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「だるいなぁ。いま、何時だ?」
窓の外から、眩しすぎる日が差し込んでいる。それが雅史を射る。
「俺の部屋…。俺、ここで何してるんだ? あれ、何でここにいるんだ?」
雅史はあまりの気だるさに考えることを辞めた。おまけになぜか左手が妙に痛む。
「どうもあれから調子が悪い。これが憑かれたってやつかな?ヤバいなぁ」
*
台風八号が未明に通過した。気象庁の発表で、数十年に一度の猛烈な台風と言われ、本州全土が覚悟をしてその瞬間を迎えたが、肩透かしの様子だった。
それなりの雨量、暴雨風はあったものの、大きな被害報告もなく、未明に県内を通過し、昼前には温帯低気圧に変わっていた。
田所雅史は、そのことでホッとした者の一人だ。
フードチェーンに勤める雅史は、金曜日が自分の休日だった。その金曜日が八号と重なるところだったのだ。当初の予定では、金曜日が本州を直撃するとの見方だったので、せっかくの休日を無駄にせずに済んだことに胸を撫で下ろしている。
大学を出て、今の会社に勤めて四年。大した趣味を持たずに過ごしてきたのだが、最近、漸く趣味と言えるものに出会えたのだ。
トレッキングだ。過酷な状況下で高い頂上を目指すのではなく、山の中の散策といったものだ。二年ほど前に、雑誌で見た記事に影響を受け、近くの山を歩いたところ、雅史にとっては、なんとも言えない気持ちのいい体験だった。それからというもの、金曜日になると、どこかの山へ向かい、独り黙々と山路を歩くのだった。健康にも良く、平日で人も少なく、そして何よりも自然と向き合えることが雅史にはピッタリだった。
そんな唯一の趣味が八号に阻止されそうだったのだ。
早朝、カーテンを開け、朝日を浴びると、思わずガッツポーズをとった。
「よし! 行ける!」
雅史は、前の晩から用意しておいたリュックなどの一式を背負い、アパートを飛び出した。
オンボロの軽に荷物を積み込む。車内にはテントやら、ランタンやらのキャンプ用品が無造作に積んである。年に二回の長期休暇のときに使用するためのものだ。
運転席に乗り込み、意気揚々と車を走らせた。今日の目的地は県境にある歴史由緒高い山だ。雅史のアパートからは、車で二時間ほど掛る。
途中、休憩を挟みながら、午前九時には目的地に着いた。
村落全体が観光地になっているような場所なので、無料の駐車場も所々にある。
登るべきトレッキング・コースもいくつかあり、とても一日では、周り切れそうもない。
そこで、ネットで調べ、この辺り一帯を治めていたと云われる元城主が祀ってある廟所を巡って、一番眺めがいいと言われる山頂を目指すことにした。
山頂までのコースが一・五キロメートルほど。往復で一時間ほどであろう。
降りたら、移動がてら昼食をとって、別のコースを登る計画を立てた。登り始める前の、シュミレーションを立てることも雅史は好きだった。
そして、目標の山に到着し、砂利が敷詰められた質素な駐車場に車を停めた。
なんにもないな…。
雅史の第一印象だった。村落一帯が観光地をうたっているわりには、本当に何もない場所だった。近くにはコンビニもなければ、自動販売機さえもない。
雅史は数枚の写真を撮り登り支度を始めた。
山の途中途中にある景色、動物、珍しいものなど、デジカメに収めることもトレッキングの楽しみの一つだった。誰かと競争するわけではない。自分のペースでのんびり進めばいいのだ。
そして、撮った写真をパソコンで自宅や会社の空き時間で整理し、自分だけのデジタル記録本を作成する。誰に見せるでもなく、デジタル製の絵日記のようなものだ。
城址と城主の廟所があるという割には、質素な荒れ果てた山道の入口。質素という言葉よりも不気味という言葉の方が合うような景観だ。入口付近に、こちらを監視しているかのように廃車が放置してある。
想像していた景観とはあまりに違いがあったことに雅史のテンションは下がり気味だった。
階段状の登り道はすこし大きめで歩幅が合わない。
そして、台風一過で、すっかり晴れて過ごしやすい天候だと思っていたが、山に入るとすぐに、それが間違いだったことに雅史は気づき始めた。
山道は、かなりぬかるんでいるのだ。
木々が覆い茂って日が十分に届いていなかったのだろう。
雅史は数メートルしか進んでいないのに、もう少し底厚のスニーカーにすればよかったと少し後悔していた。入口からこの調子では、奥深く進めばさらに足場は悪くなるに違いない。
何かが違う。いつものようなワクワクするトレッキングではない。無機質に登り方向を示す案内板が、まるで自分を促すように目に付く。登るのを躊躇いたくなるような空気…。しかし、せっかく台風も過ぎ去り、車で四十分も掛け、訪れたのだ、このまま登らない手はない。雅史はリュックを背負い直し、次の一歩を踏み出した。
登り始めて二十分ほど、城主のものと思われる廟所が見えてきた。石でできた垣が厳重に取り巻いている。雅史はそのときふと懐かしい匂いを感じた。かいだことのある匂いだが、思い出せない。匂いは最も記憶を呼び起こす手段と聞いたことがあるが、今ここで思い出せない。
雅史はリュックを降ろし、水分補給をした。休憩を兼ねて、デジカメを持ち辺りを散策したが、もう何ヶ月も人が来ていないような雰囲気だ。
そして、不思議なことに数枚とった廟所の写真がしっかりとピントが合わないのだ。フレーム画面で見ているときは、問題ないのだが、実際に撮った写真はどれも若干もやっとしている。しかし、茂った森の中なので明暗の関係でそのようになってしまうのだろうと、雅史はそのままにしておいた。とくにコンテストに応募するわけでも、人に見せびらかすわけでもない。ピンボケの写真など山のようにある。
それよりもぬかるんだ足元のせいで思った以上に体力を消耗してしまった。
そろそろ頂上付近にさしかかるはずである。雅史はリュックを背負い直し気を引き締めた。
改めて登り始める前に、この城主のことを説明している木製の看板を撮影しようとしたときだ。
テレビ番組で観たことあるようなヤラセのような現象が起きたのだ。
デジカメが…、シャッターを押しても、作動しないのだ。雅史はきょとんとデジカメを見つめた。冷静になり、電源を落とそうしたが、電源も落ちない…。どこを押しても全く作動しないのだ。完全なフリーズ状態である。
テレビの心霊番組なんかで、突然、カメラが作動しなくなった! 突然、電球が切れた! なんて場面を見て、苦笑したことがあるが、自分が経験するとは!
