2 / 2
第一章〜出会いと約束の輝き〜
第2話 不機嫌な査察官
しおりを挟む
あの「キラキラした背中」を見送ってから、三日が過ぎた。朝一番の焼き立てパンから立ち上る湯気を見るたび、私の脳裏にはあの亜麻色の髪がフラッシュバックする。
(……なんて、いつまでも浮かれてちゃダメだよね)
私は自分の頬をパチンと叩いて、店内に並ぶ黄金色のパンたちに向き直った。その時、カランカラン、とドアのベルが小気味よい音を立てた。
「いらっしゃいませ!」
いつもの元気な声で顔を上げた私は、その場に固まった。そこに立っていたのは、あの日と同じ、清潔なシャツを身に纏ったあの人だった。
でも、今日の彼はひどく難しい顔をしている。手には革の表紙の手帳を携え、鋭い眼差しで店内の棚から天井の隅までを、なぞるように見つめていた。
「あ……! あの時の!」
私が指を差すと、彼は一瞬だけ眉を動かし、すぐに視線を私に向けた。あの日、逆光で見えなかった瞳の色が、ようやくはっきりと見えた。深い森の奥にある湖のような、透き通ったブルーグレー。
「……王都直属、市場査察官のアルベルトだ」
その声は、朝の空気に似て涼やかで、でもどこか不慣れな硬さを含んでいた。
「査察……官? あの、看板の時は、お礼も言えなくて……」
「私語は不要だ。私はこの区画の店舗の品質、および衛生管理の調査に来た。調査の間、店主は平常通り業務を続けるように」
彼は淡々と告げると、手帳にサラサラとペンを走らせ始めた。あんなに優しく看板を直してくれた人と同じ人とは思えないほど、今の彼は「鉄の仮面」を被っているみたいに無表情だ。
(なんだ、怖い人なのかな……?)
でも、私は気づいてしまった。冷たく「平常通りに」なんて言いながら、彼の視線が、私のすぐ横にある『おひさまパン』のトレイに、何度も、何度も、吸い寄せられていることに。
「……ふむ。このパンは、随分と焼き色が濃いようだが。火加減に問題はないのか?」
彼は努めて冷ややかに、でも隠しきれない興味を瞳に宿してパンを指差した。私は思わず、ぷっと吹き出しそうになった。
「問題なんてありません! これは『おひさまパン』。お日様みたいに元気な色に焼くのが、私の自慢なんです」
私はトレイを彼の方へグイッと押し出した。
「査察官さん。品質を調べるなら、実際に食べてみるのが一番ですよ。はい、これ。今日一番の出来なんです!」
「なっ……私は職務中だ。賄賂《わいろ》のような真似は……」
「賄賂だなんて人聞きが悪い! 調査のための『試食』です」
私がニコニコと笑って、まだ熱を帯びたパンを差し出すと、彼は一瞬、ひどく困ったように私とパンを交互に見た。やがて、彼は降参したように溜息をつくと、手袋を脱ぎ、細く綺麗な指先でパンを手に取った。
指がパンの皮に触れた瞬間、パチッ、と繊細な音が鳴る。彼はそれを、おそるおそる口へと運んだ。
ひと口、彼がパンを噛みしめる。その瞬間。
「…………っ!」
彼の動きが、ピタリと止まった。 湖のような瞳が大きく見開かれ、みるみるうちに潤んでいく。 外側はパリッとしていて、中は信じられないほどにふわふわ。噛むほどに溢れ出すバターの香りと、小麦の力強い甘み。
「……信じられない。こんなに……温かくて、優しい味が……」
ポツリと漏れた独り言。その時、彼の亜麻色の髪がふわりと揺れ、窓から差し込む光に照らされた。鉄の仮面が剥がれ落ち、そこにはあの日私を助けてくれた、あの「キラキラした人」の柔らかな表情があった。
「美味しい、でしょう?」
私が胸を張って尋ねると、彼はハッと我に返ったように、また不機嫌そうな顔を作り直した。でも、その耳の端がほんのりと赤くなっているのを、私は見逃さなかった。
「……味の確認は完了した。引き続き、原材料の出処についても調査の必要がある」
「ええ、喜んで! それなら明日、私と一緒に仕入れに行きますか?」
「仕入れに……?」
「はい! 最高の小麦と卵の秘密、私が全部教えてあげます!」
彼は一瞬、査察官としての「公務」と、もっとこの温かさに触れていたいという「本音」の間で揺れているようだった。やがて彼は、また片手をひらりと上げて、背中を向けた。
「……あくまで、査察の一環だ。遅れるなよ」
足早に去っていく彼の背中。でも、あの日とは違う。今日の私は、彼の名前を知っている。
「アルベルトさん、か。……ふふっ、明日も忙しくなりそう!」
大きな音がして扉が開いた。
「お姉ちゃん、変な顔してニヤニヤしてるよー」
常連客のナナが店に入ってきたのは、そのすぐ後のことだった。
(……なんて、いつまでも浮かれてちゃダメだよね)
私は自分の頬をパチンと叩いて、店内に並ぶ黄金色のパンたちに向き直った。その時、カランカラン、とドアのベルが小気味よい音を立てた。
「いらっしゃいませ!」
いつもの元気な声で顔を上げた私は、その場に固まった。そこに立っていたのは、あの日と同じ、清潔なシャツを身に纏ったあの人だった。
でも、今日の彼はひどく難しい顔をしている。手には革の表紙の手帳を携え、鋭い眼差しで店内の棚から天井の隅までを、なぞるように見つめていた。
「あ……! あの時の!」
私が指を差すと、彼は一瞬だけ眉を動かし、すぐに視線を私に向けた。あの日、逆光で見えなかった瞳の色が、ようやくはっきりと見えた。深い森の奥にある湖のような、透き通ったブルーグレー。
「……王都直属、市場査察官のアルベルトだ」
その声は、朝の空気に似て涼やかで、でもどこか不慣れな硬さを含んでいた。
「査察……官? あの、看板の時は、お礼も言えなくて……」
「私語は不要だ。私はこの区画の店舗の品質、および衛生管理の調査に来た。調査の間、店主は平常通り業務を続けるように」
彼は淡々と告げると、手帳にサラサラとペンを走らせ始めた。あんなに優しく看板を直してくれた人と同じ人とは思えないほど、今の彼は「鉄の仮面」を被っているみたいに無表情だ。
(なんだ、怖い人なのかな……?)
でも、私は気づいてしまった。冷たく「平常通りに」なんて言いながら、彼の視線が、私のすぐ横にある『おひさまパン』のトレイに、何度も、何度も、吸い寄せられていることに。
「……ふむ。このパンは、随分と焼き色が濃いようだが。火加減に問題はないのか?」
彼は努めて冷ややかに、でも隠しきれない興味を瞳に宿してパンを指差した。私は思わず、ぷっと吹き出しそうになった。
「問題なんてありません! これは『おひさまパン』。お日様みたいに元気な色に焼くのが、私の自慢なんです」
私はトレイを彼の方へグイッと押し出した。
「査察官さん。品質を調べるなら、実際に食べてみるのが一番ですよ。はい、これ。今日一番の出来なんです!」
「なっ……私は職務中だ。賄賂《わいろ》のような真似は……」
「賄賂だなんて人聞きが悪い! 調査のための『試食』です」
私がニコニコと笑って、まだ熱を帯びたパンを差し出すと、彼は一瞬、ひどく困ったように私とパンを交互に見た。やがて、彼は降参したように溜息をつくと、手袋を脱ぎ、細く綺麗な指先でパンを手に取った。
指がパンの皮に触れた瞬間、パチッ、と繊細な音が鳴る。彼はそれを、おそるおそる口へと運んだ。
ひと口、彼がパンを噛みしめる。その瞬間。
「…………っ!」
彼の動きが、ピタリと止まった。 湖のような瞳が大きく見開かれ、みるみるうちに潤んでいく。 外側はパリッとしていて、中は信じられないほどにふわふわ。噛むほどに溢れ出すバターの香りと、小麦の力強い甘み。
「……信じられない。こんなに……温かくて、優しい味が……」
ポツリと漏れた独り言。その時、彼の亜麻色の髪がふわりと揺れ、窓から差し込む光に照らされた。鉄の仮面が剥がれ落ち、そこにはあの日私を助けてくれた、あの「キラキラした人」の柔らかな表情があった。
「美味しい、でしょう?」
私が胸を張って尋ねると、彼はハッと我に返ったように、また不機嫌そうな顔を作り直した。でも、その耳の端がほんのりと赤くなっているのを、私は見逃さなかった。
「……味の確認は完了した。引き続き、原材料の出処についても調査の必要がある」
「ええ、喜んで! それなら明日、私と一緒に仕入れに行きますか?」
「仕入れに……?」
「はい! 最高の小麦と卵の秘密、私が全部教えてあげます!」
彼は一瞬、査察官としての「公務」と、もっとこの温かさに触れていたいという「本音」の間で揺れているようだった。やがて彼は、また片手をひらりと上げて、背中を向けた。
「……あくまで、査察の一環だ。遅れるなよ」
足早に去っていく彼の背中。でも、あの日とは違う。今日の私は、彼の名前を知っている。
「アルベルトさん、か。……ふふっ、明日も忙しくなりそう!」
大きな音がして扉が開いた。
「お姉ちゃん、変な顔してニヤニヤしてるよー」
常連客のナナが店に入ってきたのは、そのすぐ後のことだった。
1
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています
藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。
結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。
聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。
侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。
※全11話 2万字程度の話です。
下賜されまして ~戦場の餓鬼と呼ばれた軍人との甘い日々~
星森
恋愛
王宮から突然嫁がされた18歳の少女・ソフィアは、冷たい風の吹く屋敷へと降り立つ。迎えたのは、無愛想で人嫌いな騎士爵グラッド・エルグレイム。金貨の袋を渡され「好きにしろ」と言われた彼女は、侍女も使用人もいない屋敷で孤独な生活を始める。
王宮での優雅な日々とは一転、自分の髪を切り、服を整え、料理を学びながら、ソフィアは少しずつ「夫人」としての自立を模索していく。だが、辻馬車での盗難事件や料理の失敗、そして過労による倒れ込みなど、試練は次々と彼女を襲う。
そんな中、無口なグラッドの態度にも少しずつ変化が現れ始める。謝罪とも言えない金貨の袋、静かな気遣い、そして彼女の倒れた姿に見せた焦り。距離のあった二人の間に、わずかな波紋が広がっていく。
これは、王宮の寵姫から孤独な夫人へと変わる少女が、自らの手で居場所を築いていく物語。冷たい屋敷に灯る、静かな希望の光。
⚠️本作はAIとの共同製作です。
幻獣保護センター廃棄処理係の私、ボロ雑巾のような「ゴミ幻獣」をこっそり洗ってモフっていたら、実は世界を喰らう「終焉の獣」だった件について
いぬがみとうま🐾
ファンタジー
「魔力なしの穀潰し」――そう蔑まれ、幻獣保護センターの地下で廃棄幻獣の掃除に明け暮れる少女・ミヤコ。
実のところ、その施設は「価値のない命」を無慈悲に殺処分する地獄だった。
ある日、ミヤコの前に運ばれてきたのは、泥と油にまみれた「ボロ雑巾」のような正体不明の幻獣。
誰の目にもゴミとしか映らないその塊を、ミヤコは放っておけなかった。
「こんなに汚れたままなんて、かわいそう」
彼女が生活魔法を込めたブラシで丹念に汚れを落とした瞬間、世界を縛る最凶の封印が汚れと一緒に「流されてしまう。
現れたのは、月光を纏ったような美しい銀狼。
それは世界を喰らうと恐れられる伝説の災厄級幻獣『フェンリル・ヴォイド』だった……。
追放された悪役令嬢は辺境にて隠し子を養育する
3ツ月 葵(ミツヅキ アオイ)
恋愛
婚約者である王太子からの突然の断罪!
