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64.聖女じゃない
「皆さん、来てちょうだい」
手を上げ、遠くに控えておりました数名の兵士を呼び寄せます。
彼らはこの館に仕える者たちです。
堂々と命じる権利が、今のわたくしにはあります。
「……タンポポ畑を焼き払いなさい」
口にした瞬間、どこか胸の奥がきしむのを感じました。
――しかしながら、この思い出の場所を
残しておく意味がもう何ひとつ見いだせないのです。
すべてを燃やし灰にすることでしか、前に進めぬような気がいたしました。
それがどれほど悲痛なことでありましても、
この苦しみから解き放たれねばなりません。
兵士たちはわたくしの言葉に逆らうことはいたしません。
「かしこまりました、エレノア様」
彼らは油の入った容器を携え、手早く作業を始めます。
一瞬のうちに油が滴り、冷たい風にまぎれて刺激的な匂いが漂い始めました。
やがて、火を放った兵士の一人が叫ぶように報告します。
「火がつきました、すぐに燃え広がるはずです!」
刹那にパチパチと木の枝がはぜるような音が立ち上がり、
一気に炎が辺りを包み込みました。
わたくしはわずかに身を引き、揺らめく赤い炎の輪郭をじっと見つめておりました。
もくもくと沸き立つ煙が、淡い空へと昇っていきます。
タンポポの綿毛はもう遠くの空に舞い散ったか、
あるいは火に飲まれ、その命を終えてしまったのでしょう。
その光景に悲哀を感じながらも、
冷めた目で眺めている自分を自覚しておりました。
わたくしは心のどこかで願っていたのかもしれません…
――すべてがただ美しいまま終わってほしかった、と。
あの黄金色の輝きがわたくしの思い出を
いつまでも優しく彩ってくれるように、と。
ところが現実には詩のように清らかな結末などありはしないのです。
あまりにも多くの嘘と裏切りと苦悩が、
わたくしの人生の道筋を蝕んでしまったのでありますから。
燃え盛る炎から目をそらしたとき、メアリーの姿が脳裏をよぎりました。
あの子を産んだ母親。
そう認めながらも彼女を赦しませんでした。
わたくしの怒りはあの裁判で終わることなどなかったのです。
表向きは「慈愛深い夫人」として振る舞いながらも、
その裏ではずっと、煮えたぎるような感情が螺旋を描いておりました。
今、それが形を成して彼女を追放し、
思い出の場所に火をかけるという行為に繋がっているのです。
どこからか、馬の嘶きが聞こえます。
炎が急激に広がったのを見て、兵士の一人が騒ぎ立てております。
わたくしはそれを制し、ただ一言、
「迅速に消火を抑えて。他の場所に被害を及ぼさぬように」と命じます。
もう二度と、あの畑は黄金にも白い綿毛にも戻ることはないでしょう。
焦げついた跡が記憶を塗り替えるかのように、この丘を覆うこととなるでしょう。
――人は愚かなものです。
愛ゆえに罪を犯す。その罪を糾弾しながら、また別の罪を重ねていく。
わたくしもまた、その愚かなひとりに過ぎません。
だからこそ、わたくしはこの結末を選ばずにはいられなかったのです。
火の粉が大気に踊り、ゆらゆらと赤く瞬く炎がわたくしの横顔を照らします。
胸には痛みが宿りながらも、顔の表情は固まったまま。
何もかもを背負って生きていくしかありません。
アレックをわたくしの手で育て、
いつかは彼が真実を知ったとしても、彼を守り抜かねばなりません。
――それが、今のわたくしに残された唯一の道。
燃え盛る炎が落ち着きを取り戻していくにつれ、
吐き出される煙の量も減ってまいります。
わたくしは風上へと少し移動し、煙を避けながら兵士たちに指示を与えます。
「これ以上、火が広がらぬよう急ぎ囲いを作りなさい。
丘の外へは燃え移らぬよう、念を入れて防ぎます。
