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夢の一冊
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男の子は本の部屋にいた。大きな広いお屋敷の一室で、壁一面に本棚が設置されていた。
「わあー」
本のタイトルは難しくて読めない。まだ学校で教わっていない文字がたくさんあった。くるくると渦を巻いたような記号や、海の波みたいなぐにゃぐにゃした線をいくつも重ねた文字もあった。
ふと、背伸びをしても届かない一番上の段にちらりと惹き付けられる一冊があった。それは少~しだけ白くかがやいているように見えた。部屋の中に入ってきた光が反射しているのかな?
うんしょ、うんしょ、男の子はちょうど近くにあった脚立をひきずって、落ちないようにおそるおそる足をかけた。そおっと手を伸ばす。
「あっ!」
びゅっ!
本は男の子の手から逃げるように自分から本棚の外へ飛び出した!
ドサリと床へ落ちる前に、めいっぱいページを開いて鳥のように羽ばたいた。
本が飛んだ!
男の子がびっくりしていると、近くの棚からも一冊、向こうの床の段に並んでいる分厚い百科事典までもが、ゴトゴト音を立てて本棚から抜け出した。
男の子はどうしたらいいかわからない。つかまえたほうがいいのかな。でも、どうやって?
目鼻がなく、きらきらと装飾のほどこされた平べったい鳥たちが好き放題飛び回るのを見守るしかなかった。百科事典の鳥は重すぎてほとんど羽ばたくことができず、床をよたよたと這っていく。
棚にはまだいくらかの本が残っている。あらかたの本たちが脱走してバタバタやっているあいだ、男の子は飛んでくる凶器をちらちら見ながら脚立を降りていった。
もしも部屋の窓を開けたら、彼らはいっせいに広い外の世界へ出ていってしまうだろう。本物の鳥になってしまうだろうか? それとも、読者が本の世界に夢中になるのではなく、本がぼくたちの世界を自由に飛び回ってたくさんの経験をするのだろうか。ページはもっと分厚くなるだろう。子ども向けの絵本なんて、寝る前に読み聞かせてあげるだけでも何十分もかかり、一週間経ってやっと「めでたし、めでたし」にたどりつくくらい物語が長~くなるかもしれない。
男の子の空想も羽が生えて飛んでいく。
しかし、いまだに本の群れはずうっと部屋の中にあった。
「あっ!」
男の子は一冊の白い表紙に目が留まった。さっき見たかった本だ。ぱっと手を伸ばして、ぶつかると痛い鳥の群れから引っぱり出そうとした。羽ばたくやわらかな紙の翼には、大好きなあの子の絵が描いてあった。ときどき別のページがめくれて見える。あの子の好きな食べ物、好きな歌、好きな花の名前、男の子が知りたい「秘密」が白い本につまっていた!
ぐうっと手を伸ばしてやっと指先が届いたかと思ったとき、白い本はパッと高く舞い上がった。他のばたばた飛び回っている本のすきまをうまくくぐり抜けて、それは一羽の白いハトに変身した。
「ほんとの鳥だ!」
可憐な鳥は、くう、と一声鳴いて、閉まっているはずの窓へ向かっていった。
「行かないで!」
つかまらない。いつのまにか窓は開いていた。かがやく空の下へ、一羽の鳥が飛んでいった。
お屋敷の外の森を越えて、白い鳥がやがて黒い点になって見えなくなってしまうまで、男の子はずうっと見送っていた。
しょんぼりしながら窓を閉めてくるりと向きを変えると、驚くことが起きていた。
部屋を埋めつくす大量の本たちが次々と羽ばたくのをやめて、てんでばらばらにページを開いたまま、どさり、どさりと床に落ちていったのだ。すべての本が翼を広げ、物語の印刷された面をおもてに向けながら、読み終わった本のように力尽きて重力にしたがい落ちていく。
やぶれた本は一冊もない。男の子は静かになった部屋にひとりでたたずんでいた。
……ぐう
おなかがすいた。でも本は食べられないのだ……。
小さくため息をついたとき、本のすきまから緑のつるが伸びてきた。どうしてだか「目がいい」男の子はじっとその緑を見つめていた。これは何だろう?
