【完結】夫ではない旦那様の子を身ごもりました

遠野エン

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54.あの子だけは

数日が経った。

いつどのように日が過ぎているのかも、
窓から差し込む光の加減と
看守が持ってくる食事の回数だけで推測するしかない。
身体は疲弊していたが、それでもアレックを
案じる想いだけが唯一の意識を灯し続ける火種となっていた。
あの子は今、どうしているのか。
エレノア様の腕の中に戻れたのなら、それが一番の救いなのだけれど…。

わたしが連れ出したという罪は、重くのしかかるだろう。
館の体面を守るため、わたしという存在を排除したうえで、
元通り“後継ぎ”として育てるはず。

――それでいい。
わたしはもう母として名乗るつもりなどない。
望んでも許されない。


短い旅の間、わたしが見たアレックの笑顔、
初めての町にわくわくする様子、
プレゼントを渡したときの嬉しそうな姿…
すべてが輝かしい宝石のように、胸に焼きついている。

「あぁ…それだけでも生きてきた価値があったわ…」
思わずそう呟いて、割れたような声が牢の壁に染みこんでいく。
心の底からこみ上げるのは悔しさや恐怖ではない。
ほんの束の間でも、あの子と母子として触れ合えた――
その奇跡のような幸せに、わたしはどうしようもなく救われていた。


冷気に震える身体を抱きしめ、
アレックの小さな笑顔を何度も心の中で呼び起こす。
それは夢かもしれない、幻にすぎないと分かっていても、
その記憶だけが、わたしをここで生かしている。

自分のこれからの運命などどうでもいい。
処刑されるかもしれない。それも仕方ない。
わたしは館にとって最悪の裏切り者であり、“後継ぎ”を奪った誘拐犯なのだから。
だけど、どうかあの子だけは――。


そのような想いを巡らせている時、牢の外から複数人が歩み寄る足音がした。
ごつごつとした壁の向こう、低く誰かが言葉を交わす声を聞く。
全部は聞き取れないが、「裁判」「重罪」という言葉が混じる。
このまま罪人として正式に裁かれるのだと悟る。
そしてその末路は想像に難くない。

またしばらくして、牢の錠前がキーッと軋みを立て、外れる音がする。
扉が開き、一人の男が入ってきた。
ロイド卿ではない。中年の書記官風の男が淡々と喋り始める。
「"神判の塔"にて、あなたの罪を裁くことが決定しました。
 近日中に開かれます。心の準備を」
その無味乾燥な通告に、まぶたを下ろして呼吸を整える。

神判の塔――重罪を犯したものに裁きを下す領地内最大の裁判所。
とうとう、来るべきときが来た。
何もかも隠しきれるはずもなく、わたしの罪状は明らかだ。
“貴族の子を誘拐した大罪”として、法廷に引きずり出される。

男は猶予なく続ける。
「それまでここで待つように。…供述は当日に聞きます。では」
それだけ言うと、彼は立ち去っていく。
兵士たちが扉を再び閉め、重い錠前をかける。


心は混濁するも、どこか冷静に受け止めている自分もいる。
最悪の状況であっても、こうなることは
初めから想定のうちだったではないか、と。

逃げ切れなかった以上、これは当然の結末。
あの子を無理やり連れ出したのだから。
「ごめんなさい……エレノア様」
浮かんでくるのは、わたしが心から慕ってきたあの方の面影だ。
主でありながら友と呼んでくれた方に背いた。
あの子をあなたのもとから引きはがした――。
きっと、今は途方もない苦しみに沈んでおられるかもしれない。
あの優しい笑顔を思い返すだけで、心に深い淵が広がる。


わたしの存在など、もうどうなろうと構わない。
ただ、アレックだけは…と願う。
罰されて然るべき。
それで円満に"家族"がまた平穏を取り戻すなら望むところ。
アレックもきっと元通り“ロイド卿とエレノア様の息子”として
由緒正しき"シェフィールド家の後継ぎ"として
育っていくのだろう。
わたしを忘れ…。
それが一番幸せかもしれない。
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