HEAVEN'S GATE IN THE SKY.

ビター

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 母親と和解する機会を逃したまま、翌日いつもどおりにバイトに出かけた。
 店長は普段と変わりなく、てきぱきと仕事を指示し雄高も熱心に働いた。胸に抱えるものはまだ大きいけれど、事情を知り理解してくれる人物がいることが雄高に安心をもたらした。
 仕事の帰り、また安騎野のアパートへと向かった。
 壊れかけたてすりに注意しながら階段をのぼり、安騎野の部屋の前に来ると一応形ばかりのノックをし、そのままドアを開けた。
 夕闇に染まる部屋のいつもの椅子で空を見上げる安騎野の姿はなかった。不審に思いながら、部屋に一歩踏み込んだ雄高は床に転がる影に動転した。
「あ、安騎野?」
 安騎野は、学校から帰宅したまま倒れたらしく、靴も脱がずスーツ姿のままだ。玄関さきで体を胎児のように丸めている。表情は暗くてよく分からない。
「安騎野!」
「……碓氷か。驚かせたな。帰った途端めまいがして」
「病院に……」
 安騎野に肩を貸しながら、雄高は促した。しかし、安騎野は固辞した。なんとかベッドまでだどりつくと、安心したように体を横たえた。
「バテただけだ。今年の夏はキツイな。休めばなおる。医者は必要ない」
 そう言うと、ネクタイをゆるめ大きく息をついた。雄高は安騎野の着替えを手伝ってやり、額を濡れたタオルで拭いた。
「なにか食べたいものとか、ない? 買ってくるよ」
 雄高の申し出に安騎野は目を閉じたまま、首を横に振った。
「カバンの中に錠剤が入ってる。持って来てくれ」
 言われるまま、安騎野が通勤用に持ち歩いているブリーフケースの中を探ると、書類やテキストの間に数種類のビンがほうり込まれていた。ビタミンの名前が書かれてあるのが読み取れた。それを順に差し出すと、それぞれ何粒ずつか取り出し、かみ砕いて飲み込む。水も使わずにそうしている姿は、どこか鬼気迫るものがあって雄高は少したじろいだ。
 そういえば、安騎野が食事をしてる場面を見たことがない。バイトの帰り、コンビニから買って来た夕食を雄高が食べる間、安騎野はと言えばビールを流し込むか、タバコをふかしているかのいずれかだ。
「体こわすよ」
 額のタオルを替えながら、雄高は本当のところ不安だった。ただの夏バテだろうか。病魔が安騎野をむしばみつつあるのではないかと。
「別にかまわない」
 事もなげに言うと、安騎野はネジが切れたようにそのまま眠ってしまった。軽い寝息をたてて安騎野は眠る。あまりに寝つきがよいので、あの錠剤の中に睡眠薬でも混じっていたのかもしれないと雄高はいぶかしんだ。
 雄高は安騎野の椅子をベッドの横に運び、眠った安騎野から眼鏡を外すと戯れにレンズをかざして見た。度がほとんど入っていない。奇妙に思いながら、雄高は安騎野の寝顔を眺めた。
 年齢不肖な顔つきだ。ほかの先生たちから漏れ聞くところによると、二十代後半でもうすぐ三十に手が届くらしい。自分が身近に知っているその年齢に一番近い人物は店長の榊だけれど、こうして眠る表情はむしろ自分とたいして変わらないように思える。
 どちらかと言えば面長で、もともと彫りは深いほうなのだが、目のあたりが落ち窪んでいる。秀でた額に、少しだけ癖のついている髪は伸びかけている。よく見ると生え際に白いものが何本か混じっている。
