プリエ・セイレーン

詠月あさひ

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第一章

アンドロメダの涙

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「そういえば、なんだか街が騒がしかったね」

シャンテルはボウルに彩りよくよそわれたトマトやレタスなどのサラダを、フォークで刺して口に運び、咀嚼しながら不明瞭に言葉を紡ぐ。野菜そのものの青さより、ドレッシングの味が口内に広がる。
食べながら喋るシャンテルを、エレナが注意を促すものの、それを気にする様子はあまりない。今日は珍しくエレナとシャンテルの親子二人きりだから、余計に気が抜けるのだろう。これが本来あるべき家族の肖像なのだろうが、シャンテルはこれで満足していた。

シャンテルが今日市場に出向いて花を買いに行ったとき、市場に集った人々がなにやら囁きあっていたのだ。それに街を守る兵士の顔つきが、普段のそれよりより険しかったように見えた。いつも笑顔というわけではない。むしろ仏頂面であることが殆どなのだが、今日はそれにも増して緊張感で周囲の空気が張りつめていたというか。妙な胸騒ぎがしたのだ。台風の前触れのように風がざわめいて、木々の枝葉が不穏を告げている。そう思わせるような、異変があった。問い掛けに表情を曇らせたエレナの反応は、シャンテルの胸中の不安が的中したことを顕している。もぐもぐと食事を続けるシャンテルとは対照的に、エレナはことりと硬質な音をたてながら、フォークを置いた。そして、ひどく言いづらそうに口を開く。

「噂では海賊がこの近くの海を航海しているらしいの。海の情報に詳しい漁師さんが仰っていたからおそらく、本当よ」

「か、海賊…!で、でもこの街は」

「そう。このメールは中立地帯。国同士の争いには巻き込まれないけれど、海賊にそれが通用するかどうかが…」

エレナの言うとおり、港街メールは中立地帯となっている。それは何を隠そうアンドロメダ神殿があるからだ。神を戦争に巻き込むわけにはいかないという考えのもと、メールは戦争に巻き込まれることのない平和な街となった。だからこそ様々な街との交易に栄えており、色々な船がメールにはやってくる。それに紛れて胡散臭い者達がやってくることもある。勿論、今エレナが言った海賊もそうだ。

「なんでも、海竜の牙っていう海賊団が彷徨いているらしいわ」

「海竜の牙、か…なんか、聞いたことあるかも」

「ええ。義賊として有名な海賊よ。でも、賊には変わらない。怖いわね」

エレナは米神を押さえながら、小さく溜め息をついた。

それだけ、なのだろうか。この胸をざわめかせる不穏な漣は、海賊の到来を伝えようとしているのだろうか。いや、違うような気がする。なにかもっと、不吉なことが起こるような気がして、それがシャンテルには恐ろしく思えたのだ。

─────

「おやすみなさい、シャンテル」

「おやすみなさい、母様」

エレナは小さくお辞儀をしたシャンテルの頭を撫で、柔らかく微笑む。ざわつく心を穏やかにさせる、のどかな日溜まりのような微笑だ。シャンテルも笑顔を返し、割り振られた自室に入る。

部屋は広くない。衣服の入った箪笥と、小さな机と椅子、それにベッドがあるだけの質素なものだ。だが、シャンテルにはそれだけで充分だった。部屋の窓は海に面していて、カーテンを開けば今は夜の海が見える。

夜の海も美しい。星の瞬きが海面で煌めいて、まるで水面が星空になったようだ。黄金に輝く真ん丸な月が海に浮かび上がり、手を伸ばせば月を捕まえられるような、そんな夢見がちな気分にさせてくれる。

うっとりとした表情で海を眺めていたシャンテルだが、ふと頭の隅っこで何かが引っ掛かっているような、そんな感覚に陥る。気掛かりがあるのだ。それは、このアンドロメダ神殿に仕える者達が代々管理し守ってきた宝玉、オーブのことだ。

アンドロメダの神話に出てきた流れ星と言い伝えられているそのオーブは、女神に愛されたものがそれを覗き込むと未来を見通すことが出来ると言われている水晶玉だ。大きさで言えば、直径20cmくらいだろうか。普通の水晶とは違い、透明に透き通っていない。玉の内側に、深い闇を湛えているのだ。それは夜空のようにも見えるし、もしかしたら宇宙なのかもしれない。しかし、シャンテルにとって未来が見えるのかどうか、内側に澱むものの正体は何なのかはあまり重要なことではなかった。大事なのは、これを守らなければいけないということ。誰かに奪われることなく、アンドロメダ神殿に納めておかなければいけないということ。何故なら、その言い伝えには続きがあり、心穢れし者が手にすればオーブもまた穢れ、悪しき未来へ導くと言われている。

眉唾物と言われれば、そうかもしれない。シャンテル自身それを信じているわけではない。ただ、幼い頃からオーブを見せられ、守るように言われ続けていた身としては、オーブは時に命を賭しても守らなければならないものなのだ。

そのオーブに、何らかの危険が及んでいるような気がして、仕方がないのだ。

シャンテルはカーテンを閉じて、静かに部屋を出る。廊下はぽつんぽつんと点在する灯りによって薄く照らされているが、奥の方は暗くてよく見えない。しかし、此処はシャンテルが生まれ育った神殿だ。暗くとも、手に取るように分かる。シャンテルはオーブが奉られる祭壇の間まで、足を進めた。

幾つかある扉を無視して、祭壇の間まで進んでいく。薄明かりに照らされて白い石の床が見え、ひたひたという自分の足音が気持ち悪い。なにか悪いものが出そうだ。エレナを起こそうかとも考えたが、それは心苦しく、結局シャンテルは一人で祭壇の間に向かったのだった。

両脇の灯りに照らされ、仰々しい焦げ茶色をした重厚な両開きの扉が現れた。ぐっと力をこめて、扉を開いた。蝶番がきいいと軋んだ音をたてる。扉を開けた隙間から滑り込んでくる、冷ややかな空気。それは神が御座す神聖な場所に湧き出るものだ。心なしか、廊下よりも気温が低く感じられる。心地いい涼しさといえばいいのだろうか。聖域に満ちる清浄な空気が、祭壇の間には満ちていた。それに気圧されながらも、シャンテルは足を踏み入れた。

その瞬間的。

「…っ!」

ざあっと、祭壇の奥のほうから風が吹いてきたのだ。ありえない。この部屋は基本的に窓が締めきられ、風が入ることはないそれがどうしてなのか。彼女は手探りで壁に進み、そのまま壁づたいに窓を探す。ふと、冷たい夜風に指先が晒される。窓が開いていたのだ。

「なんで…」

緊張で心臓の鼓動が激しく脈打つ。体全体が心臓の一部になってしまったかのようにその鼓動は全身に響いて、凄まじい緊張感がシャンテルに襲いかかる。震える指で窓を閉める。しかし、窓のある位置的に祭壇の奥から風が巻き起こるのはおかしいのではないだろうか。シャンテルの背筋を、冷たいものが這い上る。額から冷や汗が一筋流れた。

仄かに照らされた、オーブの奉られる祭壇に近づく。

「よかった…」

薄明かりに照らされた灰色の祭壇。その中央に安置された深い澱みを湛える水晶。それはいつもと同じ場所に何食わぬ顔をして鎮座している。シャンテルは安堵から、胸を撫で下ろした。そして、つい。悪魔に誘われるようにして、そのオーブを覗きこんだ。

「……」

暗い。底のない闇。どこまでも続く暗黒の路。誘い込まれるともう戻ってこれないような、そんな気分にすらさせられる。しかし。

「…ん?」

絵の具の黒に青と白を少しずつ混ぜ続けたように、その暗闇は段々と海の青さへと姿を変えた。空気の泡が上っている。その最中、なにかがきらりと、光に反射して輝いた。

魚の尾びれだ。それもイルカやジュゴンに似た鮮やかな青のそれは、ひらひらと悪戯に舞う。だんだんと尾びれから上半身に向かって視点は移動し、白く滑らかな肌が映し出される。控えめでもなく豊満なわけでもない形のいいふっくらとした胸は下着のような衣服に覆われ、肩越しには白銀のさらさらとした髪がたゆたい、その顔は───。

「…私?」

シャンテルそのものだった。ぱっちりとした紫の瞳に、小さな鼻。ぷっくりとした桃色の唇のドールフェイスは、まさにシャンテルのものだ。

「…なんで」

そう呟いたとたん、背後で衣擦れの音がした。空間を切り裂くような悪意に襲われ、身を翻す暇もなく、首もとにナイフを突きつけられる。

「おっと、騒ぐなよ巫女さんよ」

熱い息が、耳元に吹き掛けられた。
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