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花のかたみ 風のかたみ
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姫さまが両手を広げ、舞い降りてくる。すべてから解き放たれ、頬を輝かせて。
これは白昼夢か。まるで砂丘を走るように、足が進まない。焦る気持ちとは裏腹に、足は重く、前に進まない。
「姫さま!」
どんっと、重く鈍い音が目の前で起き、舞い上がる土煙が視界を遮った。わたしが伸ばした腕は、姫に届かなかった。
まるでその音が合図にでもなったように、城壁の向こうから腹に響く太鼓の音がした。続いて笛が高らかに鳴ったかと思うと、何百何千の鬨(かちどき)の声と共に、東側の門は打ち破られた。
わたしは倒れた姫さまのもとへ、まろぶようにしてたどり着いた。
背後では馬のいななきと蹄が、人を蹴散らす音がした。振り返ると、馬が人の盾を崩し、突入してくるのが見えた。悲鳴と怒号が混じりあう。
ここは危ない、早く姫さまを助けなければ。馬の蹄にかかるか、馬上の兵士に槍で突かれるかだ。
「姫、ユェジー姫!」
姫のひたいは割れ、口や鼻、薄く開いた目から血が流れている。
その姿に息をのむ。
姫さまの、ありえない向きに曲がった腕が微かに動いた。
「なぜ、こんな……」
思わず手を握ると、姫さまはわずかに身をよじった。
最前列の兵士が剣で薙ぎ払われ、倒れるのが見えた。兵士を屠ると、瞬く間に市街地に、伏せた椀状の兜を被った男たちが流れ込んでくる。地面を揺るがし近づく、あまたの足音。
家々から追われ逃げ出す者たちと、非情な兵士とが入り交じり、街路は混乱と酸鼻を極めた。
蹴散らされる砂、刃が激しくぶつかる金属の鋭い音。流れた血で、路面は黒々とぬめり、わずかの間に道は、逃げ場を失い殺された者たちがあふれた。この場から姫を避難させなければ。しかし、姫はわずかも動かせそうにない。
「姫、ユェジー姫」
わたしにも、ほんとうは分かっている。お助けすることも、お守りすることも無駄なのだ。もう……姫さまは……。姫の前髪の先から、血の雫が蒼白いひたいにこぼれる。姫の唇の端がかすかに上がる。
なぜ微笑まれる。
輝くばかりの才を認められることもなく、生まれた国からも、肉親からも遠く離れ、故国に見捨てられ、自ら命を絶つことに悔いはないのか。
「なぜ……」
わたしが手を握るなか、姫はいちど、細く長い息を吐いた。まるで安堵するかのように。
「姫、さま?」
それきり、姫の指から力が失われた。
純白の衣装と大地を深紅に染めて、姫は動きを止めた。
細い指は二度とウードを鳴らさない。しなやかな体は二度と歌を紡がれない。天上の歌声は永遠に失われた。
つんとした横顔、甘いお菓子に伸ばす指先、高く結われる豊かな黒髪。髪に差した花ばなで飾られ、はにかむ笑顔を浮かべていた姫。
尊敬してやまない、わたしのお師匠さま。
まだ、まだわずか十七歳の少女の姫さま。
姫さま、塔にまいりましょう。あなたさまにお見せしたいのです。
あなたの住まうオアシスの美しさを。バザールの賑わい、人びとの暮らしを。
すべてはわたしの、独りよがりの夢だった。姫の心を知ることなく、ただ歌いウードを弾く幸せな日々に溺れていた。
静かに目をつぶる姫の隣で、わたしは肩を落とした。両の目が壊れたのだろうか。涙が止まらない。
涙で歪んだ視界に、剣を振りかざし走り来る兵が見えた。すでに何人も切り捨てたのだろう。返り血で顔も鎧も汚れ、まばたきを忘れた目を見開き、命を奪う狂乱のなかにいる。
わたしには、もう生きる意味がない……。姫の去った世界は意味を失った。
兵士はぎらつくまなこで、通りに座り込むわたしを捉えると、剣の柄を握りなおした。
剣先が朝の光をはじいた。わたしは首を差し出すように体を前に倒し、目をつぶった。
姫さま……いま、参ります。
刹那の後、断末魔とともに覆いかぶさってきた重さに、体を押しつぶされそうになった。
「サーデグ!」
浅い呼吸と共に目を開くと、切り裂かれた兵士をわたしの上からどけるゾランがいた。
「ちくしょう! 自分の義理堅さが嫌になるぜ、前金の残りだ。サーデグ、立て! 姫のお心を無駄にする気か」
ゾランは血のついた剣を構え、次に襲い来る兵を待ち受ける。
わたしは横たわる姫を見つめた。昨夜、姫から託された書状と簪は服の下に納めてあった。
わたしが死んだら、誰が姫の歌を伝える? 誰が姫の歌を歌う?