 夏がけのうえで少し曲げられ胸に置かれた腕は、以前は空手をやっていたというのがでまかせにしか思えないほど、白くひ弱に見える。しかし、それが見かけどおりではないことを雄高は身をもって知っている。
 確かにここ数日でやつれたかも知れない。生徒は夏休みになったとはいえ、安騎野は補習や三年生の受験対策のために連日出勤しているのだ。
 昨日、店長にカミングアウトした。『好きだってことが止められない』という本人を目の前にすると、今さら照れて雄高は一人頬を赤くした。
 どうしてなんだろう。初めは暴力だったのに。あれほど苦しんだのに。
 ……史彦を傷つけたのに。
 優しくしてもらうことが初めてだったから? 触れることのできるあたたかさを求めていたから。ひとのぬくもりが欲しかっただけなのかもしれない……。
 雄高はメビウスの輪のなかにとらわれかけたが、間もなく昼の疲れもあって椅子の背にもたれて寝入ってしまった。
 どれほど眠っていたのだろうか。安騎野の苦しげな声で雄高は目を覚ました。明かりのない部屋を町の光が薄く満たしている。安騎野はうなされていた。
「安騎野?」
 雄高は額からずれ落ちたタオルを洗面器で絞ると、安騎野の顔をそっと拭いた。熱はないようだ。ー何か夢を見ているのだろうか。
「おとや……」
 雄高は凍りついた。また、あの名前だ。雄高は安騎野が救いを求めるように伸ばした手を握った。安騎野はそれを握り返す。ほっとしたのか体から力が抜けて、また規則正しい寝息に戻った。雄高は安騎野の指に口づけ、両手で包んだ。
 こうしていても、安騎野が思っているのは雄高の見知らぬ「おとや」という人物だ。どれほど体を重ねようと、安騎野の心へは近づけないのか。自分は安騎野にとってどんな存在なのだろう。雄高は祈るように安騎野の手をおし抱き、頭を深く垂れた。
 その髪に不意に指がふれた。驚いて顔をあげると、うっすらと目を開けた安騎野が遠い瞳で雄高を見ていた。
「また、目が覚める。まだ俺は生きているのか」
「安騎野……」
「司でいい」
「司。おとやって」
 安騎野は雄高から手をはなすと、再び目を閉じた。また眠ってしまったのかと思うほど長い沈黙の後、安騎野は目を開くと、差し上げた自分の右腕をじっと見つめた。
「おとや……二矢はもういない。目をつぶったのは一緒だったはずだ。次に開いたときには、俺しかいなかった。もう俺の腕の中から消えていた」
 からっぽの腕を安騎野は見つめる。まるでそこに居るはずの二矢を見つめるように。
「誰の詩だったかな。“夢見たものはひとつの幸福 願ったものはひとつの愛”……。俺の腕の中は空っぽだ。ただいちど手にしたと思った幸福は消えた」
 だから安騎野の包容は優しいのかもしれない。失ってしまったかつての恋人を思い、ひとり残されたことの現実を受け入れるために、腕の中の温もりを確かめているのだろう。
「もっと、なにか話してほしいよ。司の話が聞きたい」
「話すことなんか何もない。おれの中には語るべき物語なんか何もない」 
 雄高は直感した。安騎野には人に言いたくないエピソードを抱えていると。それはきっと二矢に関することなのだ。誰にも教えたくない二矢との思い出か。
 雄高の胸にゆらりと嫉妬の炎が燃えた。これ以上聞いてはいけない、そう感じていても雄高はそれを押さえられなかった。
「二矢のこと……聞かせて」
 安騎野は苦々しく笑うと、一瞬瞳を閉じた。
「……灰智に似ている」
 雄高は鈍器で殴られたような衝撃を受けた。灰智にー史彦に似ている?