それも茂った森の中で、たった独りで!
雅史は些かパニックのような状態になった。
(この場を離れなきゃ!)
そう思った、その時。デジカメのフレーム画面に見たことのないエラー・メッセージが出た。
『SDカードに異常があります』
(? ? ?)
買ってまだ一年も経っていないデジカメとSDカードに? それも今の今まで普通に使用していたのに、なぜこのタイミングで?
雅史は悪寒が走った。急ぎ足で前へ進んだ。後ろを振り返る勇気がなかった。そして、内心、まだ午前中で良かった、と自分を慰めた。山は思っている以上に暗くなるのが早い。午後三時でも驚くほど暗くなる場所さえあるのだ。そして、さらに足を速めた。
五分ほど足早に進んだであろうか、自分のまぬけさに後悔した。なぜ、さっきあの時点で引き返さなかったのか! 経験上、山道は頂上までの道が何本もあるが、車を置いた場所に戻るには他に道があるのだろうか? もしなければ、またこの道であの廟所の前を通らなければならない。おまけに台風一過のあとだ。この山を登ろうとする登山客もまず、いないだろう。「一緒に下りませんか?」と声を掛ける人などいないはずだ。
さきほどよりも若干日が差す山中で雅史は考えた。
(戻る? 登る?)
しかし、登ってきた方を見ると、とても戻る気になれない。それとも掟破りの側面踏破か…。雅史は周りを見渡した。
覆い茂った木々。ここは日本か? と疑問を抱きたくなるような巨大なシダ植物の絨毯を見ると、一気に萎えた。ただでさえ、道がぬかるんでいるのに、これは危険だ。とりあえず頂上を目指して、別のルートで下りることが真っ当であろう。
雅史は再度登り始めた。明るいうちに下山しなければ…。天候は崩れることはまずない。後で笑い話になってもいい。とにかく進んで、下山ルートをたどろう。思い足を頂上に向けた。
「なんでだよ…」
思わず声が出た。越えられないほどではないが、折れ落ちた枝が道を塞いでいるのだ。恐る恐るデジカメを向けた。すると今度はなんの問題もなくシャッターが切れる。なぜさっきは…? 雅史にとっては、問題がないことが問題だったが、もう深く考えるのは止めた。
昨夜の台風の影響だろうが、なぜここに落ちるのだ? 何かの力が行き先を阻んでいるとしか思えない。しかし、引き返す勇気も気力もない。おまけに腹が痛くなってきた。頂上に上がれば、一応観光地としてうたっているのだから、さすがにトイレぐらいあるだろう。
「チクショー!」
今度は意識して声を出した。自分を鼓舞するために…。
雅史はあちこちを引っかかりながら、枝を乗り越えた。もう頂上のはずだ。トイレに行けることを目標に自分を奮い立たせた。
それからどのくらい登ったか、息も荒くなってきたところに、開けた空が見えてきた! 頂上だ!
思った以上に見事な景観だった。先ほどまで心を占めていた恐怖心も打ち消してくれるような壮大な風景だ!
(そうだ!トイレ、トイレ…? ト・イ…?)
気が晴れたところで、気持ちを新たに辺りを見回したが、雅史は目を見張った。トイレらしき建物があるのだが、さすがにそこで用を足すのは無理そうだった。バラック小屋が高級思えるような建具の代物がある。そこがトイレらしいのだが…。
しばらく遠まわしにその建物を眺めていると、ほんの瞬間気配を感じた。人だ。それも女性の…。なぜか、近くにいる感じがする。見えたわけでも、声を聞いたわけでもない。どういうわけか、女性の存在を感じたのだ。ほんの一瞬だけ。雅史はその場を走り去った。
そして、人生初の「野グ○」を覚悟した。しかし、頂上に着いた安堵からか、先ほどよりも腹痛は治まっている。一旦落ち着いて、限界まで我慢することにした。そして、眺めにいい場所に腰を下ろし、鉄柵に背を任せた。
(気のせいだ!)