強ばった体に力を入れて立ち上がる。膝が笑いだす。膝に当てる手もふるえている。けれど、立たなければ。
「潘将軍、潘将軍はいずこに!」
瞬間、剣を交えるゾランが振り返った。自分でも信じられないほど、凛とした声が塔や建物に響いた。
「ユェジー姫が、こちらに」
名前を口にしたとたん、再びわたしの目から涙がとめどなく流れた。
ゾランに突き倒された兵は、わたしの後ろに横たわる人物が誰なのか、ようやく気づいたようだ。姫の亡骸を目の当たりにして、動きを止めた。
ゾランは剣を兵士に向けて、何か強い言葉を発した。東の国の言葉だ。兵士は後ずさるようにして立ちあがり、走り去った。塔の入り口を塞いでいた兵士へ駆け寄り、何かを訴えているようだ。
「親玉が来るぞ」
ゾランは周囲を油断なく見渡し、身構えている。わたしはまた姫の傍らに腰を下ろして、乱れた髪や服の裾を整えた。髪も服も、乾き始めた血のりでごわついていた。
物が割れる音や、悲鳴は絶え間なく続く。通りをあわただしく走る者たちで、乾いた風に土埃は舞い、血の匂いがたちこめる。鳥たちの歌声はもう聞こえない。
ほどなくして、数人の男たちがやって来た。先頭をゆく背の高い男性は、目にも鮮やかな深紅の鎧を身にまとっていた。黒髪を結い上げ、切れ長の瞳には残虐な色はなく、むしろ英知の光をたたえていた。
ゾランは剣を鞘に収め、片膝を折った。それから振り返り、わたしに手を差し出した。
胸の合わせから書状と簪を取り出し、ゾランに託す。それはそのまま、鎧の男性の手に渡った。
歳の頃は、わたしよりもいくつか若いだろうか。精悍な頬はそげ、頬骨が浮き上がって見えた。大きな手、長い指。楽器を操るに相応しい。ひたいから眉のあたりまで、姫さまと驚くほど似ている。
眉間に皴を寄せ、男性は書状に目を通すと、後ろに控えた者に預けた。
「サーデグ殿、か」
はっきりとした声だった。わたしがうなずくと、ゾランとわたしのそばまで歩み寄った。
そして口を引き結び、ひとり旅立った姫を見つめた。
深紅の鎧には、文様が型押しされていた。それは、姫さまの簪とおなじ花の模様だった。もう間違いない。この男が潘将軍だ。
「あなたが姫の兄ぎみか。あなたが弓を射るように命じたのか」
「おいっ……!」
ゾランが、立ち上がったわたしの手首をつかんだ。
「死ぬようにと命じたのは、あなたか!」
潘将軍は、無言でわたしを振り返った。わずかに唇をゆがめ、わたしを見る目からは感情は読み取れなかった。悲しみすら感じさせない潘将軍に、わたしの中で炎が渦巻いた。腹から喉にかけて、焼けるような熱さを感じ、怒りの言葉を続けようとした。
「あなたが」
