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冬の章
失恋のトライフル
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二月中旬日曜日。主不在のおじい宅には、いつものようにテーブルにテキストを広げて自習する茉莉花がいた。
風はキッチンで調理しているし、竜幸はおじいの籐椅子が定位置になり、スマホをいじっている。
そして、なんとなくみんな口をつぐんだままで、どこか緊張感が漂う。そのピリピリした空気感に耐え切れなくなったように、竜幸が茉莉花の後ろをそっと通って風のところまで移動してきた。
竜幸は風の袖を引くと二人してしゃがむと、声をひそめて風に尋ねた。
「な、どうだったんだ、茉莉花ちゃん」
「……ご覧のとおりですよ」
風は立ち上がりコーヒーゼリーを琺瑯のバットに流して冷蔵庫へ入れた。
「あんなに可愛い子を、袖にするのか」
竜幸は心底驚いたと言わんばかりに、キッチンの床に座り込んでうつむいた。
茉莉花の恋は昨日砕け散った。さんざん練習したチョコレートブラウニーのなかでも一番出来の良かったものをセロファンの小袋に一つずつ入れた。さらに半透明のポリエチレンの袋に数個入れると可愛いリボンで口を閉じて贈り物を整えた。
頬を赤く染め、緊張した面持ちでプレゼントを準備した茉莉花を間近で見ていただけに、風も茉莉花の落胆ぶりに胸が痛い。
茉莉花はワークをするでなし、さっきからシャーペンが止まったままだし、ときどき目をこすっては鼻をかんでいる。こんどの週の半ばからは三学期の期末テストがあると聞いたが、うわの空だ。
試作品のチョコレートブラウニーは、風も凪も竜幸もさんざん食べた。なんなら、今もまだ少し残っている。
「先輩、彼女がいたんだってさ」
いつぞやの花火大会で合流した他校の女子だったらしい。風は卵黄とグラニュー糖を小鍋でよく混ぜると、小麦粉も混ぜ込んだ。
「風は何を作っているんだ。こんなときに」
「こんなときだから」
小鍋を弱火にかけると、メジャーカップに入れた温めた牛乳を少しずつ加えてよく混ぜていく。じき、とろりとしたカスタードクリームが出来上がる。バニラエッセンスを数滴入れると、なんだか本格的になる。
「よし」
風はひとつ息を吐くと、次はボウルと電動の泡立て器を取り出して生クリームをホイップする準備をした。
「風、おまえなんでそんなにお菓子が作れるんだ」
「姉ちゃんがお菓子を作るときに、さんざん巻き込まれたからかな」
風の二つ年上の姉、千歳は活発な性格で、正確な計量が必須の菓子作りはあまり得意ではなかった。初めてクッキーを作ったときに、砂糖と塩を取り違えるというベタな間違いをしたあと、風をアシスタントにした。弟は姉に逆らえないもので、そのままなし崩し的に菓子作りを手伝わされた。
「風」
「なに?」
「ほんと、カフェやらないか。いい物件紹介する」
竜幸が真剣な顔で言うのを、風は眉間にしわを寄せ、思いっきりイヤな顔をしてみせた。やるわけがない、カフェなんて。素人の料理で経営が成り立つほど、飲食業はかんたんじゃない。
だいたいにして、飲食店は開店から二年ほどで店を畳むのが半数以上だとか。気楽にやりますーなんて、手は出せない。
つのが立つくらいにホイップした生クリームは冷蔵庫で出番まで冷やしておく。
「お昼は、パスタですけど。食べていきますか」
「食べるよ」
ほんと、竜幸は茉莉花にかこつけて毎週食事をしに来ているだけのような気がする、と風は思った。竜幸なりに気を遣ってなのか、食材を差し入れてくれたりはするが。
風はシンクの下からパスタを茹でる大き目の鍋を引っ張り出す。とりあえず、パスタは三人前茹でようと思っていたら、玄関が開く音がした。
「風、お昼食べさせてくれ」
なぜか父の凪までやってきた。風はパスタの量を一人分増やした。
きのこがたっぷり入った和風パスタを食べ終えるころ、茉莉花が風親子と竜幸に頭をさげた。
「ごめんなさい、みんなにさんざん協力してもらったけど、ダメでした」
頭を下げたまま、茉莉花は目をこすった。最後は涙声だ。
