メイストーム

ビター

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 嵐がくる……。
 
 春と言うにはまだ早い。けれど、ここ数日の風は温かい大気をはらみ、かすかに緑の予感を匂わせる。教授の研究室から見るいつもの光景も不思議なほど新鮮に思える。
 ゆたかゆたかは教授がいれたお茶を飲みながら、外を眺めた。
「それで、引っ越しはすんだわけかい?」
 銀髪と見まごうばかりの白髪に、べっ甲ぶちの眼鏡。心理学が専門の相馬教授は、お茶をいれる達人でもある。
「はい、先週。ようやく荷物も全部片づけたところです」
「まあ手頃な物件があってよかった。ここからも近いし」
 ええ、と雄高は頷いた。3LDKのマンションの家賃は、同居人と折半。個室もそれぞれちゃんとある。雄高の職場に近い場所を選んだのは、雄高が運転免許を持っていないことにある。通勤はいまだにクロスバイクを愛用しているから、車で通勤できる同居人が譲歩したのだ。
「長かったねえ。あの史彦くんがよく待っていてくれたもんだ」
 教授の言葉につい笑ってしまった。短気で、怒りっぽくて、嫉妬深くて、涙もろい史彦。雄高は、そんな史彦を愛しく思ってる。誰よりも。
「そういえば、あいつ今日は大学に来るって言ってました」
「どこの課のコンピュータのメンテ?」
「図書館だったはずです。あそこ、年末に機種の交換とデータの乗せ代えをしたから……」
 と、廊下に派手な足音が響いたかと思うと、研究室の引き戸が勢いよく開けられた。
「雄高っっ!」
 ノックもせずに、飛び込んで来たのは、怒りの形相の史彦だった。背中までの長い髪は乱れ、ハーフコートの肩がずれ、襟も裏返しになっている。こんな格好で図書館のある西の端からここまでかけてきたらしい。史彦らしいといえば、史彦らしいが、教授に対してはもう少し礼儀正しくなってほしいものだと、呆れながらも雄高は思った。
「おお、史彦くん久しぶりだね」
 無言で教授を睨むと、史彦は右手に握っていたものを雄高に突きつけた。
「これっ! どーゆーコトだよ!」
「ああ、学生が出している新聞……」
 教授が史彦の分のお茶もいれながら返事をすると、史彦はタブロイド判のその新聞の記事を指でさした。
「雄高、説明しろ!」
 見出しは読まなくても知っている。雄高は優しく史彦を諭そうとした。
「なんだよ、この『疑惑 碓氷講師は相馬教授のお気に入り?』ってーのはっ!」
「そりゃ、ホントだよ。史彦くん」
 にっこりと笑いながら教授はお茶を史彦に差し出した。史彦は一重の眼を堅くつぶり、髪をかきむしった。
「やっぱり、やっぱりそーだったんだな! ずっと怪しいと思ってたんだ。やっぱり浮気してたんだ!」
「……落ち着けよ、史彦」
「ずっと俺をだましやがって、俺は、俺は実家に帰るっ!」
「うーん、夫婦の会話っぽくていいな」
 だから、教授そう言ってあおらないで下さいと雄高は目眩を覚えた。まずは史彦を落ち着かせなければ。
「発行の日付見ろよ」
 雄高のわざと押さえた冷たい声に、史彦はびくりとして新聞を凝視した。
「四月……一日だよ、これがどうしたってんだよ」
「そう、四月一日」
 右上方に視線を漂わせて考えている史彦の手から新聞を取ると、雄高は一面を広げた。
「エイプリル・フール……?」
「そう。毎年学生が、新入生向けに発行している冗談なの」
 一面のトップは、雄高と教授が肩を寄せ合っている写真。もっともそれは、研究室での何げないひとこまをゼミ生が撮影したものだ。ふたりっきりに見えるが、じつは周囲には学生が三四人いた。
「雄高くんの写りがいいだろう? 僕が選んだだけある」
 満足げに教授が何度も頷く。それでも史彦はまだ合点がいかないのか、教授を睨んでいる。雄高はため息をついてから説明した。
「まあ、大学全体のお遊びだよ。ほかの記事は読まなかったのか? ほら、『宮本工学部教授がM大のY教授と夜の街で場外乱闘?』とか『箱山助教授の人に言えないコレクション』とか、いかにもウソっぽいタイトルばかりじゃないか」
 ご丁寧にどれもこれも写真入り。それもみなが協力している証拠だ。新学年の講義の選択に少しでも役立ててもらおうとの意味を込めて……でも、かなり悪乗りしている。
「雄高くんは今年から講義を持つだろう? たくさんの学生に集まってほしくてね~トップにしてもらったんだよ。いや、ここまで本気にしてくれると嬉しいなあ」
 教授は見事にひっかかった史彦を愉快そうに眺めた。史彦は色白の顔を赤らめ、恨みがましく雄高を見つめた。
「ほんと、落ち着きがないよな史彦……。そんなものどこから手に入れたんだよ」
「図書館でもらったんだよ」
 雄高は史彦にお茶を渡した。子どものように唇をとがらせて史彦が言った。
「図書館の……あの若いヤツ。黒縁眼鏡の」
「佐野?」
「そいつ」
 雄高と教授は目を合わせてふたりで頷いた。今年になってから採用された、図書館司書の佐野の風貌を雄高は思い出していた。
 中肉中背で、ぼさぼさの髪。いまどきはやらない黒縁にレンズの厚い眼鏡をかけた佐野は、二度目の米留学を終えて帰国し、大学に採用された。
「トラブルメーカーってヤツなのかね、彼は」
「自覚はないとおもいますよ、きっと」
「まあ、学生のときからあの調子だったからな、彼の場合」
 と、教授にしてはめずらしくため息をつきながら、お茶をすすった。史彦は喉が渇いていたらしく、お茶を一気に飲むと二杯目を遠慮なく教授に要求した。
「ここの卒業生?」
「そう、一昨年の卒業生。でも、一浪して途中留学もしてたから年齢は俺たちとさほど変わらないはずだよ」
 お代わりのお茶をいれてもらった史彦は、雄高の言葉に耳をかたむけながら、今度はゆっくりと飲んだ。
「じゃあ、違うんだな……ホントに嘘なんだな、雄高」
 史彦が俯いたままぽつりと言った。たぶん、今史彦は自分の嫉妬深さに恥じ入っているはずだ。それがストレートに雄高に伝わり、口元がゆるむ。
「あたりまえだよ、史彦」
 雄高は肩に手をのばして襟をなおしてやった。頬を染めた史彦が上目使いに雄高を見つめると、そのまま雄高の頬に軽く口づけ、入り口へダッシュで駆け出した。
「教授、お茶をごちそうさまでした! じゃあまた」
 雄高の手にカップを残して史彦は去っていった。雄高は半ば呆れながらも、史彦の姿を窓から追った。あたふたと、正門へ駆けて行く史彦の揺れる長い髪が、ポプラのすきまから少しだけ見えた。
「台風みたいだね」
「すみません……ご迷惑おかけしました」
 気にしなくていいよ、と教授は手のひらを振って見せた。史彦のいきなりさは、初対面の時から教授は知っている。それに感謝しながら、雄高はもう一度新聞を見た。
「僕の講義に学生が来てくれるでしょうか?」
「大丈夫。絶対に殺到するね、賭けてもいい。きっと女子学生であふれる」
 教授は自信たっぷりで答えた。そのほほ笑みに雄高は少しだけ不安を消す。
「婦女子は美しい同性愛者に寛容だよ」
 一言多いです教授、と雄高はがくりと肩を落とした。
                                     
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