「……サーデグ殿、妹はあなたに感謝していると」
わたしを見つめ、将軍は穏やかな口調で話した。それから、姫の簪をわたしへと差し出した。戸惑いながらも感謝という言葉に虚を突かれた。簪はわたしの手のうえに乗せられた。
潘将軍はひざまずき、姫さまを両の腕で抱きしめ、ほんの一瞬肩をふるわせた。
「死ね、などと、軽々しく口にできるはずがない……」
将軍は肩の外套を脱ぎ、姫の亡骸にかけた。それを部下に任せず、自ら抱き上げ愛しげに頬を寄せた。
二人の間にどんなにか固い約束が交わされていたのか、知る由もない。けれど、二人にはわたしが知らない深い絆があったのだ。
「これを、これを姫さまに」
わたしは背中からウードを下ろすと、潘将軍へ渡した。将軍はうなずかれ、姫の腕でウードを抱えさせた。
潘将軍は、わたしたちに一礼した。
余計なことは、語らない。そんなところも姫と似ている。わたしの唇から笑いが漏れた。こんな最期を迎えたというのに、姫さまの願いがすべてかなったように感じていた。
泣きながら笑い続けるわたしをゾランは胸に抱き入れた。
「この者たちを陣営に」
潘将軍の声は、どこまでも静かだった。
暖炉の薪がはぜた。
「それから……?」
わたしが問うと、銀の髪の老人は青い目を伏せてウードを軽く鳴らした。
「サーデグは、王と王妃の首が並べられているのを見たと言います。砂漠の宝石と言われたオアシスは、代わりに東の国がその地を治めたとか」
わたしは、旅で見聞きした言い伝えや噂を思い返していた。
「聞いたことがある。ここから遠く離れた砂漠の中に、わずかのあいだだけ繁栄を極めたオアシスがあったとか……たしか玗麗国と呼ばれていた」
老いた楽師は答えず、やがて曲は静かな余韻を残して終わった。
「さあ、今宵はこれまででございます」
わたしは財布のなかから、銀貨を数枚取り出し、楽師への礼とした。近くで同じく歌に聞き入っていた店主が銀貨の多さに目を丸くしたが、すぐ納得したようにうなずいた。
「オアシスが攻め落とされたのは、姫と将軍との企てだったと思うか」
さあ、とだけ楽師は首を傾げた。もしも、嫁ぐ前から兄と妹は、交通の要衝で、富が集まるオアシスを手に入れようとはなから狙っていたなら?
「教えてくれ、サーデグとゾランはその後どうなったのか」
わたしが楽師に詰め寄ったとき、酒場の扉が開いた。
「駄目です、師匠。今夜はどこの酒場も空っぽで、客などいやしません。今日は宿に戻りましょう」
声のするほうを振り返ると、月琴(げっきん)をかかえた艶めく黒髪を腰まで下ろした女性が立っていた。秀でたひたいには金鎖に通した一粒の紅玉を飾り、切れ長の目じりには翠の色を差していた。
ユェジー姫!
