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第一章
沈むは罪なき乙女
しおりを挟むシャンテルはごくりと口内に溜まった唾を飲み込む。首もとに突きつけられたナイフが、いつ己の首を掻き切るのかという恐怖心がシャンテルの心を支配し、鼓動を早める。耳にかかる男の息が熱く、気持ちが悪い。シャンテルは、今すぐにでも振り払いたいほどの嫌悪感に眉をしかめている。しかし、男の手がシャンテルの右手首を掴み、ぎりぎりと締め上げる。太く節くれだった指が蛇のように締めて、鈍い痛みを与える。
「うっ…!」
「さすが巫女さんだな、棒きれみてえな細腕だ。…わかるな?暴れたらこの腕を折るぞ」
「…っ」
男のシャンテルを脅す声が、低く響いた。その脅しが、ただの戯言ではないということはその声色で分かる。
男はシャンテルを羽交い締めにする力を弱めない。耳元を這いずるような声が、祭壇の間に満ちる神聖な空気を震わせた。
「俺はこのオーブが欲しいんだよ。んで取りに入ったら運悪くあんたと居合わせたってわけ」
「なんで、オーブのことを…」
男の言葉にシャンテルは疑問の声をあげる。オーブに関することは神殿に仕える者しかその存在を知られていない。口外することも禁じられている。ならば、この男は何故その存在を知っているのか。勿論、共に生活をしていた仲間を疑いたくはない。しかし、その可能性以外に考えられないのだ。内通者が居る、可能性以外に。
「それは秘密だ。それよりも、哀れにも盗人とこの場に居合わせてしまった巫女さんの行く末の方が気にならないか?」
シャンテルの目には見えないが、男はいやらしく口角をくいとあげた。下品な笑い方だ。
「…犯行を目撃した巫女には、盗人に殺される末路しか待ってないんでしょ?」
シャンテルは気丈に振る舞いながら、皮肉っぽく言う。
「さあ?それは巫女さん次第だな。俺だって人を殺すつもりで来た訳じゃねぇんだ。人間の命を奪う覚悟なんざさらさらねぇ。巫女さんが黙って俺をいかせてくれて、目撃したことも誰にも言わないって約束してくれれば、殺しはしねぇさ」
男の声と、ナイフを持つ手は、僅かに震えていた。その言葉の通り、人の命を奪う覚悟など出来ていないのだろう。盗みだって、許されることではない。犯罪だ。しかし、その人が持ち得た可能性や未来を奪うことは、誰にも許されない。今此処でシャンテルの命を奪うことは容易いことだろう。しかし、それによって背負うこととなる罪の重さ。それを男は恐れている。
「…わかった。言わないから、助けて」
シャンテルはとあることを決意した。その上で、男に言った。姿を見たことは言わないと。だから、助けてほしいと。その声は緊張のためか震えていたが、男がそれを訝しく思うことはないだろう。
「…本当だな?出来る限り人は殺したくねぇからな。そうしてくれると助かるぜ。じゃあ解放するが、声を出すなよ。それに、動くな」
僅かに安堵した様子の男の声。宣言通りシャンテルは男の手から解放される。一先ず命が助かったことに、シャンテルは深く息を吐いた。しかし、気を抜ける場面ではないことは分かっている。
「ほー…これが、未来を見通すオーブか…そりゃあ、欲しがるわけだ」
男はごそごそと服からなにやら袋を取りだし、丁寧な仕草で祭壇からオーブを抜き取り、袋に入れた。そしてもうここには用がないとばかりに、男は身軽に窓枠に手をかけ、よじのばる。そして、一度シャンテルのほうを振り向いた。
「じゃあな。巫女さん」
「………」
男が完全に姿を消すまで、シャンテルは下唇を噛み締めながら黙って立ち尽くす。窓の向こうに男が姿を消すと、部屋の隅の小箱を持ってきて、窓の下に置く。その上に足を置き、窓枠に手をかけて渾身の力を込めてよじ登る。窓は大きく、男が通れたのだから小さなシャンテルは簡単に窓を通り抜けることができた。靴下のまま、地面に降りた。石の冷たさが、ひんやりと布の上から足裏を冷やす。思わずびくりと震えるが、男を追いかけねばという一心でシャンテルは足音を忍ばせて進んでいく。
