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48.母子だけの時間
薄明かりが東の空を染め始めるころ、
わたしたちは館から歩いて半日ほど離れた町へたどり着いた。
そこは騎士や貴族の屋敷が並ぶ中心地から外れ、
商人たちが集まる街道沿いに位置する宿場町。
早朝の市場が活気を帯びていたが、
行き交う人に混じり、目立たぬように隅を通る。
アレックは途中で目を覚まし、はじめは戸惑うようにわたしを見た。
けれど「少し遠くの旅だよ」と言えば、笑みを返してくれる。
彼は幼いなりに「ママ」や「お父様」と離れることへの不安を口にするでもない。
むしろ、冒険のように思っているのか、
首を左右に振って、見知らぬ景色に見入っている。
5歳の彼にとっては未知の世界への旅立ちだ。
その無垢さに胸が詰まる。
(本当のことを言ったら、この子はどう思うのか…)
わたしはあまりに疲れきっていた。
ほとんど一睡もせず歩き続け、心は不安定なのに、
身体を立ち止まらせるわけにはいかないという焦燥があった。
アレックを背負い直すたびに、腕が痺れていくのを感じる。
こんな小さな体でも、子どもを抱えて旅をするのがとれほど大変なことか、
考えもせずに飛び出してしまった。
やがて宿屋らしき建物が見えてきた。
木造の二階建てで、看板には馬の絵が描かれている。
馬小屋も併設されているところから、旅人向けの休憩宿なのだろう。
看板をよく見ると「ほし草亭」と書いてある。
そっとアレックの手を引きながら、扉を開ける。
宿の女将と思しき中年の女性が番台に座っており、わたしに目を留める。
「おや、ずいぶんと朝早くから。……お客さん、泊まりかい?」
その目は値踏みするように見えるが、同時に田舎町特有の大らかさがある。
わたしは少し緊張しながら答える。
「はい…二人で一部屋お願いします。
あまり長居はしませんが、休む部屋が欲しくて…」
女将はちらりとアレックを見やり、顔をほころばせる。
「可愛らしい坊やね。……分かったわ、
二階の端の部屋を案内するよ。お金は前払いでね」
小さな革袋から硬貨を数枚取り出して手渡す。
女将は額を確かめ、その上で鍵を渡してくれた。
部屋に入ると、簡素だが整えられたベッドがふたつと、
古い木の机にランプがあるだけ。
壁は白い漆喰が一部剥げかけているが、暖炉があるので夜は冷え込まないようだ。
冷たい荷物を床に下ろし、ひと息つく。
アレックは汗ばんだ額を拭きながら、窓の外を興味深そうに眺めている。
「ねえ、メアリー、ここどこ?」
わたしは微笑み、小さく答える。
「ここは旅をする人が泊まるところ。今日だけここで休もうね。
……おでかけで疲れたでしょう?」
アレックは膝にちょこんと座り、覗き込むようにわたしの目を見上げる。
そのあどけない表情に、
"母"としての激情をどうしても抑えられなくなる。
館では、こんなふうに二人きりの空間など持てなかった。
いつも周囲に誰かの視線があったし、
決して“本当の母”として抱擁することは許されなかったから。
でもここは違う。
周囲に干渉する者はおらず、ただ小さな部屋にわたしと彼だけ。
(今こそ言うべきなのだろうか? あなたはわたしの子なのだと)
声を出そうとした瞬間、エレノア様の寂しげな眼差しが脳裏をよぎる。
あの方がひどい難産を乗り越え、大切に育ててきた“自分の子”――。
アレックもまた“母”はエレノア様だと信じている。
それをいきなり覆すことが、この幼い心にどれだけの衝撃を与えるか分からない。
喉元までせりあがった言葉を苦し紛れに呑み込むしかなかった。
代わりにアレックの短い髪をゆっくり撫で、その額に小さく口づける。
「ごめんね……」
何に対する謝罪なのか自分でも分からなくなる。
それでもアレックは笑って、わたしの腕に寄り添ってくる。
「メアリー、なんで泣きそうなの?」
不思議そうに小首をかしげるアレックの瞳は、
鏡のように澄んでいて、自分の乱れきった心がうつっている気がした。
わたしは唇をぎこちなくほころばせ、かすれそうな声で返す。
「泣いてなんかいないわ……。ただちょっと嬉しいだけ。
…アレック坊ちゃまがこうして一緒にいてくれるから」
すると、アレックは「うん!」と顔を輝かせ、ぎゅっと抱きついた。
わたしはその温もりを拒むことなく、全身で受け止める。
いつも夢見ていた光景……誰にも邪魔されず、母としてこの子を抱きしめる瞬間。
同時にこの一瞬をエレノア様から奪ったのも事実。