「そんな、気にすることないよ。チョコレートブラウニー、美味しかったし」
風が隣に座る茉莉花に言うと、向かいにすわる凪と竜幸がぶんぶんと頭を上下に何度も振る。
「だって、凪おじさんにもタツユキさんにも、材料何回も買ってもらったし、ふうちゃんには作るのに付き合ってもらったのに」
「いいって、いいって」
竜幸が言うと、凪も風も、そうそうと首を縦に振る。
「竜幸さんは、お金持ちだから大丈夫なんだよ」
風が少しばかり皮肉を込めていうと、竜幸がわずかに口をとがらせる。還暦を過ぎた男性のする顔じゃない。竜幸の顔を見て、茉莉花が少し笑った。
「先輩に彼女がいるの、最初から知ってたの」
茉莉花の言葉に、思わず三人からそろって「えっ」という声が出た。
「でも、もしかして、って可能性はゼロじゃないかなって。受験生なのに、ほとんど毎日部活に顔出して指導してくれるから、もしかしてーって」
「それは、受験勉強の気分転換じゃないかな」
身もふたもないことを、空気を読まない凪が言う。風は「父さん!」と向かいに座る父親にアイコンタクトを送るが、まったく効く様子がない。
風は小さくため息をついて、立ち上がってキッチンへと歩いた。
「茉莉花ちゃんは、勇気があるよ。えらい。そんな茉莉花ちゃんにぼくから、これを」
風は冷蔵庫から、透明なプラカップを取り出した。大ぶりなプラカップには、サイコロ状に切ったチョコレートブラウニーと、クリームとバナナが入っているのが見える。
「チョコレートブラウニーの残りで作ったデザートなんだ」
「え、なに? すごくおいしそう……」
茉莉花は目を輝かせた。受け取ったカップを持ち上げて茉莉花は底から見上げた。
「え、俺たちには? 俺たちにはないの?」
竜幸と凪が騒ぎだす。風は二人の前にもカップを差し出した。
「おじさんたちには、オレンジリキュールを使ったシロップ入りです」
三人に、柄の長いプラスチックのスプーンを渡す。
茉莉花はてっぺんの渦巻き状のクリームをひとすくいすると、口に入れた。とたんに、目を見開くとしげしげとカップの中を見つめた。
「生クリームの下に、カスタードクリームも入ってる。それから、コーヒーゼリーかな。ちょっと苦いけど、甘いクリームやバナナと合うね」
「あ、バットに流していたの、これか」
竜幸がいまさら納得したといわんばかりに、うなずく。
「チョコレートとオレンジって合うんだねえ。知らなかったよ」
凪は感心しきりといった表情でスプーンを動かす。
「ふうちゃん、これはなんていう名前のお菓子なの」
「トライフルっていうイギリスのお菓子」
風も一緒にトライフルを食べた。ゼリーとブラウニーの触感の違いが面白いし、生クリームとカスタードクリーム、二色のクリームの取り合わせもいい。
「手近な材料でいいんだ。生クリームのかわりにヨーグルトを使ってもいいし。缶詰の果物もいいよね。みかんとか、桃とか」
「ほんとだ、家でも作ってみる。ありがとう、ふうちゃん」
茉莉花はつい半時前の泣きべそがおはどこへやら。いつもの明るい茉莉花に戻っていた。
「これ食べたら、勉強する。バレンタインはダメだったけど、テストは頑張らなきゃ」
「そうだね、スマフォを買ってもらえるかどうかの瀬戸際だよね」
うん、と茉莉花はうなずいて見せた。それからトライフルを平らげ、後片付けをみんなで済ませると、茉莉花は勉強を始めた。
「大人組はこっちでミーティングします」
風は、茉莉花の席にカフェオレを置くと、日当たりのよいおじいの席に二人を誘った。ブラックコーヒーを各々前に配ると、三人で膝をつきあわせた。
「おじいの様子はどうだ?」
竜幸が風に聞く。今の病院は面会が可能だが、固定された一人のみだ。面会は風が行っている。
「リハビリしていると言っても、少しずつ歩けなくなっているから、自宅に帰らないでどこか施設に入った方がいいんじゃないかって今も言っている」
「そうか。なんだっけ、ケア……」
「ケアマネさんのこと?」
風が聞き返すと、竜幸が膝をポンと打つ。
「そう、それ」
「ケアマネの太田さんは、ぼくらの意向をくんで、週五のデイサービスの予定を作ってくれてるし、いちおう空いている施設もいくつか紹介してくれた」
