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49.どうしても言えない
ふいに窓の外から、宿の前を行き交う旅人の声が響いてきた。
馬のいななきや車輪の音が混じり合い、
そこが“旅の中継地”であることを改めて実感させられる。
アレックを離し、柔らかな表情で言葉をかけた。
「一度、顔を洗いましょうか。
それから少し休んだら、何か食べに行きましょう」
アレックは嬉しそうに目を輝かせ、
「うん、甘いものが食べたい!」と声を張り上げる。
わたしはその純粋さに救われる思いで頷き返した。
宿の洗面台で二人そろって顔を洗い、
タオルで拭き終わったあたりから、不安が頭をちらつく。
(万が一、この村に館の従者が来たり、
商人が情報を持ち帰ったりして、わたしたちの所在が
ロイド卿に知られたら? そうなったらどうなるの?)
自分でも身勝手だと分かっているが、もう後戻りなどできない。
この子だけは手放したくない。無理やり不安を頭から追い払った。
部屋へ戻ると、アレックは好奇心一杯の目で窓の外を眺める。
それもそのはず、今まで館の外に出たことなどほとんどないのだから。
「メアリー、あれはなに? 白い鳥が飛んでるよ!」
アレックの指差す景色を一緒に眺める。
村人が通りを行き交い、鳥が宿の屋根に止まり、誰かが馬を引き連れてやってくる。
ありふれた生活の匂いがこの場所にはある。
どこにも“貴族の後継ぎ”などいない、
ただの親子連れとでも見られているのかもしれない。
“親子”――そう呼べるものになるために、わたしは奪い去ってきたのだ。
ふと、エレノア様が気がかりになる。
あの方はわたしを責めず、優しい笑みを保ち続けていたのに。
朝になって我が子がいないと気づいたとき、
あの慈しみに満ちた表情はどうなるのだろう。
(今頃、もう騒ぎになっているかもしれない……)
アレックが窓の外を見るのに飽きたころ、
宿の女将から軽食を受け取り、部屋でアレックと一緒に食べることにした。
パンといちごのジャム、それに温かいスープ。
「すごいおいしい! メアリー、食べて食べて!」
アレックは上機嫌にスープをすすり、パンをかじる。
その姿を見ながら、わたしはかろうじて口にパンを押し込む。
食欲があるのかないのかも分からない。
ただ、アレックの食事に引きずられるように、
口を動かすも、喉を通るたびに様々な感情が押し寄せてくる。
「これからどこ行くの? ママとお父様は一緒じゃないの?」
ときおりアレックはそんな質問をする。
わたしは「お父様はお仕事があるのよ」とか、
「ママは忙しいの」とか曖昧な返事でやり過ごす。
本当の母親であるわたしが、どうして嘘ばかり伝えなければならないのか。
そんな矛盾に納得できない気持ちが沸き上がるが、
アレックは気づかず、ジャムを舐めている。
――もし、ここで「わたしがあなたの本当の母よ」
と口にしたとしたら、アレックはどう反応するのだろう。
「違うよ」と否定するかもしれない。
あるいは彼の純粋な心なら、すんなり受け入れてくれるかもしれない。
でも、それはエレノア様の何年にもわたる
母としての努力や愛情を否定するのではないか…。
悪いのはロイド卿とわたし自身、そして吹き荒れた運命の嵐。
どうしても真実を伝えることができず、
アレックの口元を拭いてあげた。
「…あしたのことはあした考えましょう。今はゆっくり休んでね」
アレックは目を瞬かせ「うん」と笑う。
(せめて今日だけは何も不安を与えずに休ませてあげたい)
旅の服に袖を通したまま、窓辺に佇み、
今後のことを考えようとするが何も思いつかない。
逃げる先を準備したわけでもなく、ただ衝動に任せて飛び出してきた。
何とかここまで来られたが、これからどうする?