(許されぬことへ手を染めたわたしに、
このささやかな幸福はどれほどの代償を伴うのか…)
わたしたちは館から歩いて半日ほど離れた町へたどり着いた。
そこは騎士や貴族の屋敷が並ぶ中心地から外れ、
商人たちが集まる街道沿いに位置する宿場町。
早朝の市場が活気を帯びていたが、
行き交う人に混じり、目立たぬように隅を通る。
アレックは途中で目を覚まし、はじめは戸惑うようにわたしを見た。
けれど「少し遠くの旅だよ」と言えば、笑みを返してくれる。
彼は幼いなりに「ママ」や「お父様」と離れることへの不安を口にするでもない。
むしろ、冒険のように思っているのか、
首を左右に振って、見知らぬ景色に見入っている。
5歳の彼にとっては未知の世界への旅立ちだ。
その無垢さに胸が詰まる。
(本当のことを言ったら、この子はどう思うのか…)
わたしはあまりに疲れきっていた。
ほとんど一睡もせず歩き続け、心は不安定なのに、
身体を立ち止まらせるわけにはいかないという焦燥があった。
アレックを背負い直すたびに、腕が痺れていくのを感じる。
こんな小さな体でも、子どもを抱えて旅をするのがとれほど大変なことか、
考えもせずに飛び出してしまった。
やがて宿屋らしき建物が見えてきた。
木造の二階建てで、看板には馬の絵が描かれている。
馬小屋も併設されているところから、旅人向けの休憩宿なのだろう。
看板をよく見ると「ほし草亭」と書いてある。
そっとアレックの手を引きながら、扉を開ける。
宿の女将と思しき中年の女性が番台に座っており、わたしに目を留める。
「おや、ずいぶんと朝早くから。……お客さん、泊まりかい?」
その目は値踏みするように見えるが、同時に田舎町特有の大らかさがある。
わたしは少し緊張しながら答える。
「はい…二人で一部屋お願いします。
あまり長居はしませんが、休む部屋が欲しくて…」
女将はちらりとアレックを見やり、顔をほころばせる。
「可愛らしい坊やね。……分かったわ、
二階の端の部屋を案内するよ。お金は前払いでね」
小さな革袋から硬貨を数枚取り出して手渡す。
女将は額を確かめ、その上で鍵を渡してくれた。
部屋に入ると、簡素だが整えられたベッドがふたつと、
古い木の机にランプがあるだけ。
壁は白い漆喰が一部剥げかけているが、暖炉があるので夜は冷え込まないようだ。
冷たい荷物を床に下ろし、ひと息つく。
アレックは汗ばんだ額を拭きながら、窓の外を興味深そうに眺めている。
「ねえ、メアリー、ここどこ?」
わたしは微笑み、小さく答える。
「ここは旅をする人が泊まるところ。今日だけここで休もうね。
……おでかけで疲れたでしょう?」
アレックは膝にちょこんと座り、覗き込むようにわたしの目を見上げる。
そのあどけない表情に、
"母"としての激情をどうしても抑えられなくなる。
館では、こんなふうに二人きりの空間など持てなかった。
いつも周囲に誰かの視線があったし、
決して“本当の母”として抱擁することは許されなかったから。
でもここは違う。
周囲に干渉する者はおらず、ただ小さな部屋にわたしと彼だけ。
(今こそ言うべきなのだろうか? あなたはわたしの子なのだと)
声を出そうとした瞬間、エレノア様の寂しげな眼差しが脳裏をよぎる。
あの方がひどい難産を乗り越え、大切に育ててきた“自分の子”――。
アレックもまた“母”はエレノア様だと信じている。
それをいきなり覆すことが、この幼い心にどれだけの衝撃を与えるか分からない。
喉元までせりあがった言葉を苦し紛れに呑み込むしかなかった。
代わりにアレックの短い髪をゆっくり撫で、その額に小さく口づける。
「ごめんね……」
何に対する謝罪なのか自分でも分からなくなる。
それでもアレックは笑って、わたしの腕に寄り添ってくる。
「メアリー、なんで泣きそうなの?」
不思議そうに小首をかしげるアレックの瞳は、
鏡のように澄んでいて、自分の乱れきった心がうつっている気がした。
わたしは唇をぎこちなくほころばせ、かすれそうな声で返す。
「泣いてなんかいないわ……。ただちょっと嬉しいだけ。
…アレック坊ちゃまがこうして一緒にいてくれるから」
すると、アレックは「うん!」と顔を輝かせ、ぎゅっと抱きついた。
わたしはその温もりを拒むことなく、全身で受け止める。
いつも夢見ていた光景……誰にも邪魔されず、母としてこの子を抱きしめる瞬間。
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