まるで今まで聞いていたユェジー姫ではないか。驚くわたしをしり目に、老楽師はゆっくりと腰を上げた。老人の銀の髪には、簪があった。花の透かし模様が刻まれた簪が。
「あら、もしかして『花の簪』を歌われたのですか、珍しい」
ああ、と老人はうなずいた。
「あのかたの衣から、懐かしい香辛料の香りがしたものでね」
わたしは香料や茶葉を扱っている。香辛料を携え、東と西を行き来している。わずかな香りを嗅ぎ取った老人に感服した。
「あの歌はほんとうではないのか? オアシスは東の国が治めた後、二十年くらい前に再び元の玗麗国の血を引く皇子に取り戻されたと聞いたが」
女性と老人は並び立ち、わずかに目配せしあったかと思うと、ウードと月琴を鳴らした。
さてもこれは、遙かな物語
水面にうつる月影
一夜限りに咲く花の香り
彼方から聞こえるざわめき
夜の鐘の音
まぼろしの都への道標
異なる音と歌声は見事にかさなった。細やかな指の運びに、月琴とウードは歓喜にふるえているよう。
ふたりの伸びやかな歌声は、ただひとつの繭から紡がれる金の糸だ。
それは織りなす鮮やかな西域の絨毯を思わせた。
気づくと歌は終わっていた。
おぼつかない足取りで出ていく老人と歌姫を思わず追いかければ、老人は店の外で待っていた老年には見えぬ、がっしりした白髪の男性の腕に抱かれていた。
「師匠の歌を覚えておいてくださいませ、運のよいお方」
歌姫は優美にお辞儀をして、先をゆく二人と肩を並べて夜の闇へと消えていった。
それから数日して、わたしは西の国へと旅立った。
西への道すがら、出会う者たちに玗麗国のことを尋ねた。
けれど、玗麗国のことは、すでに皆の記憶から消えかけていた。王族が取り戻したオアシスは水の流れが変わったことで、棄てられてしまったということだった。
数年後、都へ戻ったわたしは、老楽師の死去を知る。そして、後を継いだのは黒髪の美しい歌姫であるということも。
今もひとり夜の闇に憩うとき、楽師の歌声を思い出す。
嘘か真か、それはもうどうでもよいことだった。
確かに、わたしはあのとき、オアシスの二人を見たのだ。
ならば覚えておこう。たとえ幻であっても。
これは白昼夢か。まるで砂丘を走るように、足が進まない。焦る気持ちとは裏腹に、足は重く、前に進まない。
「姫さま!」
どんっと、重く鈍い音が目の前で起き、舞い上がる土煙が視界を遮った。わたしが伸ばした腕は、姫に届かなかった。
まるでその音が合図にでもなったように、城壁の向こうから腹に響く太鼓の音がした。続いて笛が高らかに鳴ったかと思うと、何百何千の鬨(かちどき)の声と共に、東側の門は打ち破られた。
わたしは倒れた姫さまのもとへ、まろぶようにしてたどり着いた。
背後では馬のいななきと蹄が、人を蹴散らす音がした。振り返ると、馬が人の盾を崩し、突入してくるのが見えた。悲鳴と怒号が混じりあう。
ここは危ない、早く姫さまを助けなければ。馬の蹄にかかるか、馬上の兵士に槍で突かれるかだ。
「姫、ユェジー姫!」
姫のひたいは割れ、口や鼻、薄く開いた目から血が流れている。
その姿に息をのむ。
姫さまの、ありえない向きに曲がった腕が微かに動いた。
「なぜ、こんな……」
思わず手を握ると、姫さまはわずかに身をよじった。
最前列の兵士が剣で薙ぎ払われ、倒れるのが見えた。兵士を屠ると、瞬く間に市街地に、伏せた椀状の兜を被った男たちが流れ込んでくる。地面を揺るがし近づく、あまたの足音。
家々から追われ逃げ出す者たちと、非情な兵士とが入り交じり、街路は混乱と酸鼻を極めた。
蹴散らされる砂、刃が激しくぶつかる金属の鋭い音。流れた血で、路面は黒々とぬめり、わずかの間に道は、逃げ場を失い殺された者たちがあふれた。この場から姫を避難させなければ。しかし、姫はわずかも動かせそうにない。
「姫、ユェジー姫」
