャンテルじゃないか。今日も神殿のお使いかい?」
「うん!女神様に捧げる花を買いに!」
「そうかい。偉いねぇ」

老齢の男が年輪のように刻まれた皺だらけの頬を持ち上げ、孫を見るように優しげな眼差しでシャンテルを見ながら微笑んだ。
男の問いに答えるようにシャンテルは、右手に提げた木を編み込んで作られた花籠の中の赤や黄色、橙の色とりどりの花を見せて、屈託なく微笑む。

シャンテルは、メールの街にある女神アンドロメダを祀る神殿の巫女だ。母も勿論巫女である。代々巫女の血族に生まれたシャンテルは例に漏れず巫女としての執務をこなすこととなった。それも見習いから一人前へと出世しようかというときである。

鼻唄を歌いながら、シャンテルは赤煉瓦の道をスキップしながら神殿へ進む。
シャンテルが教会の巫女であることはメールの住人なら誰でも知っているようなことである。だからこそ皆が明るい声でシャンテルに声をかけるのだ。白を基調にし、金糸で繊細な刺繍が施された修道服を身に纏う。ゆったりとした袖が特徴的な踝まで丈のあるワンピース状の服、俗にトゥニカと呼ばれる服だ。ウィンプルと呼ばれる裾の長い白いベールを被り、黒い髪を風に靡かせて歩くシャンテルは、いつも笑顔を絶やさず優しい声で人々の声に答え、時に見知らぬ人の手助けを自ら進んでする。そんな天真爛漫で清らかな心持ちが周囲の人間に好かれる要因だった。

神殿は見映えのするような装飾が施された派手なものではない。しかしそこには神聖で美しいものが確かに御座す。そんな印象を持たせるに充分な面構えをした建物だった。大理石で作られた柱に支えられるのは、また大理石の屋根。黒塗りの背の高い扉を開ければ、そこは礼拝堂だ。幾つもの長椅子が並び、中央の女神像の後ろには、この神殿の名を冠する女神アンドロメダの成り立ちを伝える物語性のあるステンドグラスが、左から右に向かって並ぶ。ステンドグラスを透けて様々な色を鮮やかに纏い辺りを照らす光は、礼拝堂をより神聖なものに思わせる。確かに神は此処に居る。女神像も命を宿し、その石の肌もまた柔らかな質感を持つように見えるのだった。

「あら、おかえり。シャンテル」
「母様!」

礼拝堂の奥。神父や修道士、シスター達の居住区へと繋がる扉を開き、姿を見せた女性はシャンテルの母、エレナだった。シャンテルとは違い、黒を基調にした修道服をきっちりと着て、シャンテルと同じアメシストのように美しい瞳は水面のように揺らめき、シャンテルを見つめる。

「こら、走ってはいけないわ。アンドロメダ様の御前よ」
「はーい」

走り寄る娘を窘めつつ、お使いを済ませた娘の頭を優しく撫でた。シャンテルは今年で十七歳だが、未だに母によくなついている。神殿で修行をしている身である彼女は、父と自由に会うことが叶わないのだ。父から神殿に来ることがあればそれも叶うのだろうが、母曰く「あちこちを飛び回っている人」だそうで、それも無理そうだ。その寂しさを無意識に埋めようとしているのか、母離れする気配はない。いつか巫女として神に仕えなければいけない。要するに、一人立ちしなければいけないのだ。甘ったれなこの我が娘にそれが出来るか、エレナは不安だった。

「ねぇ、母様。アンドロメダ様の御話して」
「もう何回も言ったでしょう。寝物語じゃないのよ」
「分かってるけど、聞きたいの!」

シャンテルは既に長椅子に座り、話を聞く体勢に入っている。その目は期待に満ち溢れ、きらきらと輝いている。まるで宝石のような輝きだ。その目に応えない訳にはいかず、エレナは小さく溜め息をつき、シャンテルの隣に座った。

「…昔々、 とある国にケフェウスという王様と、カシオペアという王妃がおり、その間にアンドロメダという、それは美しい姫がおりました。王妃は我が娘の美貌を、いつも自慢していました」

静かな口調と、落ち着いた麗しい声音、そしてその淡々とした喋り方は眠気を誘う。エレナが寝物語ではないと前置きしたのは、これを聞いているシャンテルがいつも途中で眠るからである。しかし今回ははっきりと覚醒し、その表情は続きを語るように促すものだ。エレナは続いて語る。

「ある日カシオペアは、『海の妖精ネイレス達よりも、私の娘アンドロメダのほうが美しい』と言いました。ネイレスとは、海の神様ポセイドンの孫娘のことです。それを聞いたポセイドンは怒り狂いました」

「それは怒るよねぇ…」

うんうんと頷きつつ、シャンテルは話を聞く。

「ポセイドンは彼の国の海岸に海の怪物ティアマトを送り込みました。ティアマトとはその一飲みで海の水を飲み干すほどの巨体をもつ化物鯨です。ティアマトはその体で津波を起こし、田畑や家を波で拐い、その大口で人も馬も船も見境なく飲み込みました」