「わたしは、父親をここで看取りたいんだけどね」
凪はコーヒーをゆっくりと飲みながら、二人に話した。ここで一番血縁上、おじいに近いのは凪だ。凪の意見に耳を傾けておく必要がある。
「外のスロープも出来上がるし、病院を退院する期限までには庭の舗装も終わるから、おじいの受け入れはそれなりにできていると思う。おじいは、気にしなくていいのに」
「介護休暇、申請できそう?」
風が尋ねると、凪はうなずく。今まで使わなかったので、まるまる使えるということだった。
「それで、ひとつ断っておくことがあるんだ」
凪はコーヒーカップを置いて、風の顔を見つめた。
「おじいの介護だけれど、夏樹さんには外れてもらう。外れて、というかおじいの介護は父さんがやる。自分の親だから」
「え、あっ、それは、そうだね」
風は父親の発言に少しまごついた。風の中では、嫁の立場である母の夏樹も、おじいの介護をして当然とどこかで思っていなかったと言えば噓になる。
「なんだ、凪。嫁には介護させないって、本気か」
「本気ですよ、竜幸さん。それに、風ひとりに背負わせる気もない」
凪のきっぱりとした物言いに、父の本気を風は感じた。
「その話をしたら、なんとなく険悪になって……」
こちらに逃げ込んできた、というのが今日の昼ごはん少し前のことなんだろう。
「うん、わかったよ」
風はうなずいて、父の意見を尊重すると約束した。
「それより、太田さんとはどうなっているんだ?」
凪が不意に太田のことを持ち出して、風はカップを取り落としそうになった。
「どうって」
「風は太田さんが好きなんだろう?」
えっ、と竜幸も、勉強にいそしんでいたはずの茉莉花も声を上げる。違うのか、と凪がお茶請けのクッキーをかじる。
「どうもこうもないよ、太田さんが三月で退職するのは、結婚するからだよ」
「そうなの?」
さほど驚いたふうでもなく、凪が真っ赤になった風の顔を見る。風は父の空気の読まなさをこの時ほど恨めしく思ったことはなかった。
竜幸と茉莉花は、いたたまれないといった顔で、風のほうからは視線を外している。
「と、とにかく、二月の末日にはおじいは退院予定だから」
風は飲み終わったカップを集める。というか、竜幸からも凪からも強引に回収する。
「どっちも失恋ですか」
凪の一言に、泣きたい気分になる風だった。
風はキッチンで調理しているし、竜幸はおじいの籐椅子が定位置になり、スマホをいじっている。
そして、なんとなくみんな口をつぐんだままで、どこか緊張感が漂う。そのピリピリした空気感に耐え切れなくなったように、竜幸が茉莉花の後ろをそっと通って風のところまで移動してきた。
竜幸は風の袖を引くと二人してしゃがむと、声をひそめて風に尋ねた。
「な、どうだったんだ、茉莉花ちゃん」
「……ご覧のとおりですよ」
風は立ち上がりコーヒーゼリーを琺瑯のバットに流して冷蔵庫へ入れた。
「あんなに可愛い子を、袖にするのか」
竜幸は心底驚いたと言わんばかりに、キッチンの床に座り込んでうつむいた。
茉莉花の恋は昨日砕け散った。さんざん練習したチョコレートブラウニーのなかでも一番出来の良かったものをセロファンの小袋に一つずつ入れた。さらに半透明のポリエチレンの袋に数個入れると可愛いリボンで口を閉じて贈り物を整えた。
頬を赤く染め、緊張した面持ちでプレゼントを準備した茉莉花を間近で見ていただけに、風も茉莉花の落胆ぶりに胸が痛い。
茉莉花はワークをするでなし、さっきからシャーペンが止まったままだし、ときどき目をこすっては鼻をかんでいる。こんどの週の半ばからは三学期の期末テストがあると聞いたが、うわの空だ。
試作品のチョコレートブラウニーは、風も凪も竜幸もさんざん食べた。なんなら、今もまだ少し残っている。
「先輩、彼女がいたんだってさ」
いつぞやの花火大会で合流した他校の女子だったらしい。風は卵黄とグラニュー糖を小鍋でよく混ぜると、小麦粉も混ぜ込んだ。
「風は何を作っているんだ。こんなときに」
「こんなときだから」
小鍋を弱火にかけると、メジャーカップに入れた温めた牛乳を少しずつ加えてよく混ぜていく。じき、とろりとしたカスタードクリームが出来上がる。バニラエッセンスを数滴入れると、なんだか本格的になる。
「よし」
風はひとつ息を吐くと、次はボウルと電動の泡立て器を取り出して生クリームをホイップする準備をした。
「風、おまえなんでそんなにお菓子が作れるんだ」
「姉ちゃんがお菓子を作るときに、さんざん巻き込まれたからかな」
風の二つ年上の姉、千歳は活発な性格で、正確な計量が必須の菓子作りはあまり得意ではなかった。初めてクッキーを作ったときに、砂糖と塩を取り違えるというベタな間違いをしたあと、風をアシスタントにした。弟は姉に逆らえないもので、そのままなし崩し的に菓子作りを手伝わされた。
「風」
「なに?」
「ほんと、カフェやらないか。いい物件紹介する」
竜幸が真剣な顔で言うのを、風は眉間にしわを寄せ、思いっきりイヤな顔をしてみせた。やるわけがない、カフェなんて。素人の料理で経営が成り立つほど、飲食業はかんたんじゃない。
だいたいにして、飲食店は開店から二年ほどで店を畳むのが半数以上だとか。気楽にやりますーなんて、手は出せない。
つのが立つくらいにホイップした生クリームは冷蔵庫で出番まで冷やしておく。
「お昼は、パスタですけど。食べていきますか」
「食べるよ」
ほんと、竜幸は茉莉花にかこつけて毎週食事をしに来ているだけのような気がする、と風は思った。竜幸なりに気を遣ってなのか、食材を差し入れてくれたりはするが。
風はシンクの下からパスタを茹でる大き目の鍋を引っ張り出す。とりあえず、パスタは三人前茹でようと思っていたら、玄関が開く音がした。
「風、お昼食べさせてくれ」
なぜか父の凪までやってきた。風はパスタの量を一人分増やした。
きのこがたっぷり入った和風パスタを食べ終えるころ、茉莉花が風親子と竜幸に頭をさげた。
「ごめんなさい、みんなにさんざん協力してもらったけど、ダメでした」
頭を下げたまま、茉莉花は目をこすった。最後は涙声だ。
「そんな、気にすることないよ。チョコレートブラウニー、美味しかったし」
風が隣に座る茉莉花に言うと、向かいにすわる凪と竜幸がぶんぶんと頭を上下に何度も振る。
「だって、凪おじさんにもタツユキさんにも、材料何回も買ってもらったし、ふうちゃんには作るのに付き合ってもらったのに」
「いいって、いいって」
竜幸が言うと、凪も風も、そうそうと首を縦に振る。
「竜幸さんは、お金持ちだから大丈夫なんだよ」
風が少しばかり皮肉を込めていうと、竜幸がわずかに口をとがらせる。還暦を過ぎた男性のする顔じゃない。竜幸の顔を見て、茉莉花が少し笑った。
「先輩に彼女がいるの、最初から知ってたの」
茉莉花の言葉に、思わず三人からそろって「えっ」という声が出た。
「でも、もしかして、って可能性はゼロじゃないかなって。受験生なのに、ほとんど毎日部活に顔出して指導してくれるから、もしかしてーって」
「それは、受験勉強の気分転換じゃないかな」
身もふたもないことを、空気を読まない凪が言う。風は「父さん!」と向かいに座る父親にアイコンタクトを送るが、まったく効く様子がない。
風は小さくため息をついて、立ち上がってキッチンへと歩いた。
「茉莉花ちゃんは、勇気があるよ。えらい。そんな茉莉花ちゃんにぼくから、これを」
風は冷蔵庫から、透明なプラカップを取り出した。大ぶりなプラカップには、サイコロ状に切ったチョコレートブラウニーと、クリームとバナナが入っているのが見える。
「チョコレートブラウニーの残りで作ったデザートなんだ」
「え、なに? すごくおいしそう……」
茉莉花は目を輝かせた。受け取ったカップを持ち上げて茉莉花は底から見上げた。
「え、俺たちには? 俺たちにはないの?」
竜幸と凪が騒ぎだす。風は二人の前にもカップを差し出した。
「おじさんたちには、オレンジリキュールを使ったシロップ入りです」
三人に、柄の長いプラスチックのスプーンを渡す。
茉莉花はてっぺんの渦巻き状のクリームをひとすくいすると、口に入れた。とたんに、目を見開くとしげしげとカップの中を見つめた。
「生クリームの下に、カスタードクリームも入ってる。それから、コーヒーゼリーかな。ちょっと苦いけど、甘いクリームやバナナと合うね」
「あ、バットに流していたの、これか」
竜幸がいまさら納得したといわんばかりに、うなずく。
「チョコレートとオレンジって合うんだねえ。知らなかったよ」
凪は感心しきりといった表情でスプーンを動かす。
「ふうちゃん、これはなんていう名前のお菓子なの」
「トライフルっていうイギリスのお菓子」
風も一緒にトライフルを食べた。ゼリーとブラウニーの触感の違いが面白いし、生クリームとカスタードクリーム、二色のクリームの取り合わせもいい。
「手近な材料でいいんだ。生クリームのかわりにヨーグルトを使ってもいいし。缶詰の果物もいいよね。みかんとか、桃とか」
「ほんとだ、家でも作ってみる。ありがとう、ふうちゃん」
茉莉花はつい半時前の泣きべそがおはどこへやら。いつもの明るい茉莉花に戻っていた。
「これ食べたら、勉強する。バレンタインはダメだったけど、テストは頑張らなきゃ」
「そうだね、スマフォを買ってもらえるかどうかの瀬戸際だよね」
うん、と茉莉花はうなずいて見せた。それからトライフルを平らげ、後片付けをみんなで済ませると、茉莉花は勉強を始めた。
「大人組はこっちでミーティングします」
風は、茉莉花の席にカフェオレを置くと、日当たりのよいおじいの席に二人を誘った。ブラックコーヒーを各々前に配ると、三人で膝をつきあわせた。
「おじいの様子はどうだ?」
竜幸が風に聞く。今の病院は面会が可能だが、固定された一人のみだ。面会は風が行っている。
「リハビリしていると言っても、少しずつ歩けなくなっているから、自宅に帰らないでどこか施設に入った方がいいんじゃないかって今も言っている」
「そうか。なんだっけ、ケア……」
「ケアマネさんのこと?」
風が聞き返すと、竜幸が膝をポンと打つ。
「そう、それ」
「ケアマネの太田さんは、ぼくらの意向をくんで、週五のデイサービスの予定を作ってくれてるし、いちおう空いている施設もいくつか紹介してくれた」
「わたしは、父親をここで看取りたいんだけどね」
凪はコーヒーをゆっくりと飲みながら、二人に話した。ここで一番血縁上、おじいに近いのは凪だ。凪の意見に耳を傾けておく必要がある。
「外のスロープも出来上がるし、病院を退院する期限までには庭の舗装も終わるから、おじいの受け入れはそれなりにできていると思う。おじいは、気にしなくていいのに」
「介護休暇、申請できそう?」
風が尋ねると、凪はうなずく。今まで使わなかったので、まるまる使えるということだった。
「それで、ひとつ断っておくことがあるんだ」
凪はコーヒーカップを置いて、風の顔を見つめた。
「おじいの介護だけれど、夏樹さんには外れてもらう。外れて、というかおじいの介護は父さんがやる。自分の親だから」
「え、あっ、それは、そうだね」
風は父親の発言に少しまごついた。風の中では、嫁の立場である母の夏樹も、おじいの介護をして当然とどこかで思っていなかったと言えば噓になる。
「なんだ、凪。嫁には介護させないって、本気か」
「本気ですよ、竜幸さん。それに、風ひとりに背負わせる気もない」
凪のきっぱりとした物言いに、父の本気を風は感じた。
「その話をしたら、なんとなく険悪になって……」
こちらに逃げ込んできた、というのが今日の昼ごはん少し前のことなんだろう。
「うん、わかったよ」
風はうなずいて、父の意見を尊重すると約束した。
「それより、太田さんとはどうなっているんだ?」
凪が不意に太田のことを持ち出して、風はカップを取り落としそうになった。
「どうって」
「風は太田さんが好きなんだろう?」
えっ、と竜幸も、勉強にいそしんでいたはずの茉莉花も声を上げる。違うのか、と凪がお茶請けのクッキーをかじる。
「どうもこうもないよ、太田さんが三月で退職するのは、結婚するからだよ」
「そうなの?」
さほど驚いたふうでもなく、凪が真っ赤になった風の顔を見る。風は父の空気の読まなさをこの時ほど恨めしく思ったことはなかった。
竜幸と茉莉花は、いたたまれないといった顔で、風のほうからは視線を外している。
「と、とにかく、二月の末日にはおじいは退院予定だから」
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