つるはぐんぐん伸びる。どこに種がまぎれていたのだろう。どこかの本にはさまっていたのだろうか? とにかく緑のつるはどんどん育っていく。やがてとなりの本のすきまからも最初の一本を追いかけるようににょき! と芽を出して、同じように上へ上へ伸びていった。
「ぼくの方が速いぞ」「わたしも仲間に入れて!」そんな声が聞こえたような気がした。
男の子は白いハトとの別れをいつまでも惜しんでいるひまはなかった。目の前で新しい「ふしぎ」が起きている。
緑のつるは何十本と生えてきた。重なった本の地層の下の方から。
部屋じゅう緑色になった。人間の男の子がいるなんてちっとも気にしやしない。細いつるは隣のつるとからみ合い、少し太くなった。それがまた近くのちょっと太ったつると出逢い、友達が肩を組んで意気ようようと勇み足で歩んでいくように、勢いづいてみんなで天井へ向かっていった。
太くなったつるは天井にぶつかったら、たぶん出口を探して窓の方へ行くかもしれない。そう思った男の子は勢力範囲を広げていく緑の行く末を見てやろうと閉めたばかりの窓を押し開けた。ひゅう! とさわやかな風が顔に当たった。男の子もきゅうくつな部屋から逃げ出したいと思い、自分は部屋の扉を探そうと辺りを見回していたところ、バキバキ! と不気味な音が聞こえた。
緑のつる、いや、今では一本の樹のようにお互いに太くからまりあった何百という植物たちは、あまりにも元気よく育ったため、せまい壁にさえぎられてガマンできるはずもなく、力いっぱい、ありったけのエネルギーを出して、かたい天井を突き破ってしまったのだ!
「うわあ!」
パラパラとこぼれ落ちる天井のカケラが男の子の頭に落ちてくる。目に入ってしまうのがこわくて男の子は下を向いていた。ぐんぐん天に伸びていく緑の樹の根元に目をやっていると、床に落ちた本のページから、印刷された活字から、その一字一字から緑のつるが生えてくるのを見つけてしまったのだった。
言葉の樹、文字の樹、物語の樹、色々な言い方があるかもしれない。
男の子はもうこわいと思わなかった。崩れ落ちてくる天井をぐっとにらみ、まだまだ、まだまだ、新しく生まれて伸びていく緑のつるが、部屋の中心となる大樹に合流して飲み込まれていくのを見ていた。
考えるより先に体が動いていて、男の子は手を伸ばして手ごろな太さのつるをしっかりとつかんだ。急にふわりと体が宙に浮いたような気持ちがして下を見ると、やっぱり! 床が遠くなっていく。男の子は落ちないように大樹にしがみついた。育っていく植物が大きな屋敷の天井を突き抜けて、世界中のどの建物よりも高い場所へ向かっていく挑戦についていった。
街を見下ろしながら男の子は思う。雲の上に立つことができたら、そこには巨人がいるのだろうか?
巨人をやっつけてたくさんの宝物を見つけ出す冒険を想像をしていたが、緑の大樹は男の子に雲の王国を見物させてくれることもなくまっすぐ雲の中を通りすぎ、どんどん太陽に近づいていった。
空の青色が濃くなったような気がした。彼らは少しずつ宇宙に近づいていく。
男の子は地上に置いてきたあれこれについて考えてみた。宿題のことはすぐに忘れた。今日の朝ごはんのミニトマトが美味しかったこととか、野良ネコのみいちゃんの毛がふさふさやわらかかったこととか、小さな幸せだけを胸にしまって、今、この星で一番背の高い生命エネルギーである緑の樹にくっついて、天上へ向かっていった。
はあはあ、呼吸がつらいような気がする。高い山に登ると空気がうすくなる、とお父さんに教えてもらったことがある。もしも、空気のまったくない宇宙までこの樹が伸びていってしまったら、ぼくはどうなるだろう?