内容は恐ろしいものだというのに、語り口調がひどく落ち着いたものなのでそれほどの内容ではないように思えるが、実際にこの街で起これば天災ほどのものとなるだろう。そう思うと、シャンテルは身を震わせた。

「何故このようなことが起こったか理解できないケフェウスは、神に御伺いをたてました。その返事はカシオペアがネイレス達を侮辱したから、海の神がお怒りなのだとのことでした。カシオペアを咎めたとて、神の怒りはおさまりません。再びケフェウスは神に訊ねしました。どうすれば、その怒りは収まるのかと」

「………」

最早彼女は話に聞き入り、身を乗り出すようにして母の語る神話を聞く。

「アンドロメダ姫をティアマトの生け贄にするほかない。それを聞いた王と王妃は嘆き悲しみました。愛する我が子をあのような化物の生け贄になど、出来るはずがありません。しかし、それを聞いたアンドロメダは言いました。『私一人の命で皆が助かるというのなら、私は喜んでこの身を捧げましょう』と」

エレナはひとつ息を吐いた。話をすることに離れているのだが、長く話をするのはやはり体力を消費するものだ。

「…二人は反対しましたが、いつのまにか噂は国中に広まっており、国民は叫びます。『生け贄を出せば国中の大勢の人々の命が助かるというのに、王は娘一人の命と国民の命、どちらが大切なのか』と。王は涙を流し、姫を生け贄に捧げることを決断しました」

「………」

「王妃は嘆き悲しみ、涙を流しました。そして、別れの日。哀れなアンドロメダ姫は、小船で海岸から離れた大岩に運ばれ、そこで鎖に繋がれました。人々は『姫一人の命で皆が助かるからとはいえ、可哀想なことをした』と囁きあいます」

シャンテルは自分が姫の立場であるかのように、辛そうに眉をしかめる。大衆の為に一人が犠牲になるということは、美談なのか、それとも───。シャンテルには、まだ分からなかった。

「やがて海面が山のように膨れ上がり、ティアマトが姿を表しました。ティアマトはその大口を開き、死に直面し怯えてがたがたと震えるアンドロメダ姫を、その大岩ごと飲み込みました。するとティアマトはまるで用事が済んだと言わんばかりに海の底へと潜っていき、その巨体を海の波間へ消すのでした」

真剣な眼差しを向け、母の語りに耳を傾けるシャンテル。その表情は苦痛そうに歪む。良くも悪くも、物事に感情移入しやすいのはシャンテルの癖だった。

「それ以来、王と王妃は娘を失った悲しみに暮れる日を送りました。それを哀れに思った神々の王は、アンドロメダを天の星の仲間に加え、姫が生まれた秋の季節の夜空にて、再び会うことを許しました。深い両親の愛に感動したアンドロメダは、流れ星を降らせます。するとその流れ星は円い球体となって二人の手元に降り立ちました」

「それが、この神殿で守っているオーブのこと?」

エレナはシャンテルの問い掛けに頷いて見せる。

「そして夫婦は秋の夜に娘アンドロメダを想いつつ、二度と高慢な態度を取ることはなく、国の安寧を願い、平穏に過ごしました」

「……うーん」

「どうかしたの?」

話を聞き終えたシャンテルは、納得がいかないというふうに首をかしげる。その様子に疑問を感じたエレナは娘に問いかけた。

「なんだか複雑。確かに高慢なカシオペア様は娘の死っていう重すぎる罰を受けたけど、アンドロメダ様は何も悪くないのに死ななくちゃいけなかったのが、理不尽だと思って」

シャンテルのその目はなんだか苦しげだった。理不尽な目に遭うアンドロメダ姫に、同情しているのだろうか。エレナは愛しい娘の頭を撫でる。そのベールのしたには、柔らかな感触の黒髪があるのを知っている。その紫の瞳が、喜ぶときにきらきらと輝くのを知っている。自分の半身のようにさえ思える娘だ。それを失ったカシオペア王妃の痛みは、想像するだけで苦しくなるものがある。エレナは言った。

「シャンテル。この世界は理不尽なことで溢れかえっているわ。だからこそ人は此処に祈りに来るの。どうしようもなく辛いことや、咎なくして死んでいく人々や、今私たちがこうして話している間に消えようとしている儚い命のために、神に祈りを捧げるの。この世界にはね、理不尽に奪われる命が多すぎて、残酷な定めが多すぎて、中には神を呪う人も居るわ。そんな人たちに神の御心を伝えるのが、私達巫女の仕事よ」

そう語るエレナのことを、じっと見つめる。

いつになく、母の存在が大きく見えた。自分よりも長くこの世を生きて色んなものを見てきた母だからこそ言える言葉なのだろうと、シャンテルはその言葉が胸に染みるようだった。
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