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出汁
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【第壱場面】
大規模な自然災害に加え、感染症不況、オリンピック債務に万博債務など、新元号令和を迎えてからの日本……いや、日本だけではない。まるで世界中の結界が破れられたかのように下降線をたどり、毎日、毎時間に新しいどん底を更新しているかのような状況だった。
さらに政府は役目を放棄したかのように無策の状態が数年も続き、20××年、日本は夢を捨て、「崩壊した」という言葉がぴったりの有様を迎えた。
ほんの少し前まで「街」と呼ばれていた場所には、まるで生き返った屍のような連中が行く当てもなく歩き回っている。奴らには行き先はないが目的はあった。それは食欲を満たすことだ。食べ物を得るために、人間という生き物までもが、ほんの短期間にまるで野生の獣のようになった。臭覚が敏感に発達した鼻先をセンサーとし獲物を探し回っている。
そして、この男も荒れ果てた街を彷徨い続けていた。やはり、食べ物を得るために……。しかし、食事とか、食べ物なんて言葉が不釣り合いな見映えだ。自力で食べ物を得るには不可能に近い。もはや空腹を満たすには餌だ。
それは、心か? 思考か? 脳裏か? 本能か? 彼は胸中で叫び続けた。
(餌だ、餌をくれ! 誰か餌をくれ!)
もう自身の名前も忘れかけていた。こんな世界では、名前を名乗る場所も、その必要もない、名前なんてものは、すでに不必要なアイテムになっていた。
男はさらに当てもなく歩き続ける。鼻腔のセンサーが機能するまで歩き続けるしかない。足は住宅街に向いていた。自宅を持っている者は、自身の家屋で寝起きできるが、どの窓にも厳重にバリケードが覆っていた。もはや誰も信用できないのだ。自己防衛と生きることに必死の有様だった。
*
老婆は窓際の薄暗い台所に立っていた。ガスコンロはあるもののガスは通っていない。コンロの脇に置いてあるカセットガス・コンロに汁物の入った鍋を掛けた。やがて薄白い湯気が立ち始める。瞬く間に辺りにいい匂いが立ちこめ始める。老婆はほんの少し窓を開けた。匂いは外気に吸われ家の外に流された。
住宅街に入った男は鼻腔に刺激を受けた。いい匂いに目眩を覚えた。ただでさえ空腹な上、この香りは動物としての本能をかき立てた。もう人間を捨てても構わないとさえ思った。
男はその香りの源となる家を特定した。そして、ブロック塀越しに家の様子を伺う。家の裏手にあたる台所の窓からそれは漂っていた。
老婆は鍋を火に掛けてしばらくお玉杓子でかき混ぜた。そして、火を消すこともなく、そのまま勝手口から出て行った。
男はブロック塀のすき間からその様子を見つる。老婆が勝手口から出てきて、ドアに鍵も掛けることなく正門に向かう。さらに、身を隠しながら老婆がその正門から出ていくのを確認した。
すると、今老婆が出た正門からコソコソとその家の敷地内に侵入した。当然、目的は空腹を満たすためだ。辺りをキョロキョロしながら、腰を屈めて家の裏手に回る。そして、勝手口のドアノブを握ってみる。ゆっくり回す……やはり、施錠はされていない。
いったん正門の方を見直すが、老婆の姿はない。それを確認すると、男は勝手口のドアをそっと開けた。十センチほど開け、中を確認する。やはり人の気配はない。昼間なのに家の中は暗い。大きなガラス窓は雨戸を閉められ、さらに板やトタンなどでバリケードをしているせいだ。台所の小窓から差す陽の光と鍋を温める小さなカセットガス・コンロのか細い火が唯一の光源だ。