神経が過敏になっているだけに違いない。雅史は自分に言い聞かせた。
そして、ここまでの道のりをデジカメで振り返った。
すると、どうだろう。先ほどの廟所でデジカメがフリーズしたあと、二枚真っ黒の写真がある。
(デジカメで真っ黒? 感光カメラじゃあるまいし…。次は…えっ?)
そこには、撮った覚えのない奇妙な写真が…。
*
「だるいなぁ。いま、何時だ?」
窓の外から、眩しすぎる日が差し込んでいる。それが雅史を射る。
「俺の部屋…。俺、ここで何してるんだ? あれ、何でここにいるんだ?」
雅史はあまりの気だるさに考えることを辞めた。おまけになぜか左手が妙に痛む。
「どうもあれから調子が悪い。これが憑かれたってやつかな?ヤバいなぁ」
あのトレッキングの日以来、雅史の心はここに在らずという状態が続いている。
昼間でも窓の外から半透明の人の顔が浮かんで見えたり、得体の知れない気配を感じたりする。夜は夜で、苦しそうな呻き声が夜通し響いたかと思えば、見知らぬ子供が頭元で正座している姿が見えたりする。
気が狂いそうだった。しかし、恐怖を感じるかというと、そうでもなく、瞬間的に体中にゾッとする気配を感じて終わってしまうのだ。恐怖を通り越した感覚を味わっている。ただ、目を瞑ったりするのが怖く、ただただ壁に背をもたれて膝を抱えるしかなかった。一日中、部屋の隅っこで縮こまっているのだ。
もう、今日が何曜日で、何日でなんてことはどうでもよかった。仕事のことなど頭の片隅にもない。
ひたすら震えているだけだ。そして、自覚しているのは、「憑かれた」ということだけだ。
*
ある日、変化が起きた。
アパートのドアがガチャガチャと振動した。誰かがドアノブを動かしている。
雅史は震えさらに身を縮めた。
するとドアがゆっくりと開いた。
見知らぬ男がドアを開けたのだ。生者? 奴らなら、ドアを開けることなどせず部屋に入ってくるはずだ。雅史を恐怖で叫びたかったが口を押えて、玄関口に目を凝らした。
「さあ、どうぞ」
男は外に向かって声を発した。
「私は、これで失礼しますので、カギはお渡ししておきますので、帰りに事務所に寄って戻して下さい」
そう言って男はその場を立ち去った。
代わりに女性の姿が見えた。
(おい、おい。人の家の玄関で何やってんだよ。)
雅史は重い体を起こそうとしたが、思うように動かない。だるいのだ。おまけに声を発しようにもそれさえできない。部屋の片隅で膝を抱えたまま成り行きを眺めるしかできない。そして、その女性を見た瞬間に驚愕した。
(か、母さん!)
なんと母親ではないか。
(そうか、会社に行ってないから、心配して来たんだ。)
雅史は合点した。自分が会社に出勤していない連絡を受けて、様子を見にアパートに寄ってくれたのであろう、と。そして、親族ということで不動産会社にカギを開けてもらったのだ。さっきカギを開けた男は不動産会社の社員に違いない。
しかし、その予想に疑問符が浮かんだ。
母親の後に、父親と大学生である妹の純子までもが付いてきている。
(おい、おい。みんなどうした? 心配してくれるのはいいけど、ちょっと大げさだろう)
母親はともかく、父親は自身にも仕事があるのだろうし、純子も大学の講義があるはずだ。自分が数日会社に出勤していないだけで、何を大げさに家族総出でアパートに来ているのだ? 雅史は部屋の隅で声を発しようとしたが出ない。それに三人は自分の存在に気が付いていないようだ。全く自分に視線を向けない。
(おい! ここだよ!)
三人は、組み立て式の段ボールの束をいくつも中に運び込み、黙々とそれを組み立て始めた。
(おい! 何やってんだよ! 俺はここだよ! …! あっ!)
目が見開いた。あろうことか、開けっ放しのドアから、祖母が覗いているではないか!
(ば、ばあちゃん…。うそだろ…。)
祖母の目は雅史に向けられている。両親と妹の方へは見向きもせず、きっちりと視線を合わせているのだ。そして、三人は玄関口で立っている祖母のことは気にも掛けず、黙々と自分の作業に集中している。
(ば、ばあちゃん…、なぜ? ゆ、幽霊?)
数年前に亡くなった祖母は、フーッと息を吐き、しょうがないという諦めた表情で家の中に入ってきた。靴を脱ぐわけでもなく、足場を気にするわけでもなく、段ボールを組み立てている三人を横目に、スーッと部屋の片隅の雅史の前に近づいてきた。
祖母が通り過ぎるとき、一瞬純子がハッと体を起こしたが、すぐに組み立ての作業を再開した。
死んだはずの祖母が目の前に立っている。しかし、不思議と恐怖は感じられない。
「ば…あちゃ…ん」
声が出た。しかし、両親と純子には聞こえていないようだった。
「もう、しょうがない子だね」
祖母は優しい表情で雅史を見下ろした。
「どういうこと?」
雅史は祖母を見上げた。
「あんな地盤の緩んだ日に、山なんかに登るから…」
「えっ?」
「おばあちゃんね、あんたが頂上に行かせないないように、いろいろと合図を送ってたのよ」
「合図?」
二人が会話をしているのを気にも掛けず、三人は段ボールを組み立てている。
「カメラ…止まっちゃったでしょ」
「あれ、ばあちゃんが?」
「そうよ。枝が折れて、道を塞いだり、お腹が痛くなっちゃったでしょ。あれも全部私が仕向けたのよ」
雅史はあの日のことを思い出した。おかしな体験をしてなんとか頂上までたどり着いた。しかし、どうやって下山したのだろう? 思い出せない。記憶がない。
「俺を見守ってくれていたの?」
「そうよ。いつもあなたを見守っていたのに…」
「…いたのに…」
「あなた、廟所でわたしの存在に気づいてくれたと思ったのに…」
「廟所で…?」
そういえば、あの時、懐かしい匂いが体を覆った。それが何の匂いかは、その時は分からなかったのだ。しかし、今分かった。あの匂いは祖母の匂いだ。心地いい、優しい匂い。幼いころ、「ばあちゃんの匂いは、お日様の匂いだ。」と言っては、抱きしめてもらっていた。
「あのときの匂い…」
「そうよ。あなたに登って欲しくなく、わたしも必死だったのよ」
「なぜ?」
「思い出してみなさい。」
雅史はあの日を振り返った。
*
俺はデジカメがフリーズしたり、枝が道を塞いだりで、僅かにパニックになっていた。そのせいでもあろうか腹痛になり、頂上のトイレを目指したのだが、とても用が足せるような代物ではなく、諦めかけていた。おまけに一瞬女性の気配を感じ、恐怖が倍増したんだ。
でも、それは全て、ばあちゃんからの合図…『サイン』だったのだ。
そして、頂上の岩場で腰を下ろした。俺の気分とは逆に、天気は良く、眺めも最高だった。俺は気持ちを落ち着けるため、眺めを背に落下防止の鉄柵に背を任せた。そして、落ち着いてデジカメを見直してみた。そう、そこに奇妙な写真があったんだ。俺は目を背けるように、体を反らした。
そして…、そして…、そして…。
そうだ!思い出した!
ゴゴッという音がしたと思ったら、空と地面が逆さに見えた。重力が反転するような感覚…。
俺は岩場ごと、落ちたんだ…。
俺は…。
*
「ばあちゃん、俺、死んだの?」
祖母は雅史が幼いころ何かと失敗するたび、ニコッと笑顔を見せた。今、それと同じ笑顔をしている。
「もう、しょうがないわね。無理して山に登るから。怖いと思ったら、そこで止めなきゃ。早過ぎだったのよ、こっちに来るのは。まだ、来ちゃ行けなかったのに」
「俺…」
「あなた、だれにも行き先も言わず行くから、次の日、会社じゃあなたが来なくて、大騒ぎだったのよ。お父さんやお母さんもあっちこっち探してね。そしたら、ここの市役所の人が台風の被害調査で山に登ったら、あなたの車を発見し、土砂崩れの中にあなたをようやく発見できたのよ。そのとき、左手だけが、土砂から出ていて、キツネやら、イタチに食べられてしまってね。発見されるまで三日掛ったのよ。で、今日、あなたの私物を片づけに家族三人で来てくれたのよ」
「左手…」
そう言えば、雅史はずっと左手に痛みを感じていた。改めて左手を見た。それは、肉片のない骨だけの代物だった。、雅史はここで初めて理解した。
「死んだんだ…、俺」
「ほんとにしょうがない子ね。あんなに合図を送っていたのに…」
「で、どうしたらいいの?」
「もう行かなきゃいけないから、お父さん、お母さん、純子にお別れをしなさい」
「どうやって?」
「『今まで、ありがとう』って伝えればいいのよ」
〝雅史〟は自分が死んだことへの悲しみも悔しさもそれほど感じていなかった。意外に淡々としている自分に驚いた。まだ慣れていいないからだろうか? 死への認識がないからであろうか? そして、立ち上がり、座ったまま段ボールを組み立てている母親に近づき、抱きしめるようにした。『母さん、ありがとう』
「あっ!」
突然、母親は涙が溢れた。
「どうした?」
驚いて父親が尋ねた。
「今、雅史が…」
「…」
父親は言葉を返さず、息を飲んだ。そして、その瞬間…。
「はっ…」
父親も涙が溢れた。〝雅史〟は父の手を握った。『父さん、ありがとう』
「どうしたの、父さんまで、兄ちゃんの部屋を片付けているから、ちょっとした匂いに敏感になっているだけよ」
『純子、幸せになれよ』
〝雅史〟は純子を抱きしめた。純子は体を震わせた。今、確かに兄が体を覆ったのだ。それを感じたのだ。
「お兄ちゃん!」
純子は手で口を押えた。嗚咽が…。そして、溢れる涙を抑えることなく、純子は部屋中を見回した。
〝雅史〟は三人に存在のサインを残した。
今、その視界は、三人の頭上にある。三人が体を寄せて泣きつぶれている。そして、もやがかかったように白く霞んで…すべてが…消えて…、逝った。
窓の外から、眩しすぎる日が差し込んでいる。それが雅史を射る。
「俺の部屋…。俺、ここで何してるんだ? あれ、何でここにいるんだ?」
雅史はあまりの気だるさに考えることを辞めた。おまけになぜか左手が妙に痛む。
「どうもあれから調子が悪い。これが憑かれたってやつかな?ヤバいなぁ」
*
台風八号が未明に通過した。気象庁の発表で、数十年に一度の猛烈な台風と言われ、本州全土が覚悟をしてその瞬間を迎えたが、肩透かしの様子だった。
