時の舟と風の手跡

ビター

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夏の章

海風とサンドイッチ

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 六月は、金曜日に茉莉花が来ないまま過ぎていく。庭のアジサイが一雨ごとに色を変えていく。梅雨の晴れ間、とはいえ空のどこかには灰色の重い雲が浮かんでいる。
 それでも雨が降らないのはありがたいことだ。風は縁側の籐椅子に座るおじいの足の爪を切っていた。
「いつくるかわからないタツユキに気をもんでもしかないな」
 おじいの爪は厚く堅い。ふつうの爪切りではなく、ニッパーのような爪切りを風は使っている。
「そうやって、こっちをやきもきさせるのも、作戦のうちかもしれないね」
 タツユキは人心掌握のプロだ。そしてペテン師だ。
 これまで犯罪すれすれのことを何度も行っている。ヤクザとまでは言わないが、やっかいな人間だ。
「風、車を出して貰えるか」
 めずらしくおじいが外出を願い出た。
「午後からでもいいかな。それまでに仕事終わらせられそうだし、お昼を食べてからでかけよう。どこ行きたい?」
「海まで」
 わかった、と風はうなずいた。爪を切ったおじいに靴下をはかせる。手を洗ったら、仕事を始めよう。

 昼さがり、風はおじいを車に乗せた。
「今日は雨が降らないようだね」
 カーラジオから流れる天気予報を聞きながら、風はおじいに話しかけた。おじいには半そでシャツに薄いニットのカーディガンを着せた。膝に子供用の毛布をかける。風はミントグリーンの綿シャツだ。車内を冷やし過ぎないようにして、海へ向かう。
「車に乗ってどこかに行くのは、ひさしぶりだな」
「デイサービスへ通うなら、毎週車に乗れる」
 それとなくデイサービスのことを風は出してみた。
「あんなところ、行けるか。まわりは若造だらけじゃないか」
 百歳のおじいからすれば、七十・八十なぞ若造でしかないのだろう。風は思わず吹き出した。
「童謡歌わされたり、塗り絵や折り紙させられたり。だいの大人がやっていられるか」
 施設の職員さんが、知恵を絞って考えたプログラムもおじいからすれば、面白くないらしい。プライドが高いままなのも、大変だ。弱っていく自分との折り合いがつけられないのかもしれないと風は思う。
「高速使うから。トイレ行きたいときには、早めに言って。サービスエリアが近くなったら声かけるけど」
 わかった、わかったと鷹揚に手をふって、おじいは応えると目をつぶった。