しかし、その力ない火であっても、空腹の獣と化した男の鼻腔にとっては、鍋から漂うわずかな匂いを強烈な刺激に変えた。
人がいないことが分かると、迷うことなくドアを潜った。勝手口の小さな土間に立ったとき、その匂いを嗅いで恍惚の表情に変わった。まさに理性よりも本能が勝る瞬間だった。しかし、あくまでもこれは犯罪、ドタバタと音を立てることはしないように努めることにした。そして、土間から勝手口の入口に足を掛けたとき、一瞬躊躇った。今から犯罪を犯す身でありながら、汚い靴のまま床を歩くことはできなかった。僅かな人間としての、日本人としての理性を保ち靴を土間に脱ぎ捨て、何重にも重ねた汚い靴下で台所の床に足を乗せた。台所で仁王立ちをして目を凝らして薄暗い部屋中を見回す。男はいきなり鍋を漁る前に、立派な冷蔵庫の扉を開けた。電気が通っていないようで、中は真っ暗、めぼしいものはない。
あきらめて本来の目的を達することにした。コンロの方へ向き鍋を覗いてみる。香ばしいシチューがたっぷりと煮詰めてある。表情が緩み始め、お玉を手にシチューを掬いだした。唇を尖らせて、フーフーと冷ます。多少冷ましたところで、そっと唇をお玉の端につけ、ススッと口内に含ませた。こんな味の濃いものを口に含んだのは何年ぶりであろう……あ、あ……という呻き声のようなものが自然に発せられた。
そうなると外のことも気に掛けず夢中でシチューを啜り出す。ゴクゴクと音を立て、含み過ぎて口の端から溢れ出す。そして、もう一杯。
口の中に肉塊らしきものが入る。肉を口にすることも久しぶりだ。ところが、口の中に固いものが当たる。骨か?
男は口から異物を取り出す。一センチ四方の透明の薄い板状のモノ……? プラスチック片? 手に取りマジマジと見つめる。
「あっ!」
思わず叫んだ。声を出したのも久しぶりだったが、それは理性のある言葉ではない、本能という感情から出た叫びだ。
手にしたプラスチック片らしきものは、人間の爪だ。口の中の物を嘔吐物のようにすべてシンクに吐き出した。シチューの中には粘土質のような野菜の他に生前何だったか分からない肉らしきモノが混ざっている。ぺっぺっと、口の中のモノを吐き続けた。
そして、玉で鍋の中をあらためてすくってみた。そこから二、三センチの大きめの肉の塊を手に取る。
(あ…、あし……足の親指……!)
それはまさしく人間の足の親指だった!
思わずお玉を床に落とす。音を立ててお玉が転がる。脂ぎった床にシチューが飛び散った。
その時、台所に続く暗い奥から人の足音が……。階段を降りてくるようだ。力ないゆっくりとした足取りだ。老婆の他に住人がいた。
(まずいっ!)
男は落ちたお玉を拾うこともなく、靴も履かずに入ってきた勝手口から出ようとした。しかし、ドアが開かない、ノブは動くのだが、押しても開かないのだ。何かでドアを押さえつけられているようだ。
(クソッ!)
男は狭い薄暗い台所を見回した。選択は二つしかない。
開き直って、何者かが近づいてくる廊下に向かうか?
襖が閉め切ってある奥の部屋に行くか?
空き巣ぐらいの犯罪で捕まるなら未だしも、対面した住人と争いヘタに強盗に格上げされては構わない。それに争いに勝つとも限らない。相手は人の指をシチュー鍋に入れるような怪物かも知れない。
男は忍び足で奥の部屋の方へ向かいゆっくりと襖を少しだけ開けた。台所の窓からの明かりも届かない。中は真っ暗だ。躊躇したが、自分の体が入る幅だけ開け、そっと入った。
その瞬間、首に鋭い衝撃が走った。
僅かな白い光。消え行く意識の中で目にしたのは、出て行った筈の老婆の顔だった。白い光の光源は、彼女の手にあるスタンガンだった……。
【第弐場面】