わたしにも、ほんとうは分かっている。お助けすることも、お守りすることも無駄なのだ。もう……姫さまは……。姫の前髪の先から、血の雫が蒼白いひたいにこぼれる。姫の唇の端がかすかに上がる。
なぜ微笑まれる。
輝くばかりの才を認められることもなく、生まれた国からも、肉親からも遠く離れ、故国に見捨てられ、自ら命を絶つことに悔いはないのか。
「なぜ……」
わたしが手を握るなか、姫はいちど、細く長い息を吐いた。まるで安堵するかのように。
「姫、さま?」
それきり、姫の指から力が失われた。
純白の衣装と大地を深紅に染めて、姫は動きを止めた。
細い指は二度とウードを鳴らさない。しなやかな体は二度と歌を紡がれない。天上の歌声は永遠に失われた。
つんとした横顔、甘いお菓子に伸ばす指先、高く結われる豊かな黒髪。髪に差した花ばなで飾られ、はにかむ笑顔を浮かべていた姫。
尊敬してやまない、わたしのお師匠さま。
まだ、まだわずか十七歳の少女の姫さま。
姫さま、塔にまいりましょう。あなたさまにお見せしたいのです。
あなたの住まうオアシスの美しさを。バザールの賑わい、人びとの暮らしを。
すべてはわたしの、独りよがりの夢だった。姫の心を知ることなく、ただ歌いウードを弾く幸せな日々に溺れていた。
静かに目をつぶる姫の隣で、わたしは肩を落とした。両の目が壊れたのだろうか。涙が止まらない。
涙で歪んだ視界に、剣を振りかざし走り来る兵が見えた。すでに何人も切り捨てたのだろう。返り血で顔も鎧も汚れ、まばたきを忘れた目を見開き、命を奪う狂乱のなかにいる。
わたしには、もう生きる意味がない……。姫の去った世界は意味を失った。
兵士はぎらつくまなこで、通りに座り込むわたしを捉えると、剣の柄を握りなおした。
剣先が朝の光をはじいた。わたしは首を差し出すように体を前に倒し、目をつぶった。
姫さま……いま、参ります。
刹那の後、断末魔とともに覆いかぶさってきた重さに、体を押しつぶされそうになった。
「サーデグ!」
浅い呼吸と共に目を開くと、切り裂かれた兵士をわたしの上からどけるゾランがいた。
「ちくしょう! 自分の義理堅さが嫌になるぜ、前金の残りだ。サーデグ、立て! 姫のお心を無駄にする気か」
ゾランは血のついた剣を構え、次に襲い来る兵を待ち受ける。
わたしは横たわる姫を見つめた。昨夜、姫から託された書状と簪は服の下に納めてあった。
わたしが死んだら、誰が姫の歌を伝える? 誰が姫の歌を歌う?
強ばった体に力を入れて立ち上がる。膝が笑いだす。膝に当てる手もふるえている。けれど、立たなければ。
「潘将軍、潘将軍はいずこに!」
瞬間、剣を交えるゾランが振り返った。自分でも信じられないほど、凛とした声が塔や建物に響いた。
「ユェジー姫が、こちらに」
名前を口にしたとたん、再びわたしの目から涙がとめどなく流れた。
ゾランに突き倒された兵は、わたしの後ろに横たわる人物が誰なのか、ようやく気づいたようだ。姫の亡骸を目の当たりにして、動きを止めた。
ゾランは剣を兵士に向けて、何か強い言葉を発した。東の国の言葉だ。兵士は後ずさるようにして立ちあがり、走り去った。塔の入り口を塞いでいた兵士へ駆け寄り、何かを訴えているようだ。
「親玉が来るぞ」
ゾランは周囲を油断なく見渡し、身構えている。わたしはまた姫の傍らに腰を下ろして、乱れた髪や服の裾を整えた。髪も服も、乾き始めた血のりでごわついていた。
物が割れる音や、悲鳴は絶え間なく続く。通りをあわただしく走る者たちで、乾いた風に土埃は舞い、血の匂いがたちこめる。鳥たちの歌声はもう聞こえない。
ほどなくして、数人の男たちがやって来た。先頭をゆく背の高い男性は、目にも鮮やかな深紅の鎧を身にまとっていた。黒髪を結い上げ、切れ長の瞳には残虐な色はなく、むしろ英知の光をたたえていた。
ゾランは剣を鞘に収め、片膝を折った。それから振り返り、わたしに手を差し出した。
