3 / 36
春の章
コーヒーとチーズケーキ
しおりを挟む
テーブルに、チーズケーキとコーヒーが二つずつ。
五月の最終週にケアマネの訪問があり、担当の太田が風の前に座っている。リビングダイニングと寝室を仕切る引戸は閉まったままだ。
「謹吾さん、この頃のご様子はいかがですか」
ショートカットの髪型に、黒目がちの瞳とすっきりした鼻すじ。人に威圧感を与えないナチュラルなメイク。ケアマネの太田は柔和な笑顔を見せている。
「実は、今朝トイレを失敗しました。それが、相当ショックみたいで」
朝から風はトイレ掃除をして、おじいをシャワーに入れた。おじいは現在朝食もとらず、寝室の引戸を全部閉めてベッドに横になっている。
「いつも紙パンツですよね。でも、謹吾さんくらいの年齢でならしっかりているほうですし、ふだんあれだけ動けているのは、奇跡ですよ」
「そうですね。自分でも、いまはギリギリのバランスで家が回っていると思います」
おじいは七月がくれば101歳になる。自力で歩けるだけでも、奇跡のようなものなのだ。いつかこの生活が崩れたら、ホームヘルパーを頼むか、あるいは施設に入所というのも考えなければならない。
「デイサービスへは、行きたがりませんか?」
「家にいるのが、いいみたいで。たまに曾孫がくるしー……」
「おためしもダメですか?」
「本人、全力拒否です」
ほんとは、週に一回でも行ってもらったらいいと思うのだが、おじいは断固拒否だ。
そうですか、と少しがっかりした様子で太田はメモを取った。
「でも、ほんと風さんは、まめですね。きちんとノートに記録もしていて」
毎晩、寝る前に書いている風のノートを太田は感心してページを繰っている。
「ふだんの食事でも、デザートまで作るんですね」
「親戚の子が金曜日に来るので。おじー……祖父と二人の時にはたまにしか作りませんよ」
茉莉花が楽しみにしているので、作らないわけにはいかない。季節に合わせて、また、おじいが食べやすいようなものをと、毎回知恵を絞る。そのため、ネットを活用している。
「風さん、あまり無理をしないでくださいね。なんでしたら、謹吾さんを預けられるショートステイ先も契約済みなわけですから」
はい、と風はうなずいた。
「それで、ですね。これはわたし独自の活動と思ってください。頑張っている風さんに、ご褒美を差し上げたくて」
と、太田は隣の椅子にのせた大判の鞄を探りだした。
ご褒美と聞いて、少しそわそわして待った風の前に、太田は得意気な顔でそれを見せた。
小学生のときによく見た、桜の花の中にデザインされた、たいへんよくできましたのスタンプだ。「押してもよろしいですか?」
と、聞いてくるが、もう目がキラキラしている。
「は、はい」
許可を得ると目を煌めかせ、太田はノートの端にスタンプをついた。
「ありがとうございます」
太田が頭を深々と下げた。
「風さん、介護でも介護以外でも、困り事があったなら、ひとりで抱えず周囲の人に相談して下さい。わたし以外でも区長さんでも、民生委員さんでも」
はあ、と風は返事をしたが、区長や民生委員が誰でどこにいるかも知らない。
おじいの子どもで存命かつ力になれそうなのは、風の父親の凪くらいだが、凪はなんというかあまりに頼りない。いつも妻の夏樹に押されっぱなしだ。
「段差がなくても、転倒にはご注意ください」
怖いのは、転倒と誤嚥。感染症も怖い。
怖いものだらけだ。
「あの、この【竜】って何でしょう?」
ノートの隅に書かれた、竜の文字を太田は指差した。5月20日のページに書かれた文字を見て、書いた本人も体が一瞬固まる。
「ただの落書きです。これはぼく独自の活動です、チーズケーキ、どうぞ」
風は太田に手製のケーキをすすめた。
太田が帰ってから、風はおじいのベッドの傍らに座った。
「わたしは、わたしが怖い。風、わたしは同じことを何度も聞いたりしていないか? 物忘れがひどくないか?」