さあ、終わりにしましょう。この場も、この思い出も……」
燃え上がった丘は、もうかつての輝きを取り戻すことはないでしょう。
そしてわたくし自身もまた、あのときの純粋な心に戻ることはないのです。
灰へと還る景色を前に、まぶたを伏せて小さく息を吐きました。
見上げれば、空を舞うわずかな綿毛の名残が遠くに揺らめいております。
もう届かぬほどの高さへと昇っていくそれらは、
過去の記憶を抱えて風の彼方に消えていくかのようです。
そこに救いはございません。この運命と怒り、そして愛を抱きしめたまま、
まだ見ぬ明日へと進むしかないのです――。
――わたくしの命じた炎はすべてを焼き払い、
タンポポの咲き誇った美しい丘は、
もはや“思い出”とは呼べぬほどの、黒く沈黙した荒野と化しました。
メアリーがどこへ行くかは存じません。
そしてアレックはわたくしのもとで育ちます。
その行く末がどれほど苦悩と淀みを伴おうとも、
決して後悔はしないと誓います。
――わたくしはもう、清らかな“聖女”ではいられません。
それでよいのです。
わたくしは、わたくしの思いのままに生きます。
あの子を守り、そして失墜したこの領地を立て直す。
そうするよりほかに、
この胸に刻まれた裏切りと喪失の痛みを鎮める術はありませんから。
ただ、風が吹いております。
燃えかすを巻き上げ、わたくしの衣に灰をまとわりつかせます。
あたりには無言の焦土が広がっておりました。
兵士たちの動きを静かに見守りながら、
もう一度だけ、タンポポの花を思いました。
(……ごめんなさい、あなたたちには何の罪もないのに……)
――黄金の花びらの冠を彼女に手渡した幼き日のわたくし。
あれは儚い夢、虚構の美しさ。
今はもう灰に帰し、再び手の届くことのない遠い記憶です。
わたくしは歩みます。
胸の底にある、わずかな光とともに。
手を上げ、遠くに控えておりました数名の兵士を呼び寄せます。
彼らはこの館に仕える者たちです。
堂々と命じる権利が、今のわたくしにはあります。
「……タンポポ畑を焼き払いなさい」
口にした瞬間、どこか胸の奥がきしむのを感じました。
――しかしながら、この思い出の場所を
残しておく意味がもう何ひとつ見いだせないのです。
すべてを燃やし灰にすることでしか、前に進めぬような気がいたしました。
それがどれほど悲痛なことでありましても、
この苦しみから解き放たれねばなりません。
兵士たちはわたくしの言葉に逆らうことはいたしません。
「かしこまりました、エレノア様」
彼らは油の入った容器を携え、手早く作業を始めます。
一瞬のうちに油が滴り、冷たい風にまぎれて刺激的な匂いが漂い始めました。
やがて、火を放った兵士の一人が叫ぶように報告します。
「火がつきました、すぐに燃え広がるはずです!」
刹那にパチパチと木の枝がはぜるような音が立ち上がり、
一気に炎が辺りを包み込みました。
わたくしはわずかに身を引き、揺らめく赤い炎の輪郭をじっと見つめておりました。
もくもくと沸き立つ煙が、淡い空へと昇っていきます。
タンポポの綿毛はもう遠くの空に舞い散ったか、
あるいは火に飲まれ、その命を終えてしまったのでしょう。
その光景に悲哀を感じながらも、
冷めた目で眺めている自分を自覚しておりました。
わたくしは心のどこかで願っていたのかもしれません…
――すべてがただ美しいまま終わってほしかった、と。
あの黄金色の輝きがわたくしの思い出を
いつまでも優しく彩ってくれるように、と。
ところが現実には詩のように清らかな結末などありはしないのです。
あまりにも多くの嘘と裏切りと苦悩が、
わたくしの人生の道筋を蝕んでしまったのでありますから。
燃え盛る炎から目をそらしたとき、メアリーの姿が脳裏をよぎりました。