「今でも好きなのは、その人?」
 安騎野は答えなかった。しかしそれが答えなのだろう。
「俺は……」
 あんたの何? という言葉を継ぐことができずに、ただ雄高は声を詰まらせた。心が悲しみと怒りで軋む。不意に安騎野が哀しげな目で雄高を見た。荒らぶるでもない、無表情でもない、今まで見たことのない安騎野の顔に雄高は引きつけられ、目をそらすことができなかった。高ぶっていた気持ちが少しずつ落ち着きを取り戻す。
「司……キスして、いい?」
 泣きたい気持ちで雄高は尋ねた。ふっと優しげな、穏やかな表情で安騎野は応えた。雄高はそっと安騎野と唇を合わせる。これまでの欲情した口づけではなく、いとおしく切ないキスを安騎野と交わした。
「司か。そういう名前だったな、俺の名前は。もうお前以外に俺を名前で呼ぶ奴なんて……誰も……いないから」
 安騎野は話すことに疲れたように、またゆっくりと眠りについた。
 ふたりきりでいても、こんなに近くにいても、安騎野の心まではたどり着けない。それは確信に変わってしまった。安騎野はただひとり閉じた世界にいる。
 安騎野が心を開くのは、もういない二矢にだけだ。安騎野への世界の扉は閉じてしまった。ただ一人、鍵を持つ二矢はこの世にはいない。
 哀しすぎるとき、涙なんて流れない。
 ただ、呆然とするのだ。ほんとうに打ちのめされた時には……。
 雄高は安騎野がすっかり眠ったことを確かめると、静かに部屋を後にした。
 自転車の重みを感じながら、おもての道に出たとき街灯の丸い光の中に人影を認めた。
「雄高」
 声に驚き顔を上げると、そこには史彦がいた。闇に溶け込んでしまいそうな黒づくめの服装で、夜だというのに帽子までかぶっている。久方ぶりに見る文彦の頬はこころもち肉が削げ落ちていた。いつからいたのか。街灯は安騎野の部屋のすぐ下だ。雄高は棒を飲んだように立ち尽くした。
「話があるんだ」
 ひと言だけいうと、目線で雄高を促し文彦は先に立って歩きだした。
 ー史彦は変わった。店長の言葉を思い出す。服装がか、態度がか、それを具体的に言い表すことは難しいけれど史彦が与える印象は確かにガラリと変わっていた。それまでの内向的な雰囲気をもうまとっていない。
 いまの言葉でさえ、有無をいわせない力がこもっていた。
 先導して歩く史彦の背中が妙にたくましく、かたくなに見える。後ろで縛った長めの髪は変わらないけれど、さっき雄高を見た眼光の鋭さがまだ目に焼きついている。史彦はあんな目をすることがあるのか。
 坂をあがって駅の西口に整備された広い公園へと入り、史彦は石のベンチに腰かけた。雄高は自転車をそばの合歓の木にたてかけ、史彦に手招きされるまま史彦の前に立った。
「おまえ、安騎野とつきあってるのか」
 なんの前置きもなしに史彦は切り出した。雄高の背中を冷たい汗が流れた。
「知ってるよ。いつもバイトの帰りに安騎野の部屋に寄ってるってこと。そうそう、泊まったこともあるよな? 雄高ん家に電話して確かめたもの」
 あれは、わざとだったのか。信じられない。史彦は『そういう奴』だったのか。かすかな悪意を感じ取って雄高は眉をひそめた。バイトに遅刻したり、休んだり……もしかして史彦は安騎野の周りに、はりついていたのか。なんのために。
 ここにいるのは自分の知らない史彦だ。信じられないものを見る思いで雄高は史彦を凝視した。
「どうして……」
「それは俺のセリフだ。なんであいつなんだ。なんでお前は俺のそばにいないんだ。あいつが俺に何をしたか、よく知っているはずじゃないか!」
 史彦は勢いよく立ちあがると、雄高の両肩を掴んだ。
「あいつのせいで俺はメチャクチャだ。あれ以来、勉強もバイトも手につかない。やられたことが悔しくてたまらないんだ! お前は違うのか、雄高? 俺があんな目にあっても平気でいられるのか、俺はお前を親友だと思っているのに!」
 そう訴える史彦の声が怒りでふるえている。薄いTシャツのうえから掴まれた肩に爪が食い込み、雄高は顔を歪めた。
「そばにいる資格なんてないよ。史彦をあんな目に合わせたのは俺の責任だから。俺が安騎野の言うがままに……お前を騙したからだ」
「安騎野となにがあったんだ?」
 問い詰められて雄高は何も答えられなかった。
「もしかして、お前もやられたのか……!」
 雄高は目をつぶり観念してうなずいた。史彦の小さな悲鳴が耳に届いた。
「それなのに、どうして」
 紙のように頬を白くさせて史彦が雄高に問う。どこかで反転してしまった自分の感情をどう説明すればいいのか雄高には分からなかった。けれど、そんな態度から史彦はすべてを読み取ってしまったようだった。 