「大丈夫だよ、おじい。そんなことはしてないから。年相応っていったら、おじいはがっかりするかもだけど、自然なことなんだよ」
ベッドで毛布を頭からかぶっているおじいに、風は静かに話しかけた。
いつだったか、テレビで見た。認知症になった一人暮らしのひとが部屋の壁中にメモを貼り付けていたのを。忘れまい、忘れまいと、幾千にも見えるほどメモを書いて貼りつけていた。
いつか、自分もそんな光景を目の当たりにするんだろうか。あるいは、自分がするのだろうか。
「おまえに迷惑をかけたくない。ダメになったら、すぐに施設に入れてくれ。そうじゃなかったら、どこかへ捨ててくれ」
いつに無く、気弱になっている。
「茉莉花を怖がらせたくないんだ」
思わず風は毛布ごと、おじいを抱きしめた。
ぼくだって、怖い。いつ、なんどきこの生活が一変するか分からない。おじいが転んで骨折したら、食事をのどに詰まらせたら、それとも、いきなり話がつうじなくなったら。
不安ばかりが押し寄せて、時々眠れない時もある。
高校の化学の教師だったおじい。きっとプライドも相応に高いだろう。紙パンツをはいているだけで、プライドが削られるだろう。情けなく思うだろう。
この家に同居することを決めてから、いつか必ずやってくるお別れについても、何度も考える。
でもそれでは考えが及ばなかった。誰しも【死ぬまでは生きている】のだ。
今日はまだ、その時ではない。
「おじい、ご飯たべよう。中華がゆ、炊いてあるから」
風の腕の中で、おじいがうなずいたのが分かった。もぞもぞと、おじいは毛布から顔を出した。
「風、おとといわたしが寝ているときに、竜幸が来ただろう」
風はおじいが体を起こすのを手伝った。手伝っているあいだ、風は口をつぐんていた。
「来たよ」
ああ、とおじいは右手で顔を半分隠した。
五月の最終週にケアマネの訪問があり、担当の太田が風の前に座っている。リビングダイニングと寝室を仕切る引戸は閉まったままだ。
「謹吾さん、この頃のご様子はいかがですか」
ショートカットの髪型に、黒目がちの瞳とすっきりした鼻すじ。人に威圧感を与えないナチュラルなメイク。ケアマネの太田は柔和な笑顔を見せている。
「実は、今朝トイレを失敗しました。それが、相当ショックみたいで」
朝から風はトイレ掃除をして、おじいをシャワーに入れた。おじいは現在朝食もとらず、寝室の引戸を全部閉めてベッドに横になっている。
「いつも紙パンツですよね。でも、謹吾さんくらいの年齢でならしっかりているほうですし、ふだんあれだけ動けているのは、奇跡ですよ」
「そうですね。自分でも、いまはギリギリのバランスで家が回っていると思います」
おじいは七月がくれば101歳になる。自力で歩けるだけでも、奇跡のようなものなのだ。いつかこの生活が崩れたら、ホームヘルパーを頼むか、あるいは施設に入所というのも考えなければならない。
「デイサービスへは、行きたがりませんか?」
「家にいるのが、いいみたいで。たまに曾孫がくるしー……」
「おためしもダメですか?」
「本人、全力拒否です」
ほんとは、週に一回でも行ってもらったらいいと思うのだが、おじいは断固拒否だ。
そうですか、と少しがっかりした様子で太田はメモを取った。
「でも、ほんと風さんは、まめですね。きちんとノートに記録もしていて」
毎晩、寝る前に書いている風のノートを太田は感心してページを繰っている。
「ふだんの食事でも、デザートまで作るんですね」
「親戚の子が金曜日に来るので。おじー……祖父と二人の時にはたまにしか作りませんよ」
茉莉花が楽しみにしているので、作らないわけにはいかない。季節に合わせて、また、おじいが食べやすいようなものをと、毎回知恵を絞る。そのため、ネットを活用している。
「風さん、あまり無理をしないでくださいね。なんでしたら、謹吾さんを預けられるショートステイ先も契約済みなわけですから」
はい、と風はうなずいた。
「それで、ですね。これはわたし独自の活動と思ってください。頑張っている風さんに、ご褒美を差し上げたくて」
と、太田は隣の椅子にのせた大判の鞄を探りだした。
ご褒美と聞いて、少しそわそわして待った風の前に、太田は得意気な顔でそれを見せた。
小学生のときによく見た、桜の花の中にデザインされた、たいへんよくできましたのスタンプだ。「押してもよろしいですか?」
と、聞いてくるが、もう目がキラキラしている。
「は、はい」
許可を得ると目を煌めかせ、太田はノートの端にスタンプをついた。
「ありがとうございます」
太田が頭を深々と下げた。
「風さん、介護でも介護以外でも、困り事があったなら、ひとりで抱えず周囲の人に相談して下さい。わたし以外でも区長さんでも、民生委員さんでも」
はあ、と風は返事をしたが、区長や民生委員が誰でどこにいるかも知らない。
おじいの子どもで存命かつ力になれそうなのは、風の父親の凪くらいだが、凪はなんというかあまりに頼りない。いつも妻の夏樹に押されっぱなしだ。
「段差がなくても、転倒にはご注意ください」
怖いのは、転倒と誤嚥。感染症も怖い。
怖いものだらけだ。
「あの、この【竜】って何でしょう?」
ノートの隅に書かれた、竜の文字を太田は指差した。5月20日のページに書かれた文字を見て、書いた本人も体が一瞬固まる。
「ただの落書きです。これはぼく独自の活動です、チーズケーキ、どうぞ」
風は太田に手製のケーキをすすめた。
太田が帰ってから、風はおじいのベッドの傍らに座った。
「わたしは、わたしが怖い。風、わたしは同じことを何度も聞いたりしていないか? 物忘れがひどくないか?」
「大丈夫だよ、おじい。そんなことはしてないから。年相応っていったら、おじいはがっかりするかもだけど、自然なことなんだよ」
ベッドで毛布を頭からかぶっているおじいに、風は静かに話しかけた。
いつだったか、テレビで見た。認知症になった一人暮らしのひとが部屋の壁中にメモを貼り付けていたのを。忘れまい、忘れまいと、幾千にも見えるほどメモを書いて貼りつけていた。
いつか、自分もそんな光景を目の当たりにするんだろうか。あるいは、自分がするのだろうか。
「おまえに迷惑をかけたくない。ダメになったら、すぐに施設に入れてくれ。そうじゃなかったら、どこかへ捨ててくれ」
いつに無く、気弱になっている。
「茉莉花を怖がらせたくないんだ」
思わず風は毛布ごと、おじいを抱きしめた。
ぼくだって、怖い。いつ、なんどきこの生活が一変するか分からない。おじいが転んで骨折したら、食事をのどに詰まらせたら、それとも、いきなり話がつうじなくなったら。
不安ばかりが押し寄せて、時々眠れない時もある。
高校の化学の教師だったおじい。きっとプライドも相応に高いだろう。紙パンツをはいているだけで、プライドが削られるだろう。情けなく思うだろう。
この家に同居することを決めてから、いつか必ずやってくるお別れについても、何度も考える。
でもそれでは考えが及ばなかった。誰しも【死ぬまでは生きている】のだ。
今日はまだ、その時ではない。
「おじい、ご飯たべよう。中華がゆ、炊いてあるから」
風の腕の中で、おじいがうなずいたのが分かった。もぞもぞと、おじいは毛布から顔を出した。
「風、おとといわたしが寝ているときに、竜幸が来ただろう」
風はおじいが体を起こすのを手伝った。手伝っているあいだ、風は口をつぐんていた。
「来たよ」
ああ、とおじいは右手で顔を半分隠した。
11
あなたにおすすめの小説
下宿屋 東風荘 7
浅井 ことは
キャラ文芸
☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆*:..☆
四つの巻物と本の解読で段々と力を身につけだした雪翔。
狐の国で保護されながら、五つ目の巻物を持つ九堂の居所をつかみ、自身を鍵とする場所に辿り着けるのか!