それは自分の婚約者を奪おうとする義妹に嫉妬してイジメをしていたエステルを糾弾するものだった。
しかしこれは義妹に仕組まれた罠であったのだ。
味方のいないエステルは理不尽にも王城の敷地の端にある粗末な離れへと幽閉される。
「あぁ……。私は一生涯ここから出ることは叶わず、この場所で独り朽ち果ててしまうのね」
エステルは絶望の中で高い塀からのぞく狭い空を見上げた。
そこでの生活も数ヵ月が経って落ち着いてきた頃に突然の来訪者が。
「お姉様。ここから出してさし上げましょうか? そのかわり……」
義妹はエステルに悪魔の様な契約を押し付けようとしてくるのであった。
お腹の子と一緒に逃げたところ、結局お腹の子の父親に捕まりました。
下菊みこと
恋愛
逃げたけど逃げ切れなかったお話。
またはチャラ男だと思ってたらヤンデレだったお話。
あるいは今度こそ幸せ家族になるお話。
ご都合主義の多分ハッピーエンド?
小説家になろう様でも投稿しています。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
身代わりで呪いの公爵に嫁ぎましたが、聖女の力で浄化したら離縁どころか国一番の溺愛妻になりました〜実家が泣きついてももう遅い〜
しょくぱん
恋愛
「お前のような無能は、死神の生贄にでもなっていろ」
魔力なしの無能と蔑まれ、家族に虐げられてきた伯爵令嬢レティシア。 彼女に命じられたのは、近づく者すべてを病ませるという『呪いの公爵』アレクシスへの身代わり結婚だった。
鉄格子の馬車で運ばれ、たどり着いたのは瘴気に満ちた死の城。 恐ろしい怪物のような男に殺される――。 そう覚悟していたレティシアだったが、目の前の光景に絶望よりも先に別の感情が湧き上がる。
(な、何これ……汚すぎるわ! 雑巾とブラシはどこ!?)
実は、彼女が「無能」と言われていたのは、その力が『洗浄』と『浄化』に特化した特殊な聖女の魔力だったから。
レティシアが掃除をすれば、呪いの瘴気は消え去り、枯れた大地には花が咲き、不気味だった公爵城はまたたく間にピカピカの聖域に塗り替えられていく。 さらには、呪いで苦しんでいたアレクシスの素顔は、見惚れるほどの美青年で――。
「レティシア、君は一体何者なんだ……? 体が、こんなに軽いのは初めてだ」
冷酷だったはずの公爵様から、まさかの執着と溺愛。 さらには、呪いが解けたことで領地は国一番の豊かさを取り戻していく。
一方で、レティシアを捨てた実家は、彼女の『浄化』を失ったことで災厄に見舞われ、今さら「戻ってきてくれ」と泣きついてくるが……。
「私は今、お城の掃除と旦那様のお世話で忙しいんです。お引き取りくださいませ」
これは、掃除を愛する薄幸令嬢が、その愛と魔力で死神公爵を救い、最高に幸せな居場所を手に入れるまでのお話。
好きな人に『その気持ちが迷惑だ』と言われたので、姿を消します【完結済み】
皇 翼
恋愛
「正直、貴女のその気持ちは迷惑なのですよ……この場だから言いますが、既に想い人が居るんです。諦めて頂けませんか?」
「っ――――!!」
「賢い貴女の事だ。地位も身分も財力も何もかもが貴女にとっては高嶺の花だと元々分かっていたのでしょう?そんな感情を持っているだけ時間が無駄だと思いませんか?」
クロエの気持ちなどお構いなしに、言葉は続けられる。既に想い人がいる。気持ちが迷惑。諦めろ。時間の無駄。彼は止まらず話し続ける。彼が口を開く度に、まるで弾丸のように心を抉っていった。
******
・執筆時間空けてしまった間に途中過程が気に食わなくなったので、設定などを少し変えて改稿しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる