【完結】夫ではない旦那様の子を身ごもりました

遠野エン

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38.小さな衝突

ある時こんなことがあった。

アレックが大きな黒い猫を抱きかかえて庭から戻ってきた。
「ああ、やだわ、アレック坊ちゃま、どこで拾ってきたの?」
侍女たちが慌てて駆けつけると、
その猫は逃げる様子もなく、大人しくアレックの腕の中にいる。

「かわいい猫だよ! でも、毛が汚れてる。ごはんあげてもいい?」
アレックは無邪気にそう尋ね、周囲を困らせる。

わたしは近づき、
「坊ちゃま、猫ちゃんはお腹がすいているのかしらね。
 台所においしいミルクがあるから、持ってきてあげましょうか」と提案した。
アレックは大喜びで、わたしへ「うん、お願い!」と笑いかける。


そのとき、背後から聞こえたエレノア様の声にはどこか固い響きがあった。
「アレック、その猫さんは…お体が良くないかもしれないの。
 触ってあげないほうがいいわ、かわいいけど今はそっと見守ってあげましょう」

アレックは途端に眉をひそめ、不服そうにエレノア様を見つめる。
「でも、猫がかわいそうだよ。お腹すいてるって、にゃあって言ったもん」

母と子の些細な対立。それ自体は珍しいことではない。
その時のエレノア様の表情はどこか落ち着きのない色が差していた。
「だめよ、アレック。放してあげて。猫さんはお家に帰りたいかもしれないわ」

「……どうして? なんでメアリーがいいのに、
 お母様はだめって言うの? ねえ、メアリー、猫にミルクあげようよ!」
アレックはわたしの方を見て、すがるように言う。
埃まみれの黒猫は腕の中で丸まって震えていた。


わたしはエレノア様とアレックの間に挟まって、視線をさまよわせる。
……この問題は単なる猫の保護の可否だけではないように感じる。
エレノア様は自分が「拒絶」したものを、
アレックがわたしと一緒に「受け入れ」ようとしている――
その図式が、彼女の不安を余計に煽っているのかもしれない。

「ええと…アレック坊ちゃま。お母様がおっしゃるように、
 猫ちゃんが病気だと大変だから、一度お医者さまに診てもらいましょう。
 そうすれば安心してミルクをあげられますよ」
わたしは何とか折衷案を提案する。
アレックは頬をぷくりとふくらませ、
「お医者さま…大丈夫かなあ」と心配そうにつぶやく。


エレノア様はその様子を少し険しい顔つきで見つめ、
「……アレック、今からお休みの時間よ。
 あまり外を遊び回ってばかりだと疲れるから」と子どもを促す。
だが、アレックは「メアリーと一緒に猫を連れて行きたい!」
とさらに駄々をこねそうになる。

一瞬、わたしとエレノア様の視線が交錯し、張りつめた空気が走る。
わたしは言葉を急いで差しはさむ。

「では、わたしが先にこの猫ちゃんを外へ連れていって、
 お医者さまに診せる準備をします。アレック坊ちゃまは、
 お母様と一緒に少しお部屋でお休みしましょうね。
 …あとで、また様子を見に行きましょう」

それを聞いたアレックはしぶしぶ頭を縦にふり、猫をそろりと地面に下ろした。
猫は一声もあげず、わたしの足もとをすり抜けて庭の方へ歩き出す。
結局、その猫をどうするかは後ほど落ち着いて話し合うことになった。

……このほんの些細な一幕が
エレノア様の心中に新たな重荷を加えたのではないだろうか。
アレックは“わたし”といるほうを選びたがる――
彼女を包む不安の雲が日に日に濃くなっていくように感じた。
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