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 夏の短い夜が白々と明け、人々が動き出すはるか前に雄高は安騎野の部屋を後にした。
 猫の爪のような有り明の月が残る空を眺めながら、いつもは一気に駆けあがる坂を今朝は自転車を押しながらゆっくりと越える。坂の頂上で足を止めると、朝露で濡れた歩道に爽やかな風がわたって行く。寝乱れた雄高の髪が風にそよぐ。
 無意識のうちに雄高は安騎野のアパートを探す。不器用なパッチワークのように不規則に並んだ屋根の中に、安騎野の住まいを見つける。
 あそこで安騎野はまだ眠っている。おそらく自分以外の誰かを想って。
 昨夜、雄高に聞こえた名前を以前にも何度か耳にしたことがあったかもしれない。ただ、これまでは、きちんと聞き取れなかったのだ。
『おとや』
 安騎野は確かに、『おとや』と言った。
 雄高の知らない名前だ。いったい誰? 安騎野の恋人……だろうか。
 安騎野の部屋にあれだけ出入りしていながら、私生活のことは何も知らない。もとより電話もなく、郵便物さえ私的な物はまったく目にしたことがない。訪ねて来る客もなく、誰にも会ったことはない。不自然と言えばかなり不自然な生活を安騎野は送っているのだ。
 もっと、安騎野のことが知りたい。学生時代のことや、今までのこと、安騎野自身のことを。雄高は安騎野の正確な年齢すら知らないのだから。
 そう思うことは、本気で安騎野が好きだからなのだろうか。
 雄高はそう自分に問いかけない日はなかった。
 生物準備室でのレイプ、アパートでの初めての優しい口づけ、それから繰り返されるセックス。
 体を重ねるたびに、雄高の淋しさも増すのはどうしてなのだろう。だから行為の後で不意に安騎野に詰め寄りたくなる。
「俺のことが好きだから、こんなことをするんだよな」
 自分は安騎野にとって特別な存在なんだよな、と。
 誰でもいいわけじゃないよなと、思いたいのだ。
 けれど、それならなぜ自分を巻き込んでまで史彦まで抱きたかったのだろうか。安騎野の目的はあくまで史彦だったのかも知れない。安騎野の史彦に対する特別な執着のようなものを雄高は感じ取っていた。
 だから自分が安騎野のそばにいるのは、たんなるなりゆきでしかなく、彼とっては自分ではなく、史彦の方がよかったのかもしれない。
 安騎野は拒まない。けれど、それが雄高を受け入れている証しにはならない。
 安騎野の気持ちはまったくつかめない。
 最近、店長がからかうように言う。
「彼女でも出来たのか? このごろ楽しそうじゃないか」
 そう言われるたびに、胸に走る痛みは一体何なのか。史彦のことが気になるから? 男同士なのだという後ろめたさか?