胸の合わせから書状と簪を取り出し、ゾランに託す。それはそのまま、鎧の男性の手に渡った。
歳の頃は、わたしよりもいくつか若いだろうか。精悍な頬はそげ、頬骨が浮き上がって見えた。大きな手、長い指。楽器を操るに相応しい。ひたいから眉のあたりまで、姫さまと驚くほど似ている。
眉間に皴を寄せ、男性は書状に目を通すと、後ろに控えた者に預けた。
「サーデグ殿、か」
はっきりとした声だった。わたしがうなずくと、ゾランとわたしのそばまで歩み寄った。
そして口を引き結び、ひとり旅立った姫を見つめた。
深紅の鎧には、文様が型押しされていた。それは、姫さまの簪とおなじ花の模様だった。もう間違いない。この男が潘将軍だ。
「あなたが姫の兄ぎみか。あなたが弓を射るように命じたのか」
「おいっ……!」
ゾランが、立ち上がったわたしの手首をつかんだ。
「死ぬようにと命じたのは、あなたか!」
潘将軍は、無言でわたしを振り返った。わずかに唇をゆがめ、わたしを見る目からは感情は読み取れなかった。悲しみすら感じさせない潘将軍に、わたしの中で炎が渦巻いた。腹から喉にかけて、焼けるような熱さを感じ、怒りの言葉を続けようとした。
「あなたが」
「……サーデグ殿、妹はあなたに感謝していると」
わたしを見つめ、将軍は穏やかな口調で話した。それから、姫の簪をわたしへと差し出した。戸惑いながらも感謝という言葉に虚を突かれた。簪はわたしの手のうえに乗せられた。
潘将軍はひざまずき、姫さまを両の腕で抱きしめ、ほんの一瞬肩をふるわせた。
「死ね、などと、軽々しく口にできるはずがない……」
将軍は肩の外套を脱ぎ、姫の亡骸にかけた。それを部下に任せず、自ら抱き上げ愛しげに頬を寄せた。
二人の間にどんなにか固い約束が交わされていたのか、知る由もない。けれど、二人にはわたしが知らない深い絆があったのだ。
「これを、これを姫さまに」
わたしは背中からウードを下ろすと、潘将軍へ渡した。将軍はうなずかれ、姫の腕でウードを抱えさせた。
潘将軍は、わたしたちに一礼した。
余計なことは、語らない。そんなところも姫と似ている。わたしの唇から笑いが漏れた。こんな最期を迎えたというのに、姫さまの願いがすべてかなったように感じていた。
泣きながら笑い続けるわたしをゾランは胸に抱き入れた。
「この者たちを陣営に」
潘将軍の声は、どこまでも静かだった。
暖炉の薪がはぜた。
「それから……?」
わたしが問うと、銀の髪の老人は青い目を伏せてウードを軽く鳴らした。
「サーデグは、王と王妃の首が並べられているのを見たと言います。砂漠の宝石と言われたオアシスは、代わりに東の国がその地を治めたとか」
わたしは、旅で見聞きした言い伝えや噂を思い返していた。
「聞いたことがある。ここから遠く離れた砂漠の中に、わずかのあいだだけ繁栄を極めたオアシスがあったとか……たしか玗麗国と呼ばれていた」
老いた楽師は答えず、やがて曲は静かな余韻を残して終わった。
「さあ、今宵はこれまででございます」
わたしは財布のなかから、銀貨を数枚取り出し、楽師への礼とした。近くで同じく歌に聞き入っていた店主が銀貨の多さに目を丸くしたが、すぐ納得したようにうなずいた。
「オアシスが攻め落とされたのは、姫と将軍との企てだったと思うか」
さあ、とだけ楽師は首を傾げた。もしも、嫁ぐ前から兄と妹は、交通の要衝で、富が集まるオアシスを手に入れようとはなから狙っていたなら?
「教えてくれ、サーデグとゾランはその後どうなったのか」
わたしが楽師に詰め寄ったとき、酒場の扉が開いた。
「駄目です、師匠。今夜はどこの酒場も空っぽで、客などいやしません。今日は宿に戻りましょう」
声のするほうを振り返ると、月琴(げっきん)をかかえた艶めく黒髪を腰まで下ろした女性が立っていた。秀でたひたいには金鎖に通した一粒の紅玉を飾り、切れ長の目じりには翠の色を差していた。
ユェジー姫!