老婆はカセットガス・コンロに鍋をかける。お玉で鍋の中をゆっくりとかき混ぜる。やがて湯気が立ち始める。老婆は匂いを確認し、独りで小さく頷いた。換気扇を回し、シンクの上にある小窓を開ける。
匂いは空気に乗って外界に流れ始めた。
老婆はそれを確認すると、後ろの廊下の方を振り向いた。そこには夫らしき高齢の男性が立っている。
老人は黙って頷くと、暗い廊下の奥へ消えた。
やがて、階段を上るギシッ、ギシッという音が老婆の耳に届き、それを確認し、勝手口から出ていった。家裏から表の正門へ進み、家の敷地を出ると、携帯電話に〔出ました〕と打ち込み、送信。
【第惨場面】
老人は暗い二階の部屋の僅かに開いている窓のすき間から下界を見渡す。
老婆が敷地から出るのを見届けた。
すると、すぐに〔出ました〕というメッセージが携帯に届いた。
そして、ほどなく、痩せこけた男がフラフラと家に近づいてくるのを見つける。
男は案の定、家から漂う匂いに反応していた。麻薬を窘めたような恍惚な表情を浮かべている。そして、操られているかのように家に近づいてくる。
「来た、来た」
老人は思わずボソリと呟いた。さらに男の行動を見続ける。
男はブロック塀越しに家の敷地内を覗いている。勝手口から老婆が出てきて、さらに正門から敷地の外へ出て行くのを見届けた。
老人はその男が我が家の敷地へ忍び込み、さらに家の中に入るのを確認した。そして、〔来た〕とメッセージを送る。
すぐに老婆が戻ってきた。老婆は裏口に回り、気付かれないように勝手口のドア越しに支え棒を立てかけた。そして、奥部屋の縁側のあるサッシを開け、家の中に入る。部屋の中は真っ暗だが、勝手知った我が家、部屋の片隅に縮こまり、畳に置いておいたスタンガンを手にした。
老人もスタンガンを手に、階段を降り始める。階下で何やら慌てる素振りを察知したが、焦ることもなく、ゆっくりと歩を進めた。そして、階段を降りきる前にアウッという悲鳴とドサッと人が倒れるのを耳にした。
老人の表情は満足げで、ニンマリとしていた。
【第四場面】
男は目を覚ました。真っ暗だ。自分の状態さえ見えない。が、全裸にされ後ろ手で縛られていることは分かる。おまけに足も反り返るように縛れており、逆エビのような格好で湿った冷たい床に寝転がされている。アンモニアのような刺激臭と汚物の匂いで頭が痛くなりそうだ。猿轡をされているので、叫ぶこともできない。匂いのキツい汚物が体中にまとわりつく。
さらに体中がチクチク痛む。激痛というほどではないが、全身がなんとも言えない傷みに覆われているようだった。逃げ道を探そうと不自由な体を転がすが、四方が鉄格子のようなもので囲われているようなので動ける範囲も限られている。大型犬のゲージのようなものであろうか、しかし、思った以上に頑丈な作りになっており、蹴ったくらいではビクともしない。むしろ素足の足の裏が痛むだけだ。口に入る汚物をペッペッと吐きながら深い呼吸を確保した。(冷静にならなければ……)暗闇の中で落ち着きを取り戻そうと努めた。
(体中の痛みの原因は何だ?)
真っ暗の上、逆エビ状態である。自分の全身を見ることは不可能だ。神経を研ぎ澄まし痛みの原因を推測した。裂傷だ。体のあちこちに裂傷があるようだ。ただ深手はない、チクチクとした痛みだ。
すると突然、襖が開いた。光が差込み、思わず男は顔ごと目を逸らした。
「まだ、生きておるなぁ」
「ちょっと刺すのが少なかったかも知れませんね」
「ああ、そうだなぁ」
老夫婦が開いた襖から見下ろした。
(コイツらに捕らえられたのか!)
男の脳裏に怒りと悔しさが溢れた。
(刺すってどういうことだ? 俺を殺すつもりなのか? ならいっそ一気に 殺してくれ! 痛いし、臭いし、こんな行き地獄から解放してくれ!)
「しかしなぁ、一気に刺して大量の血が溢れても困るでなぁ」
「そうですねぇ」
「まあ、この調子じゃ、血抜きが終わるのもひと晩以上掛かりそうだなぁ」
(血抜き? コイツら狂ってる、俺は屠殺場の豚か? 餌を探していたら、自分が餌になっちまったのか……)
「気長に待ちましょう」
「それにしても痩せたやっちゃなぁ、喰うところがないぞ」
そう言ったとき、老人の表情は喜びと落胆が入り交じっていた。
「まあ、お出汁にしていただきましょう」
血が減っていくせいか、思考が薄くなっていく。鍋の中にあった足の親指が思い出された。
(クソッ! 俺が出汁か……)
男はどんなにあがいても、もうどうすることもできなかった。思考が消えゆく中、また襖が閉められ暗闇が覆った。
大規模な自然災害に加え、感染症不況、オリンピック債務に万博債務など、新元号令和を迎えてからの日本……いや、日本だけではない。まるで世界中の結界が破れられたかのように下降線をたどり、毎日、毎時間に新しいどん底を更新しているかのような状況だった。
さらに政府は役目を放棄したかのように無策の状態が数年も続き、20××年、日本は夢を捨て、「崩壊した」という言葉がぴったりの有様を迎えた。
ほんの少し前まで「街」と呼ばれていた場所には、まるで生き返った屍のような連中が行く当てもなく歩き回っている。奴らには行き先はないが目的はあった。それは食欲を満たすことだ。食べ物を得るために、人間という生き物までもが、ほんの短期間にまるで野生の獣のようになった。臭覚が敏感に発達した鼻先をセンサーとし獲物を探し回っている。
そして、この男も荒れ果てた街を彷徨い続けていた。やはり、食べ物を得るために……。しかし、食事とか、食べ物なんて言葉が不釣り合いな見映えだ。自力で食べ物を得るには不可能に近い。もはや空腹を満たすには餌だ。
それは、心か? 思考か? 脳裏か? 本能か? 彼は胸中で叫び続けた。
(餌だ、餌をくれ! 誰か餌をくれ!)
もう自身の名前も忘れかけていた。こんな世界では、名前を名乗る場所も、その必要もない、名前なんてものは、すでに不必要なアイテムになっていた。
男はさらに当てもなく歩き続ける。鼻腔のセンサーが機能するまで歩き続けるしかない。足は住宅街に向いていた。自宅を持っている者は、自身の家屋で寝起きできるが、どの窓にも厳重にバリケードが覆っていた。もはや誰も信用できないのだ。自己防衛と生きることに必死の有様だった。
*
老婆は窓際の薄暗い台所に立っていた。ガスコンロはあるもののガスは通っていない。コンロの脇に置いてあるカセットガス・コンロに汁物の入った鍋を掛けた。やがて薄白い湯気が立ち始める。瞬く間に辺りにいい匂いが立ちこめ始める。老婆はほんの少し窓を開けた。匂いは外気に吸われ家の外に流された。
住宅街に入った男は鼻腔に刺激を受けた。いい匂いに目眩を覚えた。ただでさえ空腹な上、この香りは動物としての本能をかき立てた。もう人間を捨てても構わないとさえ思った。
男はその香りの源となる家を特定した。そして、ブロック塀越しに家の様子を伺う。家の裏手にあたる台所の窓からそれは漂っていた。
老婆は鍋を火に掛けてしばらくお玉杓子でかき混ぜた。そして、火を消すこともなく、そのまま勝手口から出て行った。
男はブロック塀のすき間からその様子を見つる。老婆が勝手口から出てきて、ドアに鍵も掛けることなく正門に向かう。さらに、身を隠しながら老婆がその正門から出ていくのを確認した。
すると、今老婆が出た正門からコソコソとその家の敷地内に侵入した。当然、目的は空腹を満たすためだ。辺りをキョロキョロしながら、腰を屈めて家の裏手に回る。そして、勝手口のドアノブを握ってみる。ゆっくり回す……やはり、施錠はされていない。
いったん正門の方を見直すが、老婆の姿はない。それを確認すると、男は勝手口のドアをそっと開けた。十センチほど開け、中を確認する。やはり人の気配はない。昼間なのに家の中は暗い。大きなガラス窓は雨戸を閉められ、さらに板やトタンなどでバリケードをしているせいだ。台所の小窓から差す陽の光と鍋を温める小さなカセットガス・コンロのか細い火が唯一の光源だ。
しかし、その力ない火であっても、空腹の獣と化した男の鼻腔にとっては、鍋から漂うわずかな匂いを強烈な刺激に変えた。
人がいないことが分かると、迷うことなくドアを潜った。勝手口の小さな土間に立ったとき、その匂いを嗅いで恍惚の表情に変わった。まさに理性よりも本能が勝る瞬間だった。しかし、あくまでもこれは犯罪、ドタバタと音を立てることはしないように努めることにした。そして、土間から勝手口の入口に足を掛けたとき、一瞬躊躇った。今から犯罪を犯す身でありながら、汚い靴のまま床を歩くことはできなかった。僅かな人間としての、日本人としての理性を保ち靴を土間に脱ぎ捨て、何重にも重ねた汚い靴下で台所の床に足を乗せた。台所で仁王立ちをして目を凝らして薄暗い部屋中を見回す。男はいきなり鍋を漁る前に、立派な冷蔵庫の扉を開けた。電気が通っていないようで、中は真っ暗、めぼしいものはない。
あきらめて本来の目的を達することにした。コンロの方へ向き鍋を覗いてみる。香ばしいシチューがたっぷりと煮詰めてある。表情が緩み始め、お玉を手にシチューを掬いだした。唇を尖らせて、フーフーと冷ます。多少冷ましたところで、そっと唇をお玉の端につけ、ススッと口内に含ませた。こんな味の濃いものを口に含んだのは何年ぶりであろう……あ、あ……という呻き声のようなものが自然に発せられた。
そうなると外のことも気に掛けず夢中でシチューを啜り出す。ゴクゴクと音を立て、含み過ぎて口の端から溢れ出す。そして、もう一杯。
口の中に肉塊らしきものが入る。肉を口にすることも久しぶりだ。ところが、口の中に固いものが当たる。骨か?
男は口から異物を取り出す。一センチ四方の透明の薄い板状のモノ……? プラスチック片? 手に取りマジマジと見つめる。
「あっ!」
思わず叫んだ。声を出したのも久しぶりだったが、それは理性のある言葉ではない、本能という感情から出た叫びだ。
手にしたプラスチック片らしきものは、人間の爪だ。口の中の物を嘔吐物のようにすべてシンクに吐き出した。シチューの中には粘土質のような野菜の他に生前何だったか分からない肉らしきモノが混ざっている。ぺっぺっと、口の中のモノを吐き続けた。
そして、玉で鍋の中をあらためてすくってみた。そこから二、三センチの大きめの肉の塊を手に取る。
(あ…、あし……足の親指……!)
それはまさしく人間の足の親指だった!
思わずお玉を床に落とす。音を立ててお玉が転がる。脂ぎった床にシチューが飛び散った。
その時、台所に続く暗い奥から人の足音が……。階段を降りてくるようだ。力ないゆっくりとした足取りだ。老婆の他に住人がいた。
(まずいっ!)
男は落ちたお玉を拾うこともなく、靴も履かずに入ってきた勝手口から出ようとした。しかし、ドアが開かない、ノブは動くのだが、押しても開かないのだ。何かでドアを押さえつけられているようだ。
(クソッ!)
男は狭い薄暗い台所を見回した。選択は二つしかない。
開き直って、何者かが近づいてくる廊下に向かうか?
襖が閉め切ってある奥の部屋に行くか?
空き巣ぐらいの犯罪で捕まるなら未だしも、対面した住人と争いヘタに強盗に格上げされては構わない。それに争いに勝つとも限らない。相手は人の指をシチュー鍋に入れるような怪物かも知れない。
男は忍び足で奥の部屋の方へ向かいゆっくりと襖を少しだけ開けた。台所の窓からの明かりも届かない。中は真っ暗だ。躊躇したが、自分の体が入る幅だけ開け、そっと入った。
その瞬間、首に鋭い衝撃が走った。
僅かな白い光。消え行く意識の中で目にしたのは、出て行った筈の老婆の顔だった。白い光の光源は、彼女の手にあるスタンガンだった……。
【第弐場面】
老婆はカセットガス・コンロに鍋をかける。お玉で鍋の中をゆっくりとかき混ぜる。やがて湯気が立ち始める。老婆は匂いを確認し、独りで小さく頷いた。換気扇を回し、シンクの上にある小窓を開ける。
匂いは空気に乗って外界に流れ始めた。
老婆はそれを確認すると、後ろの廊下の方を振り向いた。そこには夫らしき高齢の男性が立っている。
老人は黙って頷くと、暗い廊下の奥へ消えた。