四社の狐に天狐が大集結。
第七弾始動!
☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆*:..☆
表紙の無断使用は固くお断りさせて頂いております。
レオナルド先生創世記
ポルネス・フリューゲル
ファンタジー
ビッグバーンを皮切りに宇宙が誕生し、やがて展開された宇宙の背景をユーモアたっぷりにとてもこっけいなジャック・レオナルド氏のサプライズの幕開け、幕開け!
別れし夫婦の御定書(おさだめがき)
佐倉 蘭
歴史・時代
★第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★
嫡男を産めぬがゆえに、姑の策略で南町奉行所の例繰方与力・進藤 又十蔵と離縁させられた与岐(よき)。
離縁後、生家の父の猛反対を押し切って生まれ育った八丁堀の組屋敷を出ると、小伝馬町の仕舞屋に居を定めて一人暮らしを始めた。
月日は流れ、姑の思惑どおり後妻が嫡男を産み、婚家に置いてきた娘は二人とも無事与力の御家に嫁いだ。
おのれに起こったことは綺麗さっぱり水に流した与岐は、今では女だてらに離縁を望む町家の女房たちの代わりに亭主どもから去り状(三行半)をもぎ取るなどをする「公事師(くじし)」の生業(なりわい)をして生計を立てていた。
されどもある日突然、与岐の仕舞屋にとっくの昔に離縁したはずの元夫・又十蔵が転がり込んできて——
※「今宵は遣らずの雨」「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」「大江戸の番人 〜吉原髪切り捕物帖〜」にうっすらと関連したお話ですが単独でお読みいただけます。
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
結婚相手は、初恋相手~一途な恋の手ほどき~
馬村 はくあ
ライト文芸
「久しぶりだね、ちとせちゃん」
入社した会社の社長に
息子と結婚するように言われて
「ま、なぶくん……」
指示された家で出迎えてくれたのは
ずっとずっと好きだった初恋相手だった。
◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌
ちょっぴり照れ屋な新人保険師
鈴野 ちとせ -Chitose Suzuno-
×
俺様なイケメン副社長
遊佐 学 -Manabu Yusa-
◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌
「これからよろくね、ちとせ」
ずっと人生を諦めてたちとせにとって
これは好きな人と幸せになれる
大大大チャンス到来!
「結婚したい人ができたら、いつでも離婚してあげるから」
この先には幸せな未来しかないと思っていたのに。
「感謝してるよ、ちとせのおかげで俺の将来も安泰だ」
自分の立場しか考えてなくて
いつだってそこに愛はないんだと
覚悟して臨んだ結婚生活
「お前の頭にあいつがいるのが、ムカつく」
「あいつと仲良くするのはやめろ」
「違わねぇんだよ。俺のことだけ見てろよ」
好きじゃないって言うくせに
いつだって、強引で、惑わせてくる。
「かわいい、ちとせ」
溺れる日はすぐそこかもしれない
◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌
俺様なイケメン副社長と
そんな彼がずっとすきなウブな女の子
愛が本物になる日は……
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
光のもとで2
葉野りるは
青春
一年の療養を経て高校へ入学した翠葉は「高校一年」という濃厚な時間を過ごし、
新たな気持ちで新学期を迎える。
好きな人と両思いにはなれたけれど、だからといって順風満帆にいくわけではないみたい。
少し環境が変わっただけで会う機会は減ってしまったし、気持ちがすれ違うことも多々。
それでも、同じ時間を過ごし共に歩めることに感謝を……。
この世界には当たり前のことなどひとつもなく、あるのは光のような奇跡だけだから。
何か問題が起きたとしても、一つひとつ乗り越えて行きたい――
(10万文字を一冊として、文庫本10冊ほどの長さです)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる