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手ほどき 2
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再び訪れた姫の部屋は、一月前と変わっていなかった。室内に炊かれた香は、桂皮をふくんだ甘い香りがした。
姫は中庭を背に唐草模様の絨毯のうえにクッションを重ねて座っていた。長い黒髪をひと房ずつ顔の両側にたらし、残りは後ろに簪で結い上げていた。
わたしが部屋の中ほどへと進むと、前回と同じように侍女を退出させた。
姫は自身よりも年上の侍女の気配が消えるのを耳をすませて、慎重に待っているようだ。糸を引いたような細い目は、ひたとわたしを見つめたまま動かない。
わたしの胸は誰かに握られたように、ぎりりときしんだ。……謀はうまく運ぶのか、それとも不届き者として首が飛ぶか。
やがて扉の閉まる音が背後でした。
姫はまた無言で両手を差し出した。
「姫さま」
静かに姫の正面にひざまずいたわたしは、深く息を吸い気持ちの高ぶりを押さえた。
「ウードをお貸しする前に、ひとつお伺いしたいことがございます」
姫はわたしの甲高い声に驚かれたのか、かすかに目を見開いた。
「姫さまは、わたしの声を奇妙に感じるやもしれません。ええ、見てのとおり、わたくしは子どもではありません。齢は二十七です」
かすかに姫の眉が動いた。
「歌ならば構わないのです。けれど、人と話をするのは苦手です。この声ですから」
みな奇異に思うのだろう。ひとかどの男の姿なのに、声変わりをしていない。まるで子どものままなのだから。そして声を保つために去勢していると分かると、とたんに人々の態度は変わる。
髭の生えていない頬や、男にしてはひ弱に見える体つき。
それを理解したとたんに、無遠慮な言葉をぶつけてくる者や、歌い手のほかの『なりわい』を邪推し、まるで体をなめ回すような視線を送ってくる者もいる。
「歌うときのほかには、あまり声を聞かせたくないのです。無礼を承知で申し上げますが、もしや姫さまも同じなのではないですか」
ウードをわたしに返す時に聞いた姫の声は、ひどくしわがれていた。彼女の歌声は裏声ではないだろうか。姫はわたしの問いかけに、微動だにせず両手を前につきだしたままだ。
角張った顔の輪郭は、よく見ると頬骨と顎のとがりが以前よりも目に付く。姫は、いつのまにか痩せていた。絹の袖口からのぞく手首の細さが痛々しい。
「それに……もしや姫さまはわたくしたちの言葉が分かるのではございませんか?」
歌い手は耳が良いものだ。それは巧みな歌い手であれば、あるほど。けれど姫の細い目にはゆらぎがない。
わずかの間、わたしたちは無言で押し問答をするように見つめあった。いや、にらみ合ったというほうが似つかわしい。
わたしはウードを胸から離さず、姫はそんなわたしに目で圧をかける。中庭の棗椰子の葉が風に揺れざわめいた。控えの部屋からお茶の用意をしているのか、銀食器がふれあう音がした。
大きなため息をつき、わたしはウードを差し出した。姫の瞳から剣呑さが消え、一転きらめいたように感じた。
と、わたしは叫んだ。
「ムカデが襟に!」
「啊!」
姫は、やにわに姫は立ちあがり顔色を変えると、錦の上着を脱ぎすてた。髪を振り乱し、両手で首の周りをなんどもなんども払いながら部屋の隅まで逃げて行った。
「何ごとですか!」
侍女が扉を開けて駆け込んできた。
「ああ、ムカデかと思ったら、ただの葉でした」
わたしは隠し持っていた枯れた葉を袖口から出すと、姫の錦からさも取り上げたようにして侍女に見せた。乱れた髪を押さえて、目をぱちくりさせた姫がぽかんと口を開けた。
「まったく! 何事が起こったかと肝がつぶれましたわ。大切な姫さまに何かあったら……」
床に脱ぎ捨てられた錦を手に取り、侍女は部屋の隅に固まっている姫の肩にかけると、手を取って元の場所へと連れ戻した。
「お髪を結い直しましょう」
侍女は化粧道具箱を持ってくると、姫の素直な黒髪をいちどほどいて梳いた。侍女に身支度を任せながらも姫は落ち着かなげに、部屋の隅へと下がったわたしをなんども見る。わたしはことさら知らぬふりを決め、姫の長い髪が元のように整えられ、簪でまとめられるのを待った。
「いまお茶とお菓子をお持ちしますね」
侍女が化粧道具箱と共に再び部屋を出ていくと、わたしは笑い声を押しころした。姫はわずかのあいだ顔を真っ赤にしたが、じきに青ざめ薄い唇をゆがめてうつむいた。
「やはりお分かりなのですね……すみませんでした。姫さまを試すようなことをして」
姫は薄い唇を引き結び、両のこぶしを膝の上で固くにぎりしめたままだ。
不意に後悔の念が押し寄せてきた。王族の生まれで、年よりも落ち着いた振る舞いを身につけているとはいえ、まだ十七歳の少女なのだ。わたしはもう笑う気にはなれなかった。
「姫さまが言葉を解することを秘密にされたいのなら、誰にも言いません」
眉を曇らせたまま、姫はわたしのほうへ顔を戻した。言いません、とわたしはもう一度口にした。
「その代わり」
そこで言葉を切ると、姫はびくりと肩をふるわせた。わたしは顔を引き締めた。
「わたくしに姫さまの歌を教えてくださいませんか? 先日歌ってくださったあの美しい歌を。どうか、お願いいたします。ユェジー姫さま」