やがて、階段を上るギシッ、ギシッという音が老婆の耳に届き、それを確認し、勝手口から出ていった。家裏から表の正門へ進み、家の敷地を出ると、携帯電話に〔出ました〕と打ち込み、送信。
【第惨場面】
老人は暗い二階の部屋の僅かに開いている窓のすき間から下界を見渡す。
老婆が敷地から出るのを見届けた。
すると、すぐに〔出ました〕というメッセージが携帯に届いた。
そして、ほどなく、痩せこけた男がフラフラと家に近づいてくるのを見つける。
男は案の定、家から漂う匂いに反応していた。麻薬を窘めたような恍惚な表情を浮かべている。そして、操られているかのように家に近づいてくる。
「来た、来た」
老人は思わずボソリと呟いた。さらに男の行動を見続ける。
男はブロック塀越しに家の敷地内を覗いている。勝手口から老婆が出てきて、さらに正門から敷地の外へ出て行くのを見届けた。
老人はその男が我が家の敷地へ忍び込み、さらに家の中に入るのを確認した。そして、〔来た〕とメッセージを送る。
すぐに老婆が戻ってきた。老婆は裏口に回り、気付かれないように勝手口のドア越しに支え棒を立てかけた。そして、奥部屋の縁側のあるサッシを開け、家の中に入る。部屋の中は真っ暗だが、勝手知った我が家、部屋の片隅に縮こまり、畳に置いておいたスタンガンを手にした。
老人もスタンガンを手に、階段を降り始める。階下で何やら慌てる素振りを察知したが、焦ることもなく、ゆっくりと歩を進めた。そして、階段を降りきる前にアウッという悲鳴とドサッと人が倒れるのを耳にした。
老人の表情は満足げで、ニンマリとしていた。
【第四場面】
男は目を覚ました。真っ暗だ。自分の状態さえ見えない。が、全裸にされ後ろ手で縛られていることは分かる。おまけに足も反り返るように縛れており、逆エビのような格好で湿った冷たい床に寝転がされている。アンモニアのような刺激臭と汚物の匂いで頭が痛くなりそうだ。猿轡をされているので、叫ぶこともできない。匂いのキツい汚物が体中にまとわりつく。
さらに体中がチクチク痛む。激痛というほどではないが、全身がなんとも言えない傷みに覆われているようだった。逃げ道を探そうと不自由な体を転がすが、四方が鉄格子のようなもので囲われているようなので動ける範囲も限られている。大型犬のゲージのようなものであろうか、しかし、思った以上に頑丈な作りになっており、蹴ったくらいではビクともしない。むしろ素足の足の裏が痛むだけだ。口に入る汚物をペッペッと吐きながら深い呼吸を確保した。(冷静にならなければ……)暗闇の中で落ち着きを取り戻そうと努めた。
(体中の痛みの原因は何だ?)
真っ暗の上、逆エビ状態である。自分の全身を見ることは不可能だ。神経を研ぎ澄まし痛みの原因を推測した。裂傷だ。体のあちこちに裂傷があるようだ。ただ深手はない、チクチクとした痛みだ。
すると突然、襖が開いた。光が差込み、思わず男は顔ごと目を逸らした。
「まだ、生きておるなぁ」
「ちょっと刺すのが少なかったかも知れませんね」
「ああ、そうだなぁ」
老夫婦が開いた襖から見下ろした。
(コイツらに捕らえられたのか!)
男の脳裏に怒りと悔しさが溢れた。
(刺すってどういうことだ? 俺を殺すつもりなのか? ならいっそ一気に 殺してくれ! 痛いし、臭いし、こんな行き地獄から解放してくれ!)
「しかしなぁ、一気に刺して大量の血が溢れても困るでなぁ」
「そうですねぇ」
「まあ、この調子じゃ、血抜きが終わるのもひと晩以上掛かりそうだなぁ」
(血抜き? コイツら狂ってる、俺は屠殺場の豚か? 餌を探していたら、自分が餌になっちまったのか……)
「気長に待ちましょう」
「それにしても痩せたやっちゃなぁ、喰うところがないぞ」
そう言ったとき、老人の表情は喜びと落胆が入り交じっていた。
「まあ、お出汁にしていただきましょう」
血が減っていくせいか、思考が薄くなっていく。鍋の中にあった足の親指が思い出された。
(クソッ! 俺が出汁か……)
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