 海までは、一時間程度だ。車での移動は風も同じく久しぶりで、日ごろはおじいと二人きりの暮らしで変化がないから、ありふれた景色も目に新しい。山肌、その斜面にぽつんぽつんと建つ昔ながらの農家や、段々畑と田んぼ。山を貫くトンネルに入るときの小さな緊張感も心地よい。
 カーラジオは山の中を抜ける間、受信状況がわるくなる。一番受信状態がよい局に変えて、風はハンドルを握った。
 ときどき、知っている曲がかかる。風は曲に合わせて鼻歌をうたった。竜幸が来てから、胸に重く沈んでいた塊が徐々にとけていくような気がした。海へ近づくほど、空が晴れてきた。助手席のおじいは、軽くいびきをかいていた。
 海に近い道の駅の駐車場に車を停めた。平日だが、駐車場は半分ほど埋まっていた。
「ついたよ」
 声をかけられ、おじいはゆっくり目を覚ました。風は車から降りて、背伸びをした。海のにおいがする。カモメがカラスに混じって飛んでいる。
 空は雲がなく、ほんとうの梅雨の晴れ間に変わっていた。風は助手席側へまわり、ドアを開けておじいが車から降りるのを手伝った。
「海風だな」
 おじいは杖をついて、目をつぶり顎を上げてしばらく動かなかった。
「歩ける? 砂浜まで行く?」
 おじいがうなずいたので、風はハッチバックを開け折り畳み椅子が入った袋を肩に担いだ。おじいの杖の反対側を一緒に歩く。防潮堤をくぐると、すぐに砂浜が広がっている。海岸線をなぞるように松林が左右に続いている。
 六月の海さすがに泳いでいる姿は見られなかったが、サーフィンをしているグループがいた。波を求めて海岸から離れ、波に乗る。浜辺を犬と散歩する老夫婦、凧揚げをする少年と母親がそれぞれに時間を楽しんでいる。
 風は折り畳み式のディレクターズチェアを広げて、おじいを座らせた。
「コーヒー、飲む?」
 おじいがうなずいたので、風は車からバスケットを持っておじいのところへ戻った。バスケットに準備していたボトルからコーヒーを注ぐと、ひじ掛けのカップホルダーへコーヒーカップをセットする。おじいは海を見つめたままだ。
「おじい、サングラスかけて」
 目を保護するために、おじいにはサングラスをかけさせる。それから夏用の帽子も頭にのせる。そんな恰好にすると、おじいは竜幸とよく似ている。皮肉にも、竜幸は親戚の中でもいちばんおじいに似ている。
「どこかのマフィアみたいだね」
「まさか、紙パンツをはいているとは思うまいよ」
 おじいがニヤリと笑い、二人して笑ってしまう。おじいは分かっている。自分の体のことを。排泄を失敗してしまうこともあるし、誰かの手を煩わせてしまうといことも。受け入れていないわけじゃない、そんな自分を。
 風もおじいの隣に椅子を開いて座り、ふたりして海を見つめてコーヒーをすすった。
「サンドイッチ、食べる?」
 時間は小腹がすく時刻になっていた。風は昼食を作るついでに、サンドイッチを準備してきた。食パン八枚切りを四等分にした小さな正方形のサンドイッチだ。タッパーウェアの中に、サンドイッチは整然と詰められている。冷蔵庫にあるもので作ったので、種類はさほど多くはない。ゆで卵、ツナ、トマトとチーズ、マーマレードの四種類だけだったが。
「かわいいサイズだな」
 おじいはゆで卵のフィリングを選んだ。風は、トマトとチーズのをつまむ。海には何度も波に挑むサーファー幾人か。
「海軍だったからな」
 サンドイッチを三つほど食べ終えたおじいが口を開いた。
「海にはいい思い出より、忘れてしまいたいことが多いよ」
 海軍兵学校卒業から訓練もそこそこに戦艦に乗って、戦地へ送り込まれた。おじいの戦友のほとんどが海で亡くなったことは、以前聞いたことがある。
「海ゆかば……」
「水漬くかばね 山ゆかば 草生むすかばね
 風が続けて詩をそらんじる。おじいは目をつぶり小さくうなずく。
「風は、国文科へ行くべきだったな。経済学部じゃなく」
 そうかも知れない。もしそうだったら、証券会社へ就職することも、そこで心身をすり減らすこともなかっただろう。
「魚雷かぶつかって船が二つに折れた。真夜中に空を焦がすような火の手があがった。海は油のように見えた」
 そこからまたしばらく二人は口を閉ざした。おじいが見た戦地は、歌でうたわれるようなきれいな整ったものではなかったのだ。おじいは戦争体験をあまり口にしたことはない。おそらくは、胸に秘めたままいくつもりなのだろう。
 日が陰ってきたせいか、サーファーたちは一人二人と海から上がってきた。
「戦争は、駄目だ。なにもいいことなんてないぞ、風」
 手を貸せ、とおじいは風に声をかけた。おじいは砂浜に立ち上がると、帽子を胸に当て頭を静かに垂れた。夕日がおじいの小さく丸まった肩を照らす。
「みんな逝ってしまった。わたしだけが残された」
 長く生きることは、罰のようだ。と、おじいはつぶやいた。
「ちがうよ。おじいといられて、ぼくは嬉しいよ」
 風は、おじいの肩を抱いた。じき海風が陸風にかわってゆく時間を迎える。

 
 
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