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第一章
恩師の言葉と班長
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右金吾衛は都城内右京の治安維持を一手に担う、実務部門。
日々の業務は思いつくだけでも、六街の巡回警備から事件事故発生時の一次対応、被疑者の勾留などの律令に基づく運用、はたまた道路・城門の土木や植栽工事などの都市基盤管理、天子行幸時の随行、その他遺失物管理…など、職掌は多岐にわたる。
府内は6つの司に分かれており、広大な敷地には内府と呼ばれる公衙を中心に、左右対称にいくつもの庁舎が立ち並んでいる。
門のすぐ横に拠を構えるのは、都を巡警する治安部隊・巡警司。
九瑶はその建屋に入り、一路中庭に向かう。
広い中庭には武練場もあり、何人かが鍛錬に精を出していた。
「あ、九瑶じゃん」
見知った顔が声をかけてくれた。
「お疲れ様です~。班長たち見かけませんでした?」
「奥にいるよ」
「ありがとうございます~」
軽く手を振って、そのまま奥に足を進めると、長鉾を扱う人を見つけ背中に声をかけた。
「すみません、青班長。ちょっと聞いてもいいですか?」
「どうした」
「最近の事例を集めていて…、動物が暴れて騒ぎになった案件、お心当たりあります?」
「動物?あぁ、そうだなぁ…」
青班長は少し考えると、いくつかの事例を話してくれた。
九瑶たち調書係が所属するのは、翊務司という文官の集まる事務方の部署。巡警とは主戦場は違えど、関連業務も多く普段からよく行き来していた。
新人時代の研修で巡警に付いて回ったこともあり、顔見知りも多い。おかげでみんな協力的で、本当に有り難い。
「結構あるものなんですね…」
「だな。人が集まった所だと、周囲を混乱させるには手っ取り早いし、証拠が残りづらいから、動物は狙われやすいんだ」
「証拠を気にするって、玄人なんですか?」
「あぁ、素人の場合は大抵、事故だから」
ということは、当人同士の喧嘩と思いきや、第三者が仕掛けている可能性もあるってことか。
「結構多いんだよ、西市とか。あれだけ人が集まれば、あくどい事をする者も出てくる。腹立たしいことだがな。被害をこうむるのは、いつも弱い市民だ」
「はい」
「そいつらを早く縄にかけないとな。市民の生活を守る、それが我らの務めだ」
日焼けした顔がニッと笑った。
九瑤もつられて笑って頷いた。でも、そういうところ、素直に格好いいと思う。
右金吾衛府は無骨な人が多い部門だが、みんな心の中にが熱いものを持っている。
「…私も、自分の仕事を頑張ります。ありがとうございます!」
上向いた気持ちをそのままに、九瑤は次の対象を探す。
十二班から構成される巡警班。短時間で全員に聞くのは難しい。府内にいる班長を順番に捕まえ、聞き取りをしていく。
四人目が終わったところで、あたりをふらふら探していたところ、三班の班長を見つけた。
「孫班長―」
「九瑶、まだいたのか」
厩で装具の手入れをしていた孫英に九瑤は駆け寄ると、振り返った彼は眉を上げた。
「はい、気になることがあって。最近、西市で犬が暴れて騒ぎになった案件、似たような話お心当たりありますか?」
「あるな。どうした?」
「同じような話を聞いて。偶然かと思ったんですが、第三者の行為かもって、気になって」
「におうな。聞かせてくれ」
九瑶の問いに何かを察したらしい。そういった勘の良さは現場の玄人ゆえだ。調書を片手に説明する。
聞き終えると彼は腕組みをして、視線を遠くに投げた。
「夏布屋と絨毯の行商か。仕事の関連性は低いから、同一犯と仮定すると金銭問題ではなさそうだな…。すると、交友関係だな。日頃の行動を洗って接点を探す。それか被害者は全くの無関係で、犯人に事情があるか、だ」
洞察力。
この仕事に必要不可欠な、見えないものを導き出す視点。
彼の頭脳は常にフル回転で、事実と事実を結び付けていく。九瑶が追い付けない速さで、彼の思考は新しい事実の在処を指し示す。