あの子を産んだ母親。
そう認めながらも彼女を赦しませんでした。
わたくしの怒りはあの裁判で終わることなどなかったのです。
表向きは「慈愛深い夫人」として振る舞いながらも、
その裏ではずっと、煮えたぎるような感情が螺旋を描いておりました。
今、それが形を成して彼女を追放し、
思い出の場所に火をかけるという行為に繋がっているのです。
どこからか、馬の嘶きが聞こえます。
炎が急激に広がったのを見て、兵士の一人が騒ぎ立てております。
わたくしはそれを制し、ただ一言、
「迅速に消火を抑えて。他の場所に被害を及ぼさぬように」と命じます。
もう二度と、あの畑は黄金にも白い綿毛にも戻ることはないでしょう。
焦げついた跡が記憶を塗り替えるかのように、この丘を覆うこととなるでしょう。
――人は愚かなものです。
愛ゆえに罪を犯す。その罪を糾弾しながら、また別の罪を重ねていく。
わたくしもまた、その愚かなひとりに過ぎません。
だからこそ、わたくしはこの結末を選ばずにはいられなかったのです。
火の粉が大気に踊り、ゆらゆらと赤く瞬く炎がわたくしの横顔を照らします。
胸には痛みが宿りながらも、顔の表情は固まったまま。
何もかもを背負って生きていくしかありません。
アレックをわたくしの手で育て、
いつかは彼が真実を知ったとしても、彼を守り抜かねばなりません。
――それが、今のわたくしに残された唯一の道。
燃え盛る炎が落ち着きを取り戻していくにつれ、
吐き出される煙の量も減ってまいります。
わたくしは風上へと少し移動し、煙を避けながら兵士たちに指示を与えます。
「これ以上、火が広がらぬよう急ぎ囲いを作りなさい。
丘の外へは燃え移らぬよう、念を入れて防ぎます。
さあ、終わりにしましょう。この場も、この思い出も……」
燃え上がった丘は、もうかつての輝きを取り戻すことはないでしょう。
そしてわたくし自身もまた、あのときの純粋な心に戻ることはないのです。
灰へと還る景色を前に、まぶたを伏せて小さく息を吐きました。
見上げれば、空を舞うわずかな綿毛の名残が遠くに揺らめいております。
もう届かぬほどの高さへと昇っていくそれらは、
過去の記憶を抱えて風の彼方に消えていくかのようです。
そこに救いはございません。この運命と怒り、そして愛を抱きしめたまま、
まだ見ぬ明日へと進むしかないのです――。
――わたくしの命じた炎はすべてを焼き払い、
タンポポの咲き誇った美しい丘は、
もはや“思い出”とは呼べぬほどの、黒く沈黙した荒野と化しました。
メアリーがどこへ行くかは存じません。
そしてアレックはわたくしのもとで育ちます。
その行く末がどれほど苦悩と淀みを伴おうとも、
決して後悔はしないと誓います。
――わたくしはもう、清らかな“聖女”ではいられません。
それでよいのです。
わたくしは、わたくしの思いのままに生きます。
あの子を守り、そして失墜したこの領地を立て直す。
そうするよりほかに、
この胸に刻まれた裏切りと喪失の痛みを鎮める術はありませんから。
ただ、風が吹いております。
燃えかすを巻き上げ、わたくしの衣に灰をまとわりつかせます。
あたりには無言の焦土が広がっておりました。
兵士たちの動きを静かに見守りながら、
もう一度だけ、タンポポの花を思いました。
(……ごめんなさい、あなたたちには何の罪もないのに……)
――黄金の花びらの冠を彼女に手渡した幼き日のわたくし。
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今はもう灰に帰し、再び手の届くことのない遠い記憶です。
わたくしは歩みます。
胸の底にある、わずかな光とともに。
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