 史彦が今の自分を知ったら、どんなふうに思うのだろう。軽蔑されるだろうか、思いきりなじられるだろうか。
 安騎野を思うとき、雄高の胸は温かくなる。けれど次の瞬間、とてつもない孤独に追いやられる。史彦の笑顔が思い出せない。雄高のなかでは、一枚のカードの表と裏なのだ。安騎野と史彦は。
 安騎野といても、よけいに淋しさを感じるのはどうしてなんだろう……。
 自転車にまたがると、そんな思いを振り切るように全力でペダルを踏み家路についた。

                   ※

 玄関の扉は開いていた。腕時計を見ると、まだ四時になったばかりだ。雄高は鍵がかかっていないことを不審に思いながら家に入る。と、リビングに人影があった。
「ずいぶん早いご帰宅ね」
 ソファに深く腰掛け、シルクのナイトガウンをまとった母親が、皮肉を込めて雄高を睨みつけた。
「どこで何をしてたの?」
 ゆるやかにウエーブのかかった腰までの長い髪。よく手入れされたきめの細かい肌。常に自己コントロールに努め、完璧であることを望む彼女は、間もなく四十に手が届くというのに、外見だけは若く見える。
 ふた親がそろっていたころには、同級生から『若くてきれいなお母さん』と言われるのが誇りだったことを雄高は思いだしていた。
「ゆうべ灰智くんから電話があったわ」
「史彦から……」
 そう、と母はうなずくと立ち上がって雄高と肩を並べ、隈の出た眼でねめつけた。一晩じゅう起きていたらしい。
「驚くじゃない、電話をまわそうとしたらあなたはいない。時計を見ればもう十一時だったわ。そんな時間に電話をかけてくるあの子の常識も疑ってしまうけど」
「史彦のことを悪く言うなよ」
 雄高は母をひたと見つめた。その気迫に押されたのか、彼女はいったん口をつぐんだ。
「……電話がなかったら、俺がいないことには気がつかなかったんだろう?」
 彼女の顔がこわばった。いらいらと前髪をかきあげ、雄高にぶつける言葉を探しているように見える。きっちりとマニキュアを塗った指先がこんな場面に不似合いに光った。
「どこへいっていたのと聞いているの。子どものくせに外泊なんて。普通の子どものやることじゃないわ。あなたにはちゃんとしていてもらわないと困るのよ!」
「……こんな時だけ、親のふりをするんだな。心配なのは、自分のことだろう。出来の悪い息子をもったら、やっぱり片親じゃあまともに子どもは育てられないって、お仲間からの評価が下がることが心配なんだ」
 母親の顔が見る間に紅潮し、そして青ざめた。おそらく雄高のセリフは的を射ていたのだ。唇がかすかにわなないている。
「生意気なことをいわないで。こんなに心配させて」
「じゃあ、俺が何年何組か言ってみろよ。部活は? 所属委員会は? バイト先の店だってどこだか知らないだろう?」
 知らないだろう、俺が誰を好きなのかも……。雄高は空しくなるばかりだった。母親とはもう温かな感情を交えることなどないように思えて、雄高は泣きたくなった。
 母親は雄高が心配なわけではないのだ。雄高は記号でしかない。母親を完璧な欠けることない人格者としてみせるための一つのパーツだ。
 地元の名士の一人娘として生まれ、なに不自由なく過ごし、短大を卒業と同時に前途有望な学者である父と結婚し、離婚後は慰謝料と両親が残した不動産の資産運用で働くことを知らず……。ただまわりから特別な存在として扱われ、一目置かれたい、たったそれだけの為に生きている。高校生になった今、雄高には母のからくりが全て見えてしまったようで悲しくなる。
「俺はあんたを満足させるためにいるわけじゃない。今度のボランティアはいつなんだ? 恵まれない子どもたちへのボランティアは」
 雄高の頬が鳴った。母親が怒りに全身を震わせている。
「今までは、ここしか帰るところがなかった。他にも帰るところが出来た、それだけの理由だよ。……きっと父さんも同じだったんだ」
 雄高はそのまま家を飛び出た。
 やみくもにペダルをこぎ、バイト先近くの川べりまで自転車を飛ばした。河川敷が公園に整備されたそこへ着くと、雄高は自転車を乗り捨てるようにして芝部に倒れ込んだ。