それからようやくウードを姫の腕へと渡した。ユェジー姫はウードをひたと抱きしめると、かすかに首をいちど傾け、美しい和音を奏でた。
姫は中庭を背に唐草模様の絨毯のうえにクッションを重ねて座っていた。長い黒髪をひと房ずつ顔の両側にたらし、残りは後ろに簪で結い上げていた。
わたしが部屋の中ほどへと進むと、前回と同じように侍女を退出させた。
姫は自身よりも年上の侍女の気配が消えるのを耳をすませて、慎重に待っているようだ。糸を引いたような細い目は、ひたとわたしを見つめたまま動かない。
わたしの胸は誰かに握られたように、ぎりりときしんだ。……謀はうまく運ぶのか、それとも不届き者として首が飛ぶか。
やがて扉の閉まる音が背後でした。
姫はまた無言で両手を差し出した。
「姫さま」
静かに姫の正面にひざまずいたわたしは、深く息を吸い気持ちの高ぶりを押さえた。
「ウードをお貸しする前に、ひとつお伺いしたいことがございます」
姫はわたしの甲高い声に驚かれたのか、かすかに目を見開いた。
「姫さまは、わたしの声を奇妙に感じるやもしれません。ええ、見てのとおり、わたくしは子どもではありません。齢は二十七です」
かすかに姫の眉が動いた。
「歌ならば構わないのです。けれど、人と話をするのは苦手です。この声ですから」
みな奇異に思うのだろう。ひとかどの男の姿なのに、声変わりをしていない。まるで子どものままなのだから。そして声を保つために去勢していると分かると、とたんに人々の態度は変わる。
髭の生えていない頬や、男にしてはひ弱に見える体つき。
それを理解したとたんに、無遠慮な言葉をぶつけてくる者や、歌い手のほかの『なりわい』を邪推し、まるで体をなめ回すような視線を送ってくる者もいる。
「歌うときのほかには、あまり声を聞かせたくないのです。無礼を承知で申し上げますが、もしや姫さまも同じなのではないですか」
ウードをわたしに返す時に聞いた姫の声は、ひどくしわがれていた。彼女の歌声は裏声ではないだろうか。姫はわたしの問いかけに、微動だにせず両手を前につきだしたままだ。
角張った顔の輪郭は、よく見ると頬骨と顎のとがりが以前よりも目に付く。姫は、いつのまにか痩せていた。絹の袖口からのぞく手首の細さが痛々しい。
「それに……もしや姫さまはわたくしたちの言葉が分かるのではございませんか?」
歌い手は耳が良いものだ。それは巧みな歌い手であれば、あるほど。けれど姫の細い目にはゆらぎがない。
わずかの間、わたしたちは無言で押し問答をするように見つめあった。いや、にらみ合ったというほうが似つかわしい。
わたしはウードを胸から離さず、姫はそんなわたしに目で圧をかける。中庭の棗椰子の葉が風に揺れざわめいた。控えの部屋からお茶の用意をしているのか、銀食器がふれあう音がした。
大きなため息をつき、わたしはウードを差し出した。姫の瞳から剣呑さが消え、一転きらめいたように感じた。
と、わたしは叫んだ。
「ムカデが襟に!」
「啊!」
姫は、やにわに姫は立ちあがり顔色を変えると、錦の上着を脱ぎすてた。髪を振り乱し、両手で首の周りをなんどもなんども払いながら部屋の隅まで逃げて行った。
「何ごとですか!」
侍女が扉を開けて駆け込んできた。
「ああ、ムカデかと思ったら、ただの葉でした」
わたしは隠し持っていた枯れた葉を袖口から出すと、姫の錦からさも取り上げたようにして侍女に見せた。乱れた髪を押さえて、目をぱちくりさせた姫がぽかんと口を開けた。
「まったく! 何事が起こったかと肝がつぶれましたわ。大切な姫さまに何かあったら……」
床に脱ぎ捨てられた錦を手に取り、侍女は部屋の隅に固まっている姫の肩にかけると、手を取って元の場所へと連れ戻した。
「お髪を結い直しましょう」
侍女は化粧道具箱を持ってくると、姫の素直な黒髪をいちどほどいて梳いた。侍女に身支度を任せながらも姫は落ち着かなげに、部屋の隅へと下がったわたしをなんども見る。わたしはことさら知らぬふりを決め、姫の長い髪が元のように整えられ、簪でまとめられるのを待った。
「いまお茶とお菓子をお持ちしますね」
侍女が化粧道具箱と共に再び部屋を出ていくと、わたしは笑い声を押しころした。姫はわずかのあいだ顔を真っ赤にしたが、じきに青ざめ薄い唇をゆがめてうつむいた。
「やはりお分かりなのですね……すみませんでした。姫さまを試すようなことをして」
姫は薄い唇を引き結び、両のこぶしを膝の上で固くにぎりしめたままだ。
不意に後悔の念が押し寄せてきた。王族の生まれで、年よりも落ち着いた振る舞いを身につけているとはいえ、まだ十七歳の少女なのだ。わたしはもう笑う気にはなれなかった。
「姫さまが言葉を解することを秘密にされたいのなら、誰にも言いません」
眉を曇らせたまま、姫はわたしのほうへ顔を戻した。言いません、とわたしはもう一度口にした。
「その代わり」
そこで言葉を切ると、姫はびくりと肩をふるわせた。わたしは顔を引き締めた。
「わたくしに姫さまの歌を教えてくださいませんか? 先日歌ってくださったあの美しい歌を。どうか、お願いいたします。ユェジー姫さま」
それからようやくウードを姫の腕へと渡した。ユェジー姫はウードをひたと抱きしめると、かすかに首をいちど傾け、美しい和音を奏でた。
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