「ガア、ガア!」
しゃがれた低い声が聞こえた。えっ、と驚いて振り向くと、黒い大きなカラスが男の子の目線の近くを飛んでいた。大樹が伸びるに合わせてカラスも翼を羽ばたかせて上昇する。するどいクチバシが男の子を突っつくのではないかと一瞬こわくなったので、男の子は大樹にしがみついて肩をすくめた。つるとつるの間にはさまって隠れてしまいたかった。
カラスは気をわるくした様子もなく、「ガア!」と一度大きく鳴くと、男の子をおいてけぼりにして、大樹のてっぺん目指して翼を羽ばたかせた。飛んでいかなくても、樹につかまっていればやがて宇宙にたどりつくというのに、黒いカラスは早くも頂上に行きたくて一羽でがんばっていった。
ゴオーと風のうなり声がする。男の子はそおっと樹の間から顔をのぞかせて、危険が去ったことを知ると、だんだんじっとしていられなくなって、ついに片足を上げた。
後から伸びてくる緑のつるが男の子の体に巻きつき、命綱のような役目をしてくれた。
男の子はカラスを追いかけた。樹の出っぱりに足を乗せて、上へ昇る。
星のまたたきが見える。オリオンの三ツ星が遠くに並んでいるのが透けている。空の色が濃い黒に近づいた。天の色に溶け込みそうな暗い色をしたカラスは樹のてっぺんにいた。男の子を待っていたように、ガアガアと二、三度声をかけて、余裕ぶった顔で羽づくろいをしている。
男の子はしっかりとつるをつかんで、大樹のすきまに手をかけ足をかけて、この大きな植物が伸びていく生長スピードに負けない気持ちで上を向いて昇ってきた。
カラスは近づいてきた男の子を見下ろして、一度、静かに「カア」と鳴いた。何かをたずねているような声音でもあった。
男の子はまっすぐにカラスを見上げて、今はまだ何も言わず、手を休めずに樹を昇り続けた。
黒いカラスは、ピョンと跳んで体の向きを変えた。顔を横にして男の子を見下ろしながら、彼から片時も目をそらさず、真剣に見つめている。
カラスはもう一度静かに問いかけた。「カア」
「そうだよ、ぼくはてっぺんに行くよ!」
男の子は大きな声で答えた。ぐいっ! と緑の大樹をよじ登ると、不安定な片手を離して、黒いカラスにさわろうとした。そのとき、片方の足が緑の樹からずるっとすべり落ち……!
ドシン!
「いてっ!」
…………
白い光がカーテンのすきまからもれてくる。うす暗い子供部屋は静かな朝を迎えていた。
男の子は枕にしがみついたまま、ベッドから転がり落ちていた。
しばらくまばたきを繰り返して、息をすることも口をきくこともできなかった。どうにかこうにか夢の向こうから自分の心を取り戻して、ようやくものが言えるようになると、ぎゅううとかたく握りしめていた枕のはしを解放してやった。布にシワができている。
外はいいお天気のようだ。小鳥のさえずりがにぎやかに聞こえている。
男の子は頭をふって目を覚まし、立ち上がった。ふわりとじゅうたんに何かが舞い降りた。
黒い羽根が一枚。
インクをつけたら何か書けそうだ。男の子は部屋の本棚を見た。
「わあー」
本のタイトルは難しくて読めない。まだ学校で教わっていない文字がたくさんあった。くるくると渦を巻いたような記号や、海の波みたいなぐにゃぐにゃした線をいくつも重ねた文字もあった。
ふと、背伸びをしても届かない一番上の段にちらりと惹き付けられる一冊があった。それは少~しだけ白くかがやいているように見えた。部屋の中に入ってきた光が反射しているのかな?
うんしょ、うんしょ、男の子はちょうど近くにあった脚立をひきずって、落ちないようにおそるおそる足をかけた。そおっと手を伸ばす。
「あっ!」
びゅっ!
本は男の子の手から逃げるように自分から本棚の外へ飛び出した!
ドサリと床へ落ちる前に、めいっぱいページを開いて鳥のように羽ばたいた。
本が飛んだ!
男の子がびっくりしていると、近くの棚からも一冊、向こうの床の段に並んでいる分厚い百科事典までもが、ゴトゴト音を立てて本棚から抜け出した。
男の子はどうしたらいいかわからない。つかまえたほうがいいのかな。でも、どうやって?
目鼻がなく、きらきらと装飾のほどこされた平べったい鳥たちが好き放題飛び回るのを見守るしかなかった。百科事典の鳥は重すぎてほとんど羽ばたくことができず、床をよたよたと這っていく。
棚にはまだいくらかの本が残っている。あらかたの本たちが脱走してバタバタやっているあいだ、男の子は飛んでくる凶器をちらちら見ながら脚立を降りていった。
もしも部屋の窓を開けたら、彼らはいっせいに広い外の世界へ出ていってしまうだろう。本物の鳥になってしまうだろうか? それとも、読者が本の世界に夢中になるのではなく、本がぼくたちの世界を自由に飛び回ってたくさんの経験をするのだろうか。ページはもっと分厚くなるだろう。子ども向けの絵本なんて、寝る前に読み聞かせてあげるだけでも何十分もかかり、一週間経ってやっと「めでたし、めでたし」にたどりつくくらい物語が長~くなるかもしれない。
男の子の空想も羽が生えて飛んでいく。
しかし、いまだに本の群れはずうっと部屋の中にあった。
「あっ!」
男の子は一冊の白い表紙に目が留まった。さっき見たかった本だ。ぱっと手を伸ばして、ぶつかると痛い鳥の群れから引っぱり出そうとした。羽ばたくやわらかな紙の翼には、大好きなあの子の絵が描いてあった。ときどき別のページがめくれて見える。あの子の好きな食べ物、好きな歌、好きな花の名前、男の子が知りたい「秘密」が白い本につまっていた!
ぐうっと手を伸ばしてやっと指先が届いたかと思ったとき、白い本はパッと高く舞い上がった。他のばたばた飛び回っている本のすきまをうまくくぐり抜けて、それは一羽の白いハトに変身した。
「ほんとの鳥だ!」
可憐な鳥は、くう、と一声鳴いて、閉まっているはずの窓へ向かっていった。
「行かないで!」
つかまらない。いつのまにか窓は開いていた。かがやく空の下へ、一羽の鳥が飛んでいった。
お屋敷の外の森を越えて、白い鳥がやがて黒い点になって見えなくなってしまうまで、男の子はずうっと見送っていた。
しょんぼりしながら窓を閉めてくるりと向きを変えると、驚くことが起きていた。
部屋を埋めつくす大量の本たちが次々と羽ばたくのをやめて、てんでばらばらにページを開いたまま、どさり、どさりと床に落ちていったのだ。すべての本が翼を広げ、物語の印刷された面をおもてに向けながら、読み終わった本のように力尽きて重力にしたがい落ちていく。
やぶれた本は一冊もない。男の子は静かになった部屋にひとりでたたずんでいた。
……ぐう
おなかがすいた。でも本は食べられないのだ……。
小さくため息をついたとき、本のすきまから緑のつるが伸びてきた。どうしてだか「目がいい」男の子はじっとその緑を見つめていた。これは何だろう?
つるはぐんぐん伸びる。どこに種がまぎれていたのだろう。どこかの本にはさまっていたのだろうか? とにかく緑のつるはどんどん育っていく。やがてとなりの本のすきまからも最初の一本を追いかけるようににょき! と芽を出して、同じように上へ上へ伸びていった。
「ぼくの方が速いぞ」「わたしも仲間に入れて!」そんな声が聞こえたような気がした。
男の子は白いハトとの別れをいつまでも惜しんでいるひまはなかった。目の前で新しい「ふしぎ」が起きている。
緑のつるは何十本と生えてきた。重なった本の地層の下の方から。
部屋じゅう緑色になった。人間の男の子がいるなんてちっとも気にしやしない。細いつるは隣のつるとからみ合い、少し太くなった。それがまた近くのちょっと太ったつると出逢い、友達が肩を組んで意気ようようと勇み足で歩んでいくように、勢いづいてみんなで天井へ向かっていった。
太くなったつるは天井にぶつかったら、たぶん出口を探して窓の方へ行くかもしれない。そう思った男の子は勢力範囲を広げていく緑の行く末を見てやろうと閉めたばかりの窓を押し開けた。ひゅう! とさわやかな風が顔に当たった。男の子もきゅうくつな部屋から逃げ出したいと思い、自分は部屋の扉を探そうと辺りを見回していたところ、バキバキ! と不気味な音が聞こえた。
緑のつる、いや、今では一本の樹のようにお互いに太くからまりあった何百という植物たちは、あまりにも元気よく育ったため、せまい壁にさえぎられてガマンできるはずもなく、力いっぱい、ありったけのエネルギーを出して、かたい天井を突き破ってしまったのだ!
「うわあ!」
パラパラとこぼれ落ちる天井のカケラが男の子の頭に落ちてくる。目に入ってしまうのがこわくて男の子は下を向いていた。ぐんぐん天に伸びていく緑の樹の根元に目をやっていると、床に落ちた本のページから、印刷された活字から、その一字一字から緑のつるが生えてくるのを見つけてしまったのだった。
言葉の樹、文字の樹、物語の樹、色々な言い方があるかもしれない。
男の子はもうこわいと思わなかった。崩れ落ちてくる天井をぐっとにらみ、まだまだ、まだまだ、新しく生まれて伸びていく緑のつるが、部屋の中心となる大樹に合流して飲み込まれていくのを見ていた。
考えるより先に体が動いていて、男の子は手を伸ばして手ごろな太さのつるをしっかりとつかんだ。急にふわりと体が宙に浮いたような気持ちがして下を見ると、やっぱり! 床が遠くなっていく。男の子は落ちないように大樹にしがみついた。育っていく植物が大きな屋敷の天井を突き抜けて、世界中のどの建物よりも高い場所へ向かっていく挑戦についていった。
街を見下ろしながら男の子は思う。雲の上に立つことができたら、そこには巨人がいるのだろうか?
巨人をやっつけてたくさんの宝物を見つけ出す冒険を想像をしていたが、緑の大樹は男の子に雲の王国を見物させてくれることもなくまっすぐ雲の中を通りすぎ、どんどん太陽に近づいていった。
空の青色が濃くなったような気がした。彼らは少しずつ宇宙に近づいていく。
男の子は地上に置いてきたあれこれについて考えてみた。宿題のことはすぐに忘れた。今日の朝ごはんのミニトマトが美味しかったこととか、野良ネコのみいちゃんの毛がふさふさやわらかかったこととか、小さな幸せだけを胸にしまって、今、この星で一番背の高い生命エネルギーである緑の樹にくっついて、天上へ向かっていった。
はあはあ、呼吸がつらいような気がする。高い山に登ると空気がうすくなる、とお父さんに教えてもらったことがある。もしも、空気のまったくない宇宙までこの樹が伸びていってしまったら、ぼくはどうなるだろう?
「ガア、ガア!」
しゃがれた低い声が聞こえた。えっ、と驚いて振り向くと、黒い大きなカラスが男の子の目線の近くを飛んでいた。大樹が伸びるに合わせてカラスも翼を羽ばたかせて上昇する。するどいクチバシが男の子を突っつくのではないかと一瞬こわくなったので、男の子は大樹にしがみついて肩をすくめた。つるとつるの間にはさまって隠れてしまいたかった。
カラスは気をわるくした様子もなく、「ガア!」と一度大きく鳴くと、男の子をおいてけぼりにして、大樹のてっぺん目指して翼を羽ばたかせた。飛んでいかなくても、樹につかまっていればやがて宇宙にたどりつくというのに、黒いカラスは早くも頂上に行きたくて一羽でがんばっていった。
ゴオーと風のうなり声がする。男の子はそおっと樹の間から顔をのぞかせて、危険が去ったことを知ると、だんだんじっとしていられなくなって、ついに片足を上げた。
後から伸びてくる緑のつるが男の子の体に巻きつき、命綱のような役目をしてくれた。
男の子はカラスを追いかけた。樹の出っぱりに足を乗せて、上へ昇る。
星のまたたきが見える。オリオンの三ツ星が遠くに並んでいるのが透けている。空の色が濃い黒に近づいた。天の色に溶け込みそうな暗い色をしたカラスは樹のてっぺんにいた。男の子を待っていたように、ガアガアと二、三度声をかけて、余裕ぶった顔で羽づくろいをしている。
男の子はしっかりとつるをつかんで、大樹のすきまに手をかけ足をかけて、この大きな植物が伸びていく生長スピードに負けない気持ちで上を向いて昇ってきた。
カラスは近づいてきた男の子を見下ろして、一度、静かに「カア」と鳴いた。何かをたずねているような声音でもあった。
男の子はまっすぐにカラスを見上げて、今はまだ何も言わず、手を休めずに樹を昇り続けた。
黒いカラスは、ピョンと跳んで体の向きを変えた。顔を横にして男の子を見下ろしながら、彼から片時も目をそらさず、真剣に見つめている。
カラスはもう一度静かに問いかけた。「カア」
「そうだよ、ぼくはてっぺんに行くよ!」
男の子は大きな声で答えた。ぐいっ! と緑の大樹をよじ登ると、不安定な片手を離して、黒いカラスにさわろうとした。そのとき、片方の足が緑の樹からずるっとすべり落ち……!
ドシン!
「いてっ!」
…………
白い光がカーテンのすきまからもれてくる。うす暗い子供部屋は静かな朝を迎えていた。
男の子は枕にしがみついたまま、ベッドから転がり落ちていた。
しばらくまばたきを繰り返して、息をすることも口をきくこともできなかった。どうにかこうにか夢の向こうから自分の心を取り戻して、ようやくものが言えるようになると、ぎゅううとかたく握りしめていた枕のはしを解放してやった。布にシワができている。
外はいいお天気のようだ。小鳥のさえずりがにぎやかに聞こえている。
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