操り人形の外の世界

冠つらら

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53.あの日の素顔

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「ロミィ」

 ようやく聞こえた愛おしい声は、まだ夢に取り残されたように耳に響く。

「僕、君が思うよりもずっと馬鹿なんだ」
「……え?」

 何を言いだすのかと、まだ頬が赤いままなのについオルメアのことを見てしまう。

「多分、夢だったんだと思うんだけど……僕、前にロミィに突き放されてしまったんだ。僕が何をしてしまったのかもわからなくて、ロミィが何に怒っているのかもわからなくて。それでも、君はいつも辛そうな顔をしていた。なのに僕はそんな君に何もできなくて、ロミィとの間には壁ができていく一方で……」

 ごくりと息をのみ込んだ。
 これはオルメアの悪夢の話だ。
 呪われた日々の彼の記憶が今、オルメア自身の口から語られている。
 あの日の彼との交流をどれほど待ち望んだことだろう。

「きっと僕が悪かったんだろう。君があんなに悲しむなんて。その顔が忘れられなくて、夏休み前にロミィの笑顔を見た時は、すごく嬉しかった。だから君のその笑顔がいつか揺らいでしまうんじゃないかって、ちょっとだけ怖かった。でも」

 オルメアの雨に濡れた長い睫と目が合って、私の指先にまで電流が走った。

「僕はあの夢の中の君のことばかりを気にしていて、今ここにいる君のことを見ていなかった」
「……オルメア?」
「馬鹿みたいだろ? 夢に囚われて、目の前のことを疎かにするなんて」

 自嘲的な笑みを見せたオルメアは、情けないな、と眉を歪ませた。

「僕は不器用だから、ロミィの向こう側ばかりを見ていた。君に、嫌われてしまうんじゃないかって、そんなことばかり怯えていたんだ。ごめんね、ロミィ。自分勝手で」

 オルメアの表情にまた暗がりが見えた。申し訳なさそうに目を逸らそうとするオルメアに、私は思わず背伸びをして顔を近づける。

「そんなことない! オルメア……!」

 思った以上に声のボリュームが調節できていなくて、私は自分のことながら心臓がひゅっと縮んだ。しかしもう出てしまったものはしょうがない。勢いのままにオルメアの腕を両手でぐっと掴む。
 オルメアは驚いたのか、閉じられていた唇が思わず開いた。

「私がオルメアのことを嫌うなんて、そんなこと絶対にない……!」
「ロミィ……?」

 背伸びをしたせいでオルメアに寄りかかるように体重をかける私の腕を、オルメアは優しく支えたまま小さく首を傾げる。その表情を見た私は、ハッと我に返って数秒黙り込む。

「……だ、だって……大事な、大事な友達だから……」

 トーンダウンしていく声と共に、背伸びしていた足も地面に戻っていく。地に足がついたころ、私は恥ずかしさで俯いた。視線の先に見えるオルメアの濡れた靴を見るだけで、心臓がバクバクと動き出す。
 私は何を言ったんだろう。
 オルメアが、私に嫌われてしまうかもと言うから、ついカッとなってしまった。そんなことはあり得ない。全力で否定したいがあまりに勢いのまま飛び出した剝き出しの心は今更ながら怯えを覚える。

「……ロミィ」

 オルメアの靴が僅かに動いた。彼の腕を掴んだまま、私はびくっと肩を震わせた。

「ありがとう」

 飾らない言葉に、私は恐る恐る顔を上げ、オルメアの表情を捉える。
 彼の顔は、先ほどまでと同じく大好きなその容貌のまま。
 けれど、少しばかり力が抜けたように思えた。
 彼の瞳に光が見え、照らされた私の心は小さく跳ねる。

「……ううん」

 腕を離して、気を紛らわせるように髪の毛を一度手櫛で整えた。

「あ、ロミィ。少し雨が落ち着いてきたみたいだよ」
 道路を見るオルメアの言う通りだった。雲が少し薄くなった今、先ほどまで大粒の雨が降っていたのが徐々に収まり、まだ止みそうにはないものの、雨足は弱まっていた。
人通りが少なくなった街にキラキラとしたプリズムが降り注いでいる。

「……綺麗」

 思わず声が出た。独り言にも満たないその声は、恐らくオルメアには聞こえていなかった。
 けれど、さらさらと降り行く雨粒がまるで宝石のように瞳に映り、私は感嘆の声を出した。
 さっきまで見ていた雨とは別物に見える。気づかれないように、オルメアの横顔を見上げてみれば、どうしてそう思うのかがすぐに分かった。

 彼の見ていた悪夢を知れた。
 それは皆が一緒に見ていた悪夢だ。
 その場所で何を思うのかはその人次第。私はずっと、彼の見ているものが知りたかった。
 彼を悩みから救うことができるのかは分からない。それでも、一歩ずつ前に進めている気がする。こうしていると、やっぱりオルメアの傍が心地良くて。もっと傍にいたいと望みが膨らむ。

 晴れた心は澄み渡った空のように濁りがなくて、私の心は浮足立つ。
 オルメアと目が合うと、彼も私と同じく、どこか清々しい笑みをする。ほっとしたような微笑みに、綿菓子のように大きくなった心は甘く溶けてしまいそうだった。

「オルメア」

 たまらず私は一歩、屋根の外に足を踏み出す。ささやかな雨が髪の毛を叩き、熱を帯びた身体を涼やかにする。

「もう怯えないで……?」

 私がオルメアを嫌うことなんて絶対にないから。それは保証できる。

「……うん。ロミィ、君の言うことは信じるよ」

 オルメアも一歩屋根の外に出てきて私の目の前で向き合った。

「君に話せて良かった」

 私が彼を好きになった無邪気な表情のままに、肩の力が抜けたオルメアは軽やかに笑う。
 私もつられて笑ってしまう。朗らかな笑い声が雨粒を揺らし、軽くなった心に居ても立っても居られなくなる。

「ねぇオルメア。傘はないけれど、このまま帰らない?」
「え?」

 素っ頓狂な提案にオルメアは一度驚いたものの、空を見上げて次第に口角を上げる。

「はは……、そうだな。たまにはいつもと違うことをしよう」

 気のいい返事に、私は嬉しくなって頷く。
 雨上がりを待つのもいいけれど、こうやって、誰もいない街の中を二人で歩くのもいい。
 幸いにも雨足も軽快だ。まるで今の私の心と同じ。そう思うと、ちょっとした遊び心が騒ぎ出してしまった。

 当たり前じゃない選択をしてみたくなっただけだ。
 私たちはそのまま、雨とともに軽やかな足取りで悪夢の澱みを洗い流すようにして帰った。

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