祭壇の窓を抜けた其処は神殿の裏だ。耳をすませると、左のほうから足音がする。だんだんと離れていっているのが分かる。シャンテルはそれを追いかけるように忍び足で歩みを進めた。狭く壁に挟まれた道を抜けると、脇がすぐ海となっている、広場に通ずる道になる。男の姿を探しながら、シャンテルは歩いた。
目を凝らして周囲を見る。街灯に照らされ、点在する灯りを頼りに男の姿を探した。男だって、神殿の宝を持ち歩いているのだから、悠長に灯りの下を歩いているはずがない。ましてや広場には、夜は見張りの兵士がいる。そこは避けるだろう。だから、男が居るとすれば兵士の動向を窺って、この道で手こずっているはずだ。
───いた。暗闇の中、何かが蠢いている。少しずつ少しずつ、進んでいっているのが分かる。
シャンテルもそれにあわせて、僅かに歩を進めた。心臓がどくんどくんと激しく脈打つ。いつばれるかが恐ろしかったが、オーブを守らねばという使命感がシャンテルを奮い立たせた。震える足を叱咤して、男を追う。
そして広場が近づいてきたその時、男が抱えている袋を後ろから引ったくった。無防備だった男はがくんと後ろに引っ張られるままに姿勢を崩す。
「兵士さん!こっちです!泥棒が…早く来て!」
「っち、くそ!このアマ…!」
男はシャンテルを振り払おうとその頬をひっぱたき、その細身の腹に蹴りをいれる。胃液がせりあがり、シャンテルの口内に嫌な酸っぱさが広がった。その重い衝撃と鈍く響くような痛みに耐えかねて、シャンテルは咳き込みながら蹲る。その間にも、こちらに向かってくる何人かの足音が聞こえてくる。おそらく、シャンテルの叫び声を聞き付けた兵士だろう。男はみるみるうちに焦りを見せた。
「かはっ、ぐっ…!」
「離しやがれ、このっ…」
「っ、ああっ!」
シャンテルから袋を取り上げようと、男は渾身の力を込めて乱暴に袋を引っ張る。取り返そうとして自分の方に袋を引っ張っていたシャンテルの手は、無慈悲にも袋から滑り、体重をかけていた背後の方へ倒れこむ。
暗く深い、海へ。
「っ……!」
ばしゃん!という激しい水音と共に、シャンテルは海に転落する。袖と裾の長い服はみるみるうちに水を吸収して、シャンテルの体に纏わりつき、海草が絡み付くように手足の自由を奪った。突然海に落ちたことにより冷静さを失ったシャンテルはパニックに陥り、空気を求めて手足をばたつかせる。それにより逆に水分を含んだ服はシャンテルを海の底へ絡めとろうとする。無情にもシャンテルの体は、海の底へと沈んでいく。
深い深い海の底へ、沈んでいく。身も心も水と一体化したような感覚に陥り、指先にすら力が入らない。
ああ、このまま死んでいくのか。きっと泥棒は兵士が捕まえてくれて、オーブも無事祭壇に戻るだろう。それしか考えられなかった。そうじゃないとあんまりではないか。まだ若い少女の命が失われるのだ。その先にあったはずの未来。無限の可能性も、感じるはずだった不幸も幸福も知らないまま、少女の命の灯火は小さくなっていく。弱々しく揺らめき、そよ風が吹けば消えてしまいそうなほど。
遺される母のことが、シャンテルには気がかりだった。自分が居なくなってエレナは寂しがるだろう。自分の代わりに誰がエレナを守るのだろう。誰がエレナを慰めるのだろう。それを思うと、辛くて仕方がなかった。胸がぎゅうっと締め付けられ、エレナが恋しくて仕方がなくなる。
会いたい。もう一度一目で良いから会いたい。さよならも言えずに、私はエレナの前から姿を消すのか。
エレナを、独りぼっちにするのか。
ごめんなさい。
愛してる。
シャンテルは心の中で呟く。そして目を開くことが難しくなって、意識を保たなくなり、糸が断ち切られるように、ぷつんとシャンテルの意識は途絶えた。
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