尊敬と憧れ。彼に向ける眼差しは熱に溢れる。だが、それをそばで見ているだけは、やはり歯がゆい。
「班長、どうしたら仮説が描けるようになるのでしょうか…」
九瑤には全く見えない、その糸を手繰り寄せる術はどうしたら身につくのだろう。
「調べているうちに、気になるものが出てくるはす。最初は根拠なき勘でもいい。一つずつ潰していく。そうやって現場で経験値を積んでいくだ。しばらくすると突然、『わかる』ようになるから」
「経験値…」
「疑問を持ったこと、いい傾向だ。その感覚を追うんだ」
事実だけでは、真実には届かない。霞のようにつかみどころのない、点と点を繋ぐのは、見ようとする者の意志。
『違和感を逃すな。必ず何かがそこあるはず』
九瑤の頭に浮かぶ、荀判事の横顔。
何度もダメ出しをくらい、その度に説教を受けた。
どうやって、つながりを導き出すか。
事実をかき集め、点を増やすか。
見えない線を洞察から導き出すか。
『徹底的に洗い出せ。景色を描けるほどに』
師匠なら既に、見えているのだろう。
しかし彼のように突出した能力がなくても、事実を集めることなら自分にも出来る。
「交友関係、掘ってみます」
「他にも驢馬の事故は、近頃よく聞く。だが、九瑤。お前がそこに労力を割くほどの案件か?」
痛い所を突かれて、九瑶の頬が強張った。
「優先順位、低いですよね…」
「分かってるんだな」
孫英の視線が痛い。九瑶は怒られた子供のようにうなだれた。
「…情状酌量の余地があると思って、どうにか材料をうちで用意したくて…」
「ふん…」
語尾が弱くなった九瑶を見て、孫英は自分の顎ひげを指で何度か撫でた。
「…あとは、手法だな」
「手法ですか?」
顔を上げた九瑶の目が輝く。
「犬が暴れる自体、珍しいだろう。何か興奮剤を盛られたと仮定する。すると、それをどうやって食わせるか、の方が重要になる」
「拾い食い、しませんよね。簡単に」
「生肉でもぶら下げていたら別だがな。躾けられた者ほど、ご褒美に弱いもんだろう」
ニヤッと含みのある笑み。飼いならされた自覚がある者には耳が痛い。
「簡単につれるものですか?」
「動物はにおいに敏感だ。それを利用すれば、すぐにできるさ。戦場で使われる方法で騎馬の隊列を乱す為に、飼料に毒草を仕込んだりする。戦時下では即効性があって手に入りやすい草が使われるんだ。多少の知識があれば、誰でも自家生産できる」
確か以前は軍属だったと、聞いたことがある。
実戦経験があるから、この風貌なんだと再認識させられる。
にしても、この人の知識、半端ない。
「驢馬の胃の中を調べる事ができればな」
「確かにそうですね…」
薬なら専門家がいる。現物があれば手がかりになるかもしれない。
「同一犯なら、使う手法も同一。反応も同一なら、角度は高くなる。それと他事例の収集だな」
仮説と検証。
基本に忠実に、堅実に進める事。九瑤は彼の言葉に大きく頷く。
彼の言う通り、さらに聞き取りを進めないと―。
右金吾衛での拘留期限は明日まで。しかし、やるべきことは沢山ある。急がないと、間に合わなくなる。
少しの焦りをおぼえ、九瑤は話を書き留める紙をくるくると手早くまとめ、孫班長に頭を下げた。
「助かりました。ありがとうございます。また、他の班に聞いてみますっ」
「あ、九瑤」
「はい」
既に孫英に背を向けていた九瑶だったが、身体を半分ねじった状態で振り返った。
「班長どもには我が聞いておく。今日はそれくらいにしろ」
「え…」
「うら若い娘が、遅い時間に帰宅するのを右金吾衛府が放っておける訳ないだろ」
「…私は大丈夫ですよ。武術も多少、教わってますし」
心配してくれるのは嬉しい。
だけど、今は目の前の事をどうにかしたい。
「何かあったのか?」
「あ、えっ、あっ…」
不意の質問に、九瑤は口ごもる。
「浮足立っているように見えるぞ」
「落ち着きが、足りないですね。すみません…」
無意識に首の後ろに手が回る。
あの日から騒々しい心の中を見透かされた気がして、なんだか気まずい。
「悩み事か?」
「いえ…」
こういう時、なんて言えばいいんだろう?
自分が立っている足元がぬかるんで、沈み込んでしまいそうな、そこはかとない不安。それを拭いたくて、ここ数日いつもより没頭しているのは確か。
「もっと、仕事、出来るようになりたいんです」
「そうか。だが、短期集中は大した結果を呼ばない。今日は帰りなさい」
「は、い…。失礼します」
言い返すことも出来ずに、九瑶はただ、孫英に頭を下げた。
何かを察したのだろう。彼は眉を寄せたが、追及するようなことはなかった。
九瑤は内府に戻ると、不在にしていた楊駈に書き置きを残し、右金吾衛を後にした。
日々の業務は思いつくだけでも、六街の巡回警備から事件事故発生時の一次対応、被疑者の勾留などの律令に基づく運用、はたまた道路・城門の土木や植栽工事などの都市基盤管理、天子行幸時の随行、その他遺失物管理…など、職掌は多岐にわたる。
府内は6つの司に分かれており、広大な敷地には内府と呼ばれる公衙を中心に、左右対称にいくつもの庁舎が立ち並んでいる。
門のすぐ横に拠を構えるのは、都を巡警する治安部隊・巡警司。
九瑶はその建屋に入り、一路中庭に向かう。
広い中庭には武練場もあり、何人かが鍛錬に精を出していた。
「あ、九瑶じゃん」
見知った顔が声をかけてくれた。
「お疲れ様です~。班長たち見かけませんでした?」
「奥にいるよ」
「ありがとうございます~」
軽く手を振って、そのまま奥に足を進めると、長鉾を扱う人を見つけ背中に声をかけた。
「すみません、青班長。ちょっと聞いてもいいですか?」
「どうした」
「最近の事例を集めていて…、動物が暴れて騒ぎになった案件、お心当たりあります?」
「動物?あぁ、そうだなぁ…」
青班長は少し考えると、いくつかの事例を話してくれた。
九瑶たち調書係が所属するのは、翊務司という文官の集まる事務方の部署。巡警とは主戦場は違えど、関連業務も多く普段からよく行き来していた。
新人時代の研修で巡警に付いて回ったこともあり、顔見知りも多い。おかげでみんな協力的で、本当に有り難い。
「結構あるものなんですね…」
「だな。人が集まった所だと、周囲を混乱させるには手っ取り早いし、証拠が残りづらいから、動物は狙われやすいんだ」
「証拠を気にするって、玄人なんですか?」
「あぁ、素人の場合は大抵、事故だから」
ということは、当人同士の喧嘩と思いきや、第三者が仕掛けている可能性もあるってことか。
「結構多いんだよ、西市とか。あれだけ人が集まれば、あくどい事をする者も出てくる。腹立たしいことだがな。被害をこうむるのは、いつも弱い市民だ」
「はい」
「そいつらを早く縄にかけないとな。市民の生活を守る、それが我らの務めだ」
日焼けした顔がニッと笑った。
九瑤もつられて笑って頷いた。でも、そういうところ、素直に格好いいと思う。
右金吾衛府は無骨な人が多い部門だが、みんな心の中にが熱いものを持っている。
「…私も、自分の仕事を頑張ります。ありがとうございます!」
上向いた気持ちをそのままに、九瑤は次の対象を探す。
十二班から構成される巡警班。短時間で全員に聞くのは難しい。府内にいる班長を順番に捕まえ、聞き取りをしていく。
四人目が終わったところで、あたりをふらふら探していたところ、三班の班長を見つけた。
「孫班長―」
「九瑶、まだいたのか」
厩で装具の手入れをしていた孫英に九瑤は駆け寄ると、振り返った彼は眉を上げた。
「はい、気になることがあって。最近、西市で犬が暴れて騒ぎになった案件、似たような話お心当たりありますか?」
「あるな。どうした?」
「同じような話を聞いて。偶然かと思ったんですが、第三者の行為かもって、気になって」
「におうな。聞かせてくれ」
九瑶の問いに何かを察したらしい。そういった勘の良さは現場の玄人ゆえだ。調書を片手に説明する。
聞き終えると彼は腕組みをして、視線を遠くに投げた。
「夏布屋と絨毯の行商か。仕事の関連性は低いから、同一犯と仮定すると金銭問題ではなさそうだな…。すると、交友関係だな。日頃の行動を洗って接点を探す。それか被害者は全くの無関係で、犯人に事情があるか、だ」
洞察力。
この仕事に必要不可欠な、見えないものを導き出す視点。
彼の頭脳は常にフル回転で、事実と事実を結び付けていく。九瑶が追い付けない速さで、彼の思考は新しい事実の在処を指し示す。
尊敬と憧れ。彼に向ける眼差しは熱に溢れる。だが、それをそばで見ているだけは、やはり歯がゆい。
「班長、どうしたら仮説が描けるようになるのでしょうか…」
九瑤には全く見えない、その糸を手繰り寄せる術はどうしたら身につくのだろう。
「調べているうちに、気になるものが出てくるはす。最初は根拠なき勘でもいい。一つずつ潰していく。そうやって現場で経験値を積んでいくだ。しばらくすると突然、『わかる』ようになるから」
「経験値…」
「疑問を持ったこと、いい傾向だ。その感覚を追うんだ」
事実だけでは、真実には届かない。霞のようにつかみどころのない、点と点を繋ぐのは、見ようとする者の意志。
『違和感を逃すな。必ず何かがそこあるはず』
九瑤の頭に浮かぶ、荀判事の横顔。
何度もダメ出しをくらい、その度に説教を受けた。
どうやって、つながりを導き出すか。
事実をかき集め、点を増やすか。
見えない線を洞察から導き出すか。
『徹底的に洗い出せ。景色を描けるほどに』
師匠なら既に、見えているのだろう。
しかし彼のように突出した能力がなくても、事実を集めることなら自分にも出来る。
「交友関係、掘ってみます」
「他にも驢馬の事故は、近頃よく聞く。だが、九瑤。お前がそこに労力を割くほどの案件か?」
痛い所を突かれて、九瑶の頬が強張った。
「優先順位、低いですよね…」
「分かってるんだな」
孫英の視線が痛い。九瑶は怒られた子供のようにうなだれた。
「…情状酌量の余地があると思って、どうにか材料をうちで用意したくて…」
「ふん…」
語尾が弱くなった九瑶を見て、孫英は自分の顎ひげを指で何度か撫でた。
「…あとは、手法だな」
「手法ですか?」
顔を上げた九瑶の目が輝く。
「犬が暴れる自体、珍しいだろう。何か興奮剤を盛られたと仮定する。すると、それをどうやって食わせるか、の方が重要になる」
「拾い食い、しませんよね。簡単に」
「生肉でもぶら下げていたら別だがな。躾けられた者ほど、ご褒美に弱いもんだろう」
ニヤッと含みのある笑み。飼いならされた自覚がある者には耳が痛い。
「簡単につれるものですか?」
「動物はにおいに敏感だ。それを利用すれば、すぐにできるさ。戦場で使われる方法で騎馬の隊列を乱す為に、飼料に毒草を仕込んだりする。戦時下では即効性があって手に入りやすい草が使われるんだ。多少の知識があれば、誰でも自家生産できる」
確か以前は軍属だったと、聞いたことがある。
実戦経験があるから、この風貌なんだと再認識させられる。
にしても、この人の知識、半端ない。
「驢馬の胃の中を調べる事ができればな」
「確かにそうですね…」
薬なら専門家がいる。現物があれば手がかりになるかもしれない。
「同一犯なら、使う手法も同一。反応も同一なら、角度は高くなる。それと他事例の収集だな」
仮説と検証。
基本に忠実に、堅実に進める事。九瑤は彼の言葉に大きく頷く。
彼の言う通り、さらに聞き取りを進めないと―。
右金吾衛での拘留期限は明日まで。しかし、やるべきことは沢山ある。急がないと、間に合わなくなる。
少しの焦りをおぼえ、九瑤は話を書き留める紙をくるくると手早くまとめ、孫班長に頭を下げた。
「助かりました。ありがとうございます。また、他の班に聞いてみますっ」
「あ、九瑤」
「はい」
既に孫英に背を向けていた九瑶だったが、身体を半分ねじった状態で振り返った。
「班長どもには我が聞いておく。今日はそれくらいにしろ」
「え…」
「うら若い娘が、遅い時間に帰宅するのを右金吾衛府が放っておける訳ないだろ」
「…私は大丈夫ですよ。武術も多少、教わってますし」
心配してくれるのは嬉しい。
だけど、今は目の前の事をどうにかしたい。
「何かあったのか?」
「あ、えっ、あっ…」
不意の質問に、九瑤は口ごもる。
「浮足立っているように見えるぞ」
「落ち着きが、足りないですね。すみません…」
無意識に首の後ろに手が回る。
あの日から騒々しい心の中を見透かされた気がして、なんだか気まずい。
「悩み事か?」
「いえ…」
こういう時、なんて言えばいいんだろう?
自分が立っている足元がぬかるんで、沈み込んでしまいそうな、そこはかとない不安。それを拭いたくて、ここ数日いつもより没頭しているのは確か。
「もっと、仕事、出来るようになりたいんです」
「そうか。だが、短期集中は大した結果を呼ばない。今日は帰りなさい」
「は、い…。失礼します」
言い返すことも出来ずに、九瑶はただ、孫英に頭を下げた。
何かを察したのだろう。彼は眉を寄せたが、追及するようなことはなかった。
九瑤は内府に戻ると、不在にしていた楊駈に書き置きを残し、右金吾衛を後にした。
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