それなりの雨量、暴雨風はあったものの、大きな被害報告もなく、未明に県内を通過し、昼前には温帯低気圧に変わっていた。
田所雅史は、そのことでホッとした者の一人だ。
フードチェーンに勤める雅史は、金曜日が自分の休日だった。その金曜日が八号と重なるところだったのだ。当初の予定では、金曜日が本州を直撃するとの見方だったので、せっかくの休日を無駄にせずに済んだことに胸を撫で下ろしている。
大学を出て、今の会社に勤めて四年。大した趣味を持たずに過ごしてきたのだが、最近、漸く趣味と言えるものに出会えたのだ。
トレッキングだ。過酷な状況下で高い頂上を目指すのではなく、山の中の散策といったものだ。二年ほど前に、雑誌で見た記事に影響を受け、近くの山を歩いたところ、雅史にとっては、なんとも言えない気持ちのいい体験だった。それからというもの、金曜日になると、どこかの山へ向かい、独り黙々と山路を歩くのだった。健康にも良く、平日で人も少なく、そして何よりも自然と向き合えることが雅史にはピッタリだった。
そんな唯一の趣味が八号に阻止されそうだったのだ。
早朝、カーテンを開け、朝日を浴びると、思わずガッツポーズをとった。
「よし! 行ける!」
雅史は、前の晩から用意しておいたリュックなどの一式を背負い、アパートを飛び出した。
オンボロの軽に荷物を積み込む。車内にはテントやら、ランタンやらのキャンプ用品が無造作に積んである。年に二回の長期休暇のときに使用するためのものだ。
運転席に乗り込み、意気揚々と車を走らせた。今日の目的地は県境にある歴史由緒高い山だ。雅史のアパートからは、車で二時間ほど掛る。
途中、休憩を挟みながら、午前九時には目的地に着いた。
村落全体が観光地になっているような場所なので、無料の駐車場も所々にある。
登るべきトレッキング・コースもいくつかあり、とても一日では、周り切れそうもない。
そこで、ネットで調べ、この辺り一帯を治めていたと云われる元城主が祀ってある廟所を巡って、一番眺めがいいと言われる山頂を目指すことにした。
山頂までのコースが一・五キロメートルほど。往復で一時間ほどであろう。
降りたら、移動がてら昼食をとって、別のコースを登る計画を立てた。登り始める前の、シュミレーションを立てることも雅史は好きだった。
そして、目標の山に到着し、砂利が敷詰められた質素な駐車場に車を停めた。
なんにもないな…。
雅史の第一印象だった。村落一帯が観光地をうたっているわりには、本当に何もない場所だった。近くにはコンビニもなければ、自動販売機さえもない。
雅史は数枚の写真を撮り登り支度を始めた。
山の途中途中にある景色、動物、珍しいものなど、デジカメに収めることもトレッキングの楽しみの一つだった。誰かと競争するわけではない。自分のペースでのんびり進めばいいのだ。
そして、撮った写真をパソコンで自宅や会社の空き時間で整理し、自分だけのデジタル記録本を作成する。誰に見せるでもなく、デジタル製の絵日記のようなものだ。
城址と城主の廟所があるという割には、質素な荒れ果てた山道の入口。質素という言葉よりも不気味という言葉の方が合うような景観だ。入口付近に、こちらを監視しているかのように廃車が放置してある。
想像していた景観とはあまりに違いがあったことに雅史のテンションは下がり気味だった。
階段状の登り道はすこし大きめで歩幅が合わない。
そして、台風一過で、すっかり晴れて過ごしやすい天候だと思っていたが、山に入るとすぐに、それが間違いだったことに雅史は気づき始めた。
山道は、かなりぬかるんでいるのだ。
木々が覆い茂って日が十分に届いていなかったのだろう。
雅史は数メートルしか進んでいないのに、もう少し底厚のスニーカーにすればよかったと少し後悔していた。入口からこの調子では、奥深く進めばさらに足場は悪くなるに違いない。
何かが違う。いつものようなワクワクするトレッキングではない。無機質に登り方向を示す案内板が、まるで自分を促すように目に付く。登るのを躊躇いたくなるような空気…。しかし、せっかく台風も過ぎ去り、車で四十分も掛け、訪れたのだ、このまま登らない手はない。雅史はリュックを背負い直し、次の一歩を踏み出した。
登り始めて二十分ほど、城主のものと思われる廟所が見えてきた。石でできた垣が厳重に取り巻いている。雅史はそのときふと懐かしい匂いを感じた。かいだことのある匂いだが、思い出せない。匂いは最も記憶を呼び起こす手段と聞いたことがあるが、今ここで思い出せない。
雅史はリュックを降ろし、水分補給をした。休憩を兼ねて、デジカメを持ち辺りを散策したが、もう何ヶ月も人が来ていないような雰囲気だ。
そして、不思議なことに数枚とった廟所の写真がしっかりとピントが合わないのだ。フレーム画面で見ているときは、問題ないのだが、実際に撮った写真はどれも若干もやっとしている。しかし、茂った森の中なので明暗の関係でそのようになってしまうのだろうと、雅史はそのままにしておいた。とくにコンテストに応募するわけでも、人に見せびらかすわけでもない。ピンボケの写真など山のようにある。
それよりもぬかるんだ足元のせいで思った以上に体力を消耗してしまった。
そろそろ頂上付近にさしかかるはずである。雅史はリュックを背負い直し気を引き締めた。
改めて登り始める前に、この城主のことを説明している木製の看板を撮影しようとしたときだ。
テレビ番組で観たことあるようなヤラセのような現象が起きたのだ。
デジカメが…、シャッターを押しても、作動しないのだ。雅史はきょとんとデジカメを見つめた。冷静になり、電源を落とそうしたが、電源も落ちない…。どこを押しても全く作動しないのだ。完全なフリーズ状態である。
テレビの心霊番組なんかで、突然、カメラが作動しなくなった! 突然、電球が切れた! なんて場面を見て、苦笑したことがあるが、自分が経験するとは!
それも茂った森の中で、たった独りで!
雅史は些かパニックのような状態になった。
(この場を離れなきゃ!)
そう思った、その時。デジカメのフレーム画面に見たことのないエラー・メッセージが出た。
『SDカードに異常があります』
(? ? ?)
買ってまだ一年も経っていないデジカメとSDカードに? それも今の今まで普通に使用していたのに、なぜこのタイミングで?
雅史は悪寒が走った。急ぎ足で前へ進んだ。後ろを振り返る勇気がなかった。そして、内心、まだ午前中で良かった、と自分を慰めた。山は思っている以上に暗くなるのが早い。午後三時でも驚くほど暗くなる場所さえあるのだ。そして、さらに足を速めた。
五分ほど足早に進んだであろうか、自分のまぬけさに後悔した。なぜ、さっきあの時点で引き返さなかったのか! 経験上、山道は頂上までの道が何本もあるが、車を置いた場所に戻るには他に道があるのだろうか? もしなければ、またこの道であの廟所の前を通らなければならない。おまけに台風一過のあとだ。この山を登ろうとする登山客もまず、いないだろう。「一緒に下りませんか?」と声を掛ける人などいないはずだ。
さきほどよりも若干日が差す山中で雅史は考えた。
(戻る? 登る?)
しかし、登ってきた方を見ると、とても戻る気になれない。それとも掟破りの側面踏破か…。雅史は周りを見渡した。
覆い茂った木々。ここは日本か? と疑問を抱きたくなるような巨大なシダ植物の絨毯を見ると、一気に萎えた。ただでさえ、道がぬかるんでいるのに、これは危険だ。とりあえず頂上を目指して、別のルートで下りることが真っ当であろう。
雅史は再度登り始めた。明るいうちに下山しなければ…。天候は崩れることはまずない。後で笑い話になってもいい。とにかく進んで、下山ルートをたどろう。思い足を頂上に向けた。
「なんでだよ…」
思わず声が出た。越えられないほどではないが、折れ落ちた枝が道を塞いでいるのだ。恐る恐るデジカメを向けた。すると今度はなんの問題もなくシャッターが切れる。なぜさっきは…? 雅史にとっては、問題がないことが問題だったが、もう深く考えるのは止めた。
昨夜の台風の影響だろうが、なぜここに落ちるのだ? 何かの力が行き先を阻んでいるとしか思えない。しかし、引き返す勇気も気力もない。おまけに腹が痛くなってきた。頂上に上がれば、一応観光地としてうたっているのだから、さすがにトイレぐらいあるだろう。
「チクショー!」
今度は意識して声を出した。自分を鼓舞するために…。
雅史はあちこちを引っかかりながら、枝を乗り越えた。もう頂上のはずだ。トイレに行けることを目標に自分を奮い立たせた。
それからどのくらい登ったか、息も荒くなってきたところに、開けた空が見えてきた! 頂上だ!
思った以上に見事な景観だった。先ほどまで心を占めていた恐怖心も打ち消してくれるような壮大な風景だ!
(そうだ!トイレ、トイレ…? ト・イ…?)
気が晴れたところで、気持ちを新たに辺りを見回したが、雅史は目を見張った。トイレらしき建物があるのだが、さすがにそこで用を足すのは無理そうだった。バラック小屋が高級思えるような建具の代物がある。そこがトイレらしいのだが…。
しばらく遠まわしにその建物を眺めていると、ほんの瞬間気配を感じた。人だ。それも女性の…。なぜか、近くにいる感じがする。見えたわけでも、声を聞いたわけでもない。どういうわけか、女性の存在を感じたのだ。ほんの一瞬だけ。雅史はその場を走り去った。
そして、人生初の「野グ○」を覚悟した。しかし、頂上に着いた安堵からか、先ほどよりも腹痛は治まっている。一旦落ち着いて、限界まで我慢することにした。そして、眺めにいい場所に腰を下ろし、鉄柵に背を任せた。
(気のせいだ!)
神経が過敏になっているだけに違いない。雅史は自分に言い聞かせた。
そして、ここまでの道のりをデジカメで振り返った。
すると、どうだろう。先ほどの廟所でデジカメがフリーズしたあと、二枚真っ黒の写真がある。
(デジカメで真っ黒? 感光カメラじゃあるまいし…。次は…えっ?)
そこには、撮った覚えのない奇妙な写真が…。
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「だるいなぁ。いま、何時だ?」
窓の外から、眩しすぎる日が差し込んでいる。それが雅史を射る。
「俺の部屋…。俺、ここで何してるんだ? あれ、何でここにいるんだ?」
雅史はあまりの気だるさに考えることを辞めた。おまけになぜか左手が妙に痛む。
「どうもあれから調子が悪い。これが憑かれたってやつかな?ヤバいなぁ」
あのトレッキングの日以来、雅史の心はここに在らずという状態が続いている。
昼間でも窓の外から半透明の人の顔が浮かんで見えたり、得体の知れない気配を感じたりする。夜は夜で、苦しそうな呻き声が夜通し響いたかと思えば、見知らぬ子供が頭元で正座している姿が見えたりする。
気が狂いそうだった。しかし、恐怖を感じるかというと、そうでもなく、瞬間的に体中にゾッとする気配を感じて終わってしまうのだ。恐怖を通り越した感覚を味わっている。ただ、目を瞑ったりするのが怖く、ただただ壁に背をもたれて膝を抱えるしかなかった。一日中、部屋の隅っこで縮こまっているのだ。
もう、今日が何曜日で、何日でなんてことはどうでもよかった。仕事のことなど頭の片隅にもない。
ひたすら震えているだけだ。そして、自覚しているのは、「憑かれた」ということだけだ。
*
ある日、変化が起きた。
アパートのドアがガチャガチャと振動した。誰かがドアノブを動かしている。
雅史は震えさらに身を縮めた。
するとドアがゆっくりと開いた。
見知らぬ男がドアを開けたのだ。生者? 奴らなら、ドアを開けることなどせず部屋に入ってくるはずだ。雅史を恐怖で叫びたかったが口を押えて、玄関口に目を凝らした。
「さあ、どうぞ」
男は外に向かって声を発した。
「私は、これで失礼しますので、カギはお渡ししておきますので、帰りに事務所に寄って戻して下さい」
そう言って男はその場を立ち去った。
代わりに女性の姿が見えた。
(おい、おい。人の家の玄関で何やってんだよ。)
雅史は重い体を起こそうとしたが、思うように動かない。だるいのだ。おまけに声を発しようにもそれさえできない。部屋の片隅で膝を抱えたまま成り行きを眺めるしかできない。そして、その女性を見た瞬間に驚愕した。
(か、母さん!)
なんと母親ではないか。
(そうか、会社に行ってないから、心配して来たんだ。)
雅史は合点した。自分が会社に出勤していない連絡を受けて、様子を見にアパートに寄ってくれたのであろう、と。そして、親族ということで不動産会社にカギを開けてもらったのだ。さっきカギを開けた男は不動産会社の社員に違いない。
しかし、その予想に疑問符が浮かんだ。
母親の後に、父親と大学生である妹の純子までもが付いてきている。
(おい、おい。みんなどうした? 心配してくれるのはいいけど、ちょっと大げさだろう)
母親はともかく、父親は自身にも仕事があるのだろうし、純子も大学の講義があるはずだ。自分が数日会社に出勤していないだけで、何を大げさに家族総出でアパートに来ているのだ? 雅史は部屋の隅で声を発しようとしたが出ない。それに三人は自分の存在に気が付いていないようだ。全く自分に視線を向けない。
(おい! ここだよ!)
三人は、組み立て式の段ボールの束をいくつも中に運び込み、黙々とそれを組み立て始めた。
(おい! 何やってんだよ! 俺はここだよ! …! あっ!)
目が見開いた。あろうことか、開けっ放しのドアから、祖母が覗いているではないか!
(ば、ばあちゃん…。うそだろ…。)
祖母の目は雅史に向けられている。両親と妹の方へは見向きもせず、きっちりと視線を合わせているのだ。そして、三人は玄関口で立っている祖母のことは気にも掛けず、黙々と自分の作業に集中している。
(ば、ばあちゃん…、なぜ? ゆ、幽霊?)