まるで今まで聞いていたユェジー姫ではないか。驚くわたしをしり目に、老楽師はゆっくりと腰を上げた。老人の銀の髪には、簪があった。花の透かし模様が刻まれた簪が。
「あら、もしかして『花の簪』を歌われたのですか、珍しい」
ああ、と老人はうなずいた。
「あのかたの衣から、懐かしい香辛料の香りがしたものでね」
わたしは香料や茶葉を扱っている。香辛料を携え、東と西を行き来している。わずかな香りを嗅ぎ取った老人に感服した。
「あの歌はほんとうではないのか? オアシスは東の国が治めた後、二十年くらい前に再び元の玗麗国の血を引く皇子に取り戻されたと聞いたが」
女性と老人は並び立ち、わずかに目配せしあったかと思うと、ウードと月琴を鳴らした。
さてもこれは、遙かな物語
水面にうつる月影
一夜限りに咲く花の香り
彼方から聞こえるざわめき
夜の鐘の音
まぼろしの都への道標
異なる音と歌声は見事にかさなった。細やかな指の運びに、月琴とウードは歓喜にふるえているよう。
ふたりの伸びやかな歌声は、ただひとつの繭から紡がれる金の糸だ。
それは織りなす鮮やかな西域の絨毯を思わせた。
気づくと歌は終わっていた。
おぼつかない足取りで出ていく老人と歌姫を思わず追いかければ、老人は店の外で待っていた老年には見えぬ、がっしりした白髪の男性の腕に抱かれていた。
「師匠の歌を覚えておいてくださいませ、運のよいお方」
歌姫は優美にお辞儀をして、先をゆく二人と肩を並べて夜の闇へと消えていった。
それから数日して、わたしは西の国へと旅立った。
西への道すがら、出会う者たちに玗麗国のことを尋ねた。
けれど、玗麗国のことは、すでに皆の記憶から消えかけていた。王族が取り戻したオアシスは水の流れが変わったことで、棄てられてしまったということだった。
数年後、都へ戻ったわたしは、老楽師の死去を知る。そして、後を継いだのは黒髪の美しい歌姫であるということも。
今もひとり夜の闇に憩うとき、楽師の歌声を思い出す。
嘘か真か、それはもうどうでもよいことだった。
確かに、わたしはあのとき、オアシスの二人を見たのだ。
ならば覚えておこう。たとえ幻であっても。
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学生時代から付き合っていた王太子のレオンハルト・バルセロナ殿下に、ある日突然、旅先で置き去りにされてしまう。
お忍び旅行で来ていたので、誰も二人の居場所を知らなく、両親のどちらかが亡くなった時にしか発動しないはずの「血の呪縛」魔法を使われた。
お腹には、殿下との子供を宿しているというのに、政略結婚をするため、バレンシア・セレナーデ公爵令嬢が邪魔になったという理由だけで、あっけなく捨てられてしまったのだ。
レオンハルトは当初、バレンシアを置き去りにする意図はなく、すぐに戻ってくるつもりでいた。
でも、王都に戻ったレオンハルトは、そのまま結婚式を挙げさせられることになる。
お相手は隣国の王女アレキサンドラ。
アレキサンドラとレオンハルトは、形式の上だけの夫婦となるが、レオンハルトには心の妻であるバレンシアがいるので、指1本アレキサンドラに触れることはない。
バレンシアガ置き去りにされて、2年が経った頃、白い結婚に不満をあらわにしたアレキサンドラは、ついに、バレンシアとその王子の存在に気付き、ご落胤である王子を手に入れようと画策するが、どれも失敗に終わってしまう。
バレンシアは、前世、京都の餅菓子屋の一人娘として、シンママをしながら子供を育てた経験があり、今世もパティシエとしての腕を生かし、パンに製菓を売り歩く行商になり、王子を育てていく。
せっかくなので、家庭でできる餅菓子レシピを載せることにしました
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