一生、館には戻れない。
あの地にはエレノア様がいて、わたしとの思い出もあり、
今や騎士たちがわたしたちの行方を捜しているかもしれない。
時折、床が軋む音や宿の廊下を通る客たちの笑い声が耳をかすめる。
そのたびに身を強張らせる。
用心しなければならない。誰かにアレックの存在を怪しまれてはいけない。
この子だけは守らなければ――それが母としての義務――。
馬のいななきや車輪の音が混じり合い、
そこが“旅の中継地”であることを改めて実感させられる。
アレックを離し、柔らかな表情で言葉をかけた。
「一度、顔を洗いましょうか。
それから少し休んだら、何か食べに行きましょう」
アレックは嬉しそうに目を輝かせ、
「うん、甘いものが食べたい!」と声を張り上げる。
わたしはその純粋さに救われる思いで頷き返した。
宿の洗面台で二人そろって顔を洗い、
タオルで拭き終わったあたりから、不安が頭をちらつく。
(万が一、この村に館の従者が来たり、
商人が情報を持ち帰ったりして、わたしたちの所在が
ロイド卿に知られたら? そうなったらどうなるの?)
自分でも身勝手だと分かっているが、もう後戻りなどできない。
この子だけは手放したくない。無理やり不安を頭から追い払った。
部屋へ戻ると、アレックは好奇心一杯の目で窓の外を眺める。
それもそのはず、今まで館の外に出たことなどほとんどないのだから。
「メアリー、あれはなに? 白い鳥が飛んでるよ!」
アレックの指差す景色を一緒に眺める。
村人が通りを行き交い、鳥が宿の屋根に止まり、誰かが馬を引き連れてやってくる。
ありふれた生活の匂いがこの場所にはある。
どこにも“貴族の後継ぎ”などいない、
ただの親子連れとでも見られているのかもしれない。
“親子”――そう呼べるものになるために、わたしは奪い去ってきたのだ。
ふと、エレノア様が気がかりになる。
あの方はわたしを責めず、優しい笑みを保ち続けていたのに。
朝になって我が子がいないと気づいたとき、
あの慈しみに満ちた表情はどうなるのだろう。
(今頃、もう騒ぎになっているかもしれない……)
アレックが窓の外を見るのに飽きたころ、
宿の女将から軽食を受け取り、部屋でアレックと一緒に食べることにした。
パンといちごのジャム、それに温かいスープ。
「すごいおいしい! メアリー、食べて食べて!」
アレックは上機嫌にスープをすすり、パンをかじる。
その姿を見ながら、わたしはかろうじて口にパンを押し込む。
食欲があるのかないのかも分からない。
ただ、アレックの食事に引きずられるように、
口を動かすも、喉を通るたびに様々な感情が押し寄せてくる。
「これからどこ行くの? ママとお父様は一緒じゃないの?」
ときおりアレックはそんな質問をする。
わたしは「お父様はお仕事があるのよ」とか、
「ママは忙しいの」とか曖昧な返事でやり過ごす。
本当の母親であるわたしが、どうして嘘ばかり伝えなければならないのか。
そんな矛盾に納得できない気持ちが沸き上がるが、
アレックは気づかず、ジャムを舐めている。
――もし、ここで「わたしがあなたの本当の母よ」
と口にしたとしたら、アレックはどう反応するのだろう。
「違うよ」と否定するかもしれない。
あるいは彼の純粋な心なら、すんなり受け入れてくれるかもしれない。
でも、それはエレノア様の何年にもわたる
母としての努力や愛情を否定するのではないか…。
悪いのはロイド卿とわたし自身、そして吹き荒れた運命の嵐。
どうしても真実を伝えることができず、
アレックの口元を拭いてあげた。
「…あしたのことはあした考えましょう。今はゆっくり休んでね」
アレックは目を瞬かせ「うん」と笑う。
(せめて今日だけは何も不安を与えずに休ませてあげたい)
旅の服に袖を通したまま、窓辺に佇み、
今後のことを考えようとするが何も思いつかない。
逃げる先を準備したわけでもなく、ただ衝動に任せて飛び出してきた。
何とかここまで来られたが、これからどうする?
一生、館には戻れない。
あの地にはエレノア様がいて、わたしとの思い出もあり、
今や騎士たちがわたしたちの行方を捜しているかもしれない。
時折、床が軋む音や宿の廊下を通る客たちの笑い声が耳をかすめる。
そのたびに身を強張らせる。
用心しなければならない。誰かにアレックの存在を怪しまれてはいけない。
この子だけは守らなければ――それが母としての義務――。
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