数年前に亡くなった祖母は、フーッと息を吐き、しょうがないという諦めた表情で家の中に入ってきた。靴を脱ぐわけでもなく、足場を気にするわけでもなく、段ボールを組み立てている三人を横目に、スーッと部屋の片隅の雅史の前に近づいてきた。
祖母が通り過ぎるとき、一瞬純子がハッと体を起こしたが、すぐに組み立ての作業を再開した。
死んだはずの祖母が目の前に立っている。しかし、不思議と恐怖は感じられない。
「ば…あちゃ…ん」
声が出た。しかし、両親と純子には聞こえていないようだった。
「もう、しょうがない子だね」
祖母は優しい表情で雅史を見下ろした。
「どういうこと?」
雅史は祖母を見上げた。
「あんな地盤の緩んだ日に、山なんかに登るから…」
「えっ?」
「おばあちゃんね、あんたが頂上に行かせないないように、いろいろと合図を送ってたのよ」
「合図?」
二人が会話をしているのを気にも掛けず、三人は段ボールを組み立てている。
「カメラ…止まっちゃったでしょ」
「あれ、ばあちゃんが?」
「そうよ。枝が折れて、道を塞いだり、お腹が痛くなっちゃったでしょ。あれも全部私が仕向けたのよ」
雅史はあの日のことを思い出した。おかしな体験をしてなんとか頂上までたどり着いた。しかし、どうやって下山したのだろう? 思い出せない。記憶がない。
「俺を見守ってくれていたの?」
「そうよ。いつもあなたを見守っていたのに…」
「…いたのに…」
「あなた、廟所でわたしの存在に気づいてくれたと思ったのに…」
「廟所で…?」
そういえば、あの時、懐かしい匂いが体を覆った。それが何の匂いかは、その時は分からなかったのだ。しかし、今分かった。あの匂いは祖母の匂いだ。心地いい、優しい匂い。幼いころ、「ばあちゃんの匂いは、お日様の匂いだ。」と言っては、抱きしめてもらっていた。
「あのときの匂い…」
「そうよ。あなたに登って欲しくなく、わたしも必死だったのよ」
「なぜ?」
「思い出してみなさい。」
雅史はあの日を振り返った。
*
俺はデジカメがフリーズしたり、枝が道を塞いだりで、僅かにパニックになっていた。そのせいでもあろうか腹痛になり、頂上のトイレを目指したのだが、とても用が足せるような代物ではなく、諦めかけていた。おまけに一瞬女性の気配を感じ、恐怖が倍増したんだ。
でも、それは全て、ばあちゃんからの合図…『サイン』だったのだ。
そして、頂上の岩場で腰を下ろした。俺の気分とは逆に、天気は良く、眺めも最高だった。俺は気持ちを落ち着けるため、眺めを背に落下防止の鉄柵に背を任せた。そして、落ち着いてデジカメを見直してみた。そう、そこに奇妙な写真があったんだ。俺は目を背けるように、体を反らした。
そして…、そして…、そして…。
そうだ!思い出した!
ゴゴッという音がしたと思ったら、空と地面が逆さに見えた。重力が反転するような感覚…。
俺は岩場ごと、落ちたんだ…。
俺は…。
*
「ばあちゃん、俺、死んだの?」
祖母は雅史が幼いころ何かと失敗するたび、ニコッと笑顔を見せた。今、それと同じ笑顔をしている。
「もう、しょうがないわね。無理して山に登るから。怖いと思ったら、そこで止めなきゃ。早過ぎだったのよ、こっちに来るのは。まだ、来ちゃ行けなかったのに」
「俺…」
「あなた、だれにも行き先も言わず行くから、次の日、会社じゃあなたが来なくて、大騒ぎだったのよ。お父さんやお母さんもあっちこっち探してね。そしたら、ここの市役所の人が台風の被害調査で山に登ったら、あなたの車を発見し、土砂崩れの中にあなたをようやく発見できたのよ。そのとき、左手だけが、土砂から出ていて、キツネやら、イタチに食べられてしまってね。発見されるまで三日掛ったのよ。で、今日、あなたの私物を片づけに家族三人で来てくれたのよ」
「左手…」
そう言えば、雅史はずっと左手に痛みを感じていた。改めて左手を見た。それは、肉片のない骨だけの代物だった。、雅史はここで初めて理解した。
「死んだんだ…、俺」
「ほんとにしょうがない子ね。あんなに合図を送っていたのに…」
「で、どうしたらいいの?」
「もう行かなきゃいけないから、お父さん、お母さん、純子にお別れをしなさい」
「どうやって?」
「『今まで、ありがとう』って伝えればいいのよ」
〝雅史〟は自分が死んだことへの悲しみも悔しさもそれほど感じていなかった。意外に淡々としている自分に驚いた。まだ慣れていいないからだろうか? 死への認識がないからであろうか? そして、立ち上がり、座ったまま段ボールを組み立てている母親に近づき、抱きしめるようにした。『母さん、ありがとう』
「あっ!」
突然、母親は涙が溢れた。
「どうした?」
驚いて父親が尋ねた。
「今、雅史が…」
「…」
父親は言葉を返さず、息を飲んだ。そして、その瞬間…。
「はっ…」
父親も涙が溢れた。〝雅史〟は父の手を握った。『父さん、ありがとう』
「どうしたの、父さんまで、兄ちゃんの部屋を片付けているから、ちょっとした匂いに敏感になっているだけよ」
『純子、幸せになれよ』
〝雅史〟は純子を抱きしめた。純子は体を震わせた。今、確かに兄が体を覆ったのだ。それを感じたのだ。
「お兄ちゃん!」
純子は手で口を押えた。嗚咽が…。そして、溢れる涙を抑えることなく、純子は部屋中を見回した。
〝雅史〟は三人に存在のサインを残した。
今、その視界は、三人の頭上にある。三人が体を寄せて泣きつぶれている。そして、もやがかかったように白く霞んで…すべてが…消えて…、逝った。
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