「なのに、あいつが好きなのか? 俺よりも……」
 史彦の最後の言葉は苦しげにかすれた。
 ふっとその指から力が抜け、史彦が雄高にもたれかかるようにして続けた。
「子どものころ、一緒に電車の模型を見たよな。あれ、おれの誕生日だったんだ。五歳の。めずらしく親父が仕事を休んでさ、あの模型を組み立ててくれたんだ。雄高のとこのお父さんも一緒にお祝いに来てくれた。おまえ、覚えているか」
 ああ、あれは五月の記憶だったのか。とたんに雄高の脳裏には、あの日の思い出がよみがえった。線路を史彦と敷いている。父と文彦の父親が模型の具合を確かめ、調整しレールにそっと乗せる。その情景が眼前に広がった。
「パーティーなんておおげさなものじゃないけど、ケーキを食べて雄高と一緒に遊んで。おまえは俺に水色のビー玉をプレゼントしてくれた」
 いちばん大切なものを、史彦がずっと欲しがっていたものをプレゼントしよう。子ども心に雄高はそう決めた。それがビー玉だった。金持ちのくせに、そんなものを欲しがるなんて今思えば不思議だ。それを手放すときには少し後悔したけど、史彦の笑顔を見たときとても嬉しかった。
「あれ、今も持ってるんだ」
「覚えているよ。あのとき、史彦のお母さんが着ていたブラウスの襟には、白い薔薇が刺しゅうされたいた」
 不思議だ。もう何年も前のことなのに、史彦と話をしているとそんな細かいことさえ鮮やかに思い出せる。
「いまはもうないんだな、あのサンルームも」
 うん、と史彦がうなずく。そして、もういないけれど。
 史彦の母親も、雄高の父親も。あのときの日差しの明るさはまだ胸の内にある。あのころは疑いもしなかった。両親からの愛情が途切れることはないと。
「あれからすぐに、雄高は引っ越して行って……俺、淋しかったよ。母さんが死んでしまったときも、お前がそばにいてくれたらいいのにって、そう思った」
 ごめん、と雄高は思わず詫びた。父親が助教授の職をよその街の大学で得たことでの引っ越しだ。雄高がどうこう出来たものではない。けれど、取り残されて心細かっただろう史彦を思うと、詫びずにはいられなかった。
「だから、高校でまた会えたときとても嬉しかったよ」
「うん」
 高校の入学式で、息を切らせながら駆け寄って来た史彦。ほんとうに嬉しそうにほほ笑んだ史彦を雄高が忘れるはずがない。
 雄高は史彦に腕をまわし、抱きしめた。史彦がそれに応える。
 長く捜し求めていた一片がいま手の中にある。史彦も覚えていた、雄高が大切にしまっておいたふたりの大切な思い出のかけらを。
 雄高の胸の内に暖かい火が灯る。安騎野との冷えきった関係ではなく、史彦に感じる確かなつながりを雄高は抱き締める。
「写真を取り戻したいんだ……」
 体をはなして史彦が告げた。うつむく史彦の長いまつげを懐かしく雄高は見つめた。
「あのとき、何枚か写真を撮られた。次はきっとあれで脅されるに決まっている。だから取り返したいんだ、協力してくれるだろう?」
 真っ正面から切れ長の瞳に見つめられ、雄高の心は揺らいだ。返答に詰まる雄高に史彦は不意に口づけた。
「やらせてやるよ、写真を取り返したら!」
 史彦の指先が雄高の手の中でふるえている。史彦はまたうつむいた。それはどこか恥じらいを、戸惑いを隠すためにそうしたように雄高には感じられた。
「……知らなかった。あんなふうになるなんて、自分の体が……。あれのとき」
「いわなくていい、史彦。それ以上」
 どんなにひどい体験だったのか、雄高には分かっている。今、それを聞く勇気は雄高にはなかった。しかし史彦は首を振った。
「俺、雄高が好きだなんだよ。あれのとき、思ったことはお前のことだけだった。だから店に来るあいつに、お前の電話番号を教えろって言われたとき、おれは腹が立ったんだ。あいつ、なんて言ったと思う? 碓氷くんの電話番号を教えて欲しい、きみは彼の友人だろう? って。友人じゃねえって俺がどれほど言いたかったか分かるか? だれにも、渡してたまるかって!」
「俺を?」
 うん、と史彦は力強くうなずいた。雄高は史彦をかき抱いた。
 涙が流れた。雄高はずっと悲しかった。安騎野にふれられないこと、どんなにそばにいても埋めることのできない淋しさ。
 けれど史彦は違う。長い間求めていたものを史彦はいま、雄高に与えた。雄高の涙は止まらなかった。史彦はもう一度雄高に口づけた。
「協力してくれるよな」
 雄高はただ無言でなんどもうなずいた。涙は流れ続けた。
 断ることなど、どうしてできよう?
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