 夜が明けていく。遠くで鶏が時をつくり、高く鳴く。真夏にしか見られない河原の泥炭地が干上がって露出している。今日もきっと真夏日になるだろう。
 父は出て行った。他の居場所……母と雄高と三人でいるよりも、もっと居心地のよい場所へ。不意に家に帰らなかったその晩を雄高は覚えている。
 六年前の秋だった。ここではないもう少し大きな、父が助教授に就いたその街での出来事。雄高は子供部屋の窓から、薄い霧に街灯がにじむように照らす道を見ていた。いつものように父が帰って来るのをじっと待っていた。今度の週末にはドライブに行こう、行きたいところは雄高が決めていいよ。今日帰ったら決めようねと約束をしていたからだ。
 けれど父はその金曜の晩、帰らなかった。
 前日まで雄高はなんの兆しも感じ取れなかった。母との間にどんな軋轢があったのか、まだほんの子どもだった雄高には知る由もない。ただ、父は忙しくて母親とはすれ違いが多かったようだ。母親はそんな父に不満でいつも不機嫌だった。そのくせ、外出すると母はことさら仲の良い家族と見せるように周囲に取り繕っていた感がある。その不自然さは子供心に違和感を覚えていた。
 以来、父の姿は雄高の目の前から消えた。
 家からは父を思い出させるような物は、写真から茶碗まですべて母親が処分してしまった。まるで初めから父などいなかったように、すべての痕跡を消されてしまったのだ。
「あんな女に盗られたなんて……」
 たった一度、電話口で声を押し殺して友人に訴える母を見た。口さがない親戚の言うことを合わせると、父は勤め先の大学の女子学生と駆け落ちしたらしかった。
 ごく真面目で、地味。まさか彼女が、というタイプ。おそらく母とはまったく似ても似つかぬ容姿と性格だったろう。
 父と母はお互いに愛し合ってはいなかったのだろうか。父にとっては母の実家は格好のスポンサーで、母は父の学者というステータスが欲しかったのか。
 雄高が生まれたとき、嬉しくはなかったのだろうか。それを思うとき、雄高の胸は悲しみであふれそうになる。
 父は母と共に自分を捨てた。
 全てを捨てても、それまでよりも幸福になれると信じて。
 やはり自分は必要のない存在なのだ。父からは捨てられ、母にもまた捨て置かれている。誰も雄高を必要としない。安騎野さえ……自分を一番に選びはしないだろう。
 知り合いや友人はそれなりにいるのだ。けれど、何を差し置いても雄高を一番に選ぶ人がこの世の中にいるのだろうか。
 『ONLY YOU』と誰が言ってくれるだろう。
 自分が思うほど、相手は思ってはくれはしない。
 夏の草いきれを吸い込みながら、雄高は目を閉じるとそのまま深い眠りへと誘われていく。眠りに落ちる前、どこからともなく声がした気がした。
『では、おまえは誰を一番に選ぶのだ?』と。  
   
              ※

 安騎野は何も持たない。何も持っていない。なのにどうしてあんなに毅然としていられるんだろう。学校以外で誰にも会わず、誰も訪れない壊れかけたアパートに暮らして……安騎野は淋しくないのだろうか。
 雄高は全身に暑さを感じて目が覚めた。日が高くのぼり、いつの間にか焼けたうなじがひりひりと痛んだ。汗を拭いながら時間を確かめると、もうバイトの出勤時刻をとうに過ぎていた。雄高は慌てて店へと急いだ。
 店はもう開店していた。自動ドアが開くのももどかしく、店に踏み込むと店長が新着の雑誌を抱えて立っていた。
「珍しく遅刻だな。どうした、昨日と同じ服じゃないか。なんだよ朝帰りか?」
 雄高は一瞬頬が熱くなった。そんなふうに言われるとは思ってもいなかった。レジにいるパートの若林も、くすりと笑った。
 何も言わずにうつむく雄高を不審に感じたのか、店長が声をかけた。
「碓氷、ちょっとこっちへこい。若林さん松岡くん、十分くらいお願いするよ」
 仕事の段取りを二三伝えると、雄高の肩を押して事務所まで連れていった。雄高はうなだれて、されるがままになっていた。
 段ボールが積まれ、狭く感じる事務所の古びたパイプ椅子に座らされると、店長は自販機から買って来たコーヒーをすすめた。
「ほんとに、朝帰りなのか?」
 店長はコーヒーを一口飲んで雄高に尋ねた。雄高はちからなくうなずいた。
「……それで家に帰ったら、母親とケンカになって」
 店長はため息を吐いた。
「まあな。ガタイはでかくなっても、まだお前は少年Aだから。お母さんだって心配するさ。いくら彼女といるのが楽しくても、最低それくらいの節度は持たないとな」
「店長……」
 雄高は自分の手元を見ている。手の中の缶コーヒーは火照った肌に冷たい。
「なんだ、碓氷」
「俺、男とつき合ってるんです」
 店長の動きが止まった。店内に流れている有線放送が事務所にも小さく聞こえてきた。オールディズの切ないラヴソング。『愛しい人よ、そばにいて』と繰り返し歌っている。きっと若林がセレクトしたチャンネルだ。
「俺、変ですよね。男とつき合ったりして。夜に来るあいつを軽蔑していたのに、俺もおんなじだったんです」
「碓氷……」
「分かってるんです。自分でもこんなのマトモじゃないって。でも、好きだって気持ちが止められなくて」
 鼻の奥が熱くなって、涙があふれそうになる。そう、どうしようもなく安騎野に魅かれている。もう引き返せないほど安騎野に気持ちが傾いてしまっている。
 雄高は誰かに全てを聞いてもらいたかった。嫌われてもいい、きみ悪がれてもいい。すべてをぶちまけてしまいたかった。
「……辛いだろう」
 雄高の肩に店長の大きな手がのせられた。はっとして顔をあげると、優しいまなざしの店長がいた。
「変じゃない。誰かを好きになるのに理由なんてないよ。お前が好きになった人が同性だっただけだ。変じゃないよ。悪いことじゃないんだ」
 店長は不思議だ。どうして怯まないんだろう。冗談ごかしたり、気持ち悪がったりしない。雄高を正面から受け止め、否定しない。
「なんでそんなふうに平気なのかって顔をしているな。碓氷、俺の弟が……弟は」
 そこで一度口をつぐんだ。躊躇するようにうつむくと、店長は思い切ったように雄高に告げた。
「そうだったから」
 驚いたのは雄高の方だった。店長は大きく息を吐いた。長い間胸に秘めていたことなのかもしれない。以前言いかけたのはこのことだったのだ。
「だった、って今は違うんですか」
「今は、いない。弟は十年前に死んだ。ある日いつもどおりに家を出て、それっきり帰らなかった」
 雄高は尋ねたことを後悔した。どんな言葉を使えばいいのがわからず、うろたえた。店長はそんな雄高を見て、穏やかにほほ笑んだ。
「碓氷は優しい奴だな。まだ子どものくせに優しい奴は、どれだけ辛いことや哀しいことを味わってきたんだろうってお前を見ているといつもそう思うよ……。お前も灰智も、俺からすればどっちも弟のようなもんだ。弟は高三のときに死んだから、なおさら思い出すよ」
 以前、安騎野に聞かれた。お前はアルバイトの必要などないだろう、と。確かに小遣いに不自由していない。ここを選んだのは偶然だけれど、雄高は店に出ることが楽しかったのだ。店に出て、みんなと働くのが楽しくてならなかったのだ。
「今日は休んでいいよ。家に帰ってお母さんに謝れ。それでまた明日から来てくれたらいい。そんな顔じゃ、客が驚くよ。お前、鏡を見ていないだろう」
 ほら、といって事務所の鏡の前に雄高を連れていった。ひどい姿だった。寝不足で目が赤くなっている。芝生に寝ていたせいで、顔のところどころが緑色に染まり、頭には枯れ草がついている。着ているシャツも汚れていた。雄高自身、呆れて笑ってしまった。
「悩むときには、明るくなってから悩め。お前は笑っているほうが数段いいぞ」
 店長は、雄高の背中を軽くたたくと雄高を店から送り出した。
 ここは居心地のいい場所だったんだ……今更雄高は気づいた。
 朝来た道を逆に辿る。誰かに聞いてもらいたかった胸の内を吐き出し、体まで軽くなったように思えた。
 しかし家に帰り着くと、母はいなかった。
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