HEAVEN'S GATE IN THE SKY.

ビター

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 写真はどこにあるのだろう。
 雄高の写真はすでに安騎野から返されて手元にある。実はまだ処分はしていない。机の引き出しの奥にしまったままだ。
 なぜ、と聞かれたら雄高自身も返答に詰まるだろう。正直に言えば、見るのも、ましてや触るのも嫌だったからだ。もしかすると、安騎野と秘密を共有することで、なにか特別なつながりを感じていたかったからなのかも知れない。
 写真の場所は、恐らくアパートのあのトランクの中、あるいは生物準備室のどこかの二つに絞られそうだ。これに通勤カバンを加えれば、もういいような気がする。もとより、持ち物も少なくまた、鍵をかけるという用心さに欠けている安騎野のことだ。史彦の写真の回収はたやすいように思われる。
 ただ一点、雄高が安騎野を裏切るという行為を除けば……。 
 史彦とのキスは雄高を舞いあがらせた。それはほんとうだ。
 雄高は複雑な数式を解く手を休めて、隣に座る史彦を見た。冷房がほどよく効いた図書館の学習室で、史彦は熱心に英文を読んでいる。
 真剣になればなるほど、シャーペンを持った指を唇に持っていく史彦を見ていると、幼い頃からの癖が抜けずに残っていることに頬が緩んだ。
 史彦の予備校の休みと、雄高のバイトの休みが重なった貴重な休日を二人で過ごす。
 終業式のあの出来事を思い出すと、今日こうして二人でいられることじたいが奇跡のように思えて、雄高はしばし幸福感に浸った。
 たとえそれが夏休みの課題をこなすための、こんな時間だとしても。
 史彦を選ぶのなら、安騎野を裏切らなければならない。
 裏切る? 何を。裏切るという行為には、信頼関係というものが無ければ成立しないはずだ。そんなものが、雄高と安騎野の間にはあるのか。雄高には分かっているのだ。安騎野は『二矢』だけを愛する。自分はほんの暇つぶしにていどにしか思われていない。
 だからこれは裏切るということではない。雄高が、安騎野を見限るということなのだ。
 わかっている。それはわかっているのだ。けれど…。
 雄高は再び数式に向かった。数学はいい。答えが必ず決まっているから。
 午前中いっぱいは二人とも無駄口をたたくこともなく、課題に集中した。学習室にいる誰かの腕時計から正午を知らせるアラームが何種類か鳴り響いたとき、二人は机をかたづけて図書館から引きあげた。
 風がある。過ごしやすい陽気に誘われてどちらからともなく、隣接する公園のベンチに腰かけた。ポプラの木々が心地よい日陰を提供してくれるその下で、雄高はカバンからおむすびを取り出し、史彦に手渡した。
「準備がいいよな、雄高は。これ……」
「母さんじゃないよ、コウさんが持たせてくれたんだ」
 史彦は被っていたキャップのツバをくるりと後ろに回すと、渡されたおむすびにかぶりついた。公園の芝生のうえにシートをひろげ、雄高たちとおなじようにお昼をとっている家族やカップルが何組かいる。ほかにも弁当持参のサラリーマンやOLの姿もある。不思議なほど穏やかな風景だ。
「……悪かったな」
 史彦が一つ目を食べ終わったとき、雄高に話しかけた。なんのことかわからず、雄高は戸惑った。むしろ謝らなければならないのは雄高のほうだからだ。
「夜に、おまえん家に電話なんかかけて。あの後、ケンカになったんだろう? おまえの母さんに、ものすごく険のある言い方されたし」
「気にしなくていいよ。史彦がそうする前からずっと悪い状態だったから。いまさらどうってことない」
 あれ以来まともに顔さえ合わせていない。でも、と言いかける史彦との気まずさも一緒に雄高は口の中の物を飲み込んだ。
「無理しなくなった分、少しはいいような気がする。逆に」
 それは半ば本心だった。今まで二人とも良い家族というものを取り繕って演じていたような気がする。
「俺はさ、雄高。俺、義母さんは悪い人じゃないって、わかってはいるんだ」
 史彦は、ベンチの背もたれのカーブに沿ってゆっくりと体を反らせるとキャップを脱ぎながら、猫がするように大きく伸びをした。
「ただ、愛情というのは感じないんだ。確かに、妹たちは三人ともみんなかわいいし、むこうも俺のことを慕ってくれているとは思う。でも、義母さんのはそれと違う。まるで、俺に対して愛情を持つことを義務のように思い込んでいるみたいで……時々息がつまる」
 さらさらと史彦の髪が風にそよいだ。それは、史彦が実母の面影を色濃く引き継いでいる証しだ。雄高は何度か会った史彦の新しい家族の顔を思い浮かべてみた。どちらかといえば丸顔の、二重まぶたで黒目がちの風貌の義母と、母親似の妹たちを。
 史彦の実母は瓜実顔で、一重の目元が涼しげな人だったことを雄高はよく覚えている。清楚、というイメージが当てはまるそんな女性だった。
 史彦は、母親似なのだ。癖のない真っすぐな髪も、切れ長の一重瞼も。繊細に見える細いあごも。
「彼女は義務感で俺を縛るんだ。前妻の息子だけど、わたしはとても可愛がってる。その証拠に成績も素行も優秀。家族の仲もいい。そうすることが大切だから、あなたもそうしなさいねって」
 史彦は疲れたようにため息を吐いた。そばで聞いている雄高自身、身に覚えがある。雄高の母も形こそ違え、やっていることは史彦の義母のそれと大差ないからだ。
「お前んとこは、血のつながった親子だし、俺はどこか羨ましくて。うまくいくならそれにこしたことはないじゃないか」
「血のつながりなんて、関係ないんだよ」
 きっと、それはあまり関係がないのだろう。血縁関係があってもお互い憎しみあい、傷つけ合うしかできない場合もあるから。
 血のつながりだけで一緒に暮らしていても家族とは呼べないと雄高は思った。雄高の母と、たった二人の家族は崩壊寸前ではないか。父がいたら、こんな状況にならなかったかも知れない。
 ポプラの葉が風に翻って、銀泥ぎんどろの光をはじく。木漏れ日がベンチの周りに敷き詰められたレンガの上に濃淡の影を描く。雄高はベンチに無防備に投げ出された史彦の手にそっと自分の手を重ねた。史彦は甘えるように雄高の肩に頭をのせ目を伏せた。
「いつ探す?」
 もたれかかる史彦の体。不意に雄高はその胸の形を確かめてみたいという衝動に駆られた。その気持ちを押さえ込み、雄高は史彦と指を絡めた。
「明日……」
 ごく自然に雄高は答えた。今なら迷いはない。
「じゃあ、雄高はアパートの方を頼む。俺は、安騎野が補習している時間に準備室にもぐりこむから」
 答える代わりに雄高は史彦の額に口づけた。 

          ※

 二日ほど行かなかっただけで、安騎野のアパートはどこかよそよそしく感じられた。
 雄高はバイトの昼休み時間にあがりこんだ。部屋は、いつにも増して雑然とした雰囲気に包まれていた。ビールの空き缶も、タバコの残り香が漂っているのも、いつもと同じなのに。真昼の熱気が詰まった部屋のいつもの場所に、スーツケースが置かれてあった。
 海外旅行へ持って行くような、キャスターつきのスーツケースだ。メタリックの表面が午後の日差しに焼けて熱くなっている。
 かすかな後ろめたさを感じながら鍵に手をかけると、かちり、と小さな音をたててあっけないほど簡単にケースは口をわずかに開けた。鍵などかけていなかったのだ。
 押しあげると軽く蓋が跳ね上がり、中身を日にさらした。
 部屋の様子とよく似ている。必要最低限の着替えや下着だけで通帳などの貴重品は見当たらない。それらはおそらくいつもの通勤カバンに入ってると思われた。
 いや、しかし安騎野の性格からすれば、そんなものは持っていないのかも知れないと、雄高は不思議に確信できた。
 そういえば、冬物の衣服は入っていない。どこか他所に預ける場所でもあるのだろうか、例えば実家だとか……。自分の知らない場所にいる安騎野を想像すると、雄高の胸に悔しさのようなものが去来する。
 でも、そんなことを言えば安騎野のことなど知らないことばかりだ。
 あの『二矢おとや』でさえ、今はどうしているのか、二人のあいだに何があったのか安騎野は話してくれない。
 愛情は憎悪に反転する。安騎野を好きだと思っていた。今でも顔を見ればきっと心はぐらつくだろう。手を差し伸べられれば、あっさりとその手を取るだろう。「好きだ」と一言告げられるだけで、史彦のことは忘れてしまうかも知れない。
 けれど、雄高はひとつの解答をすでに導き出していた。
安騎野といる時間と、史彦といる時間、どちらがより自分にとって大切なのかを。
 雄高はにぶりかけた手を叱責して、ケースの中を探った。
 底に手を深く入れたとき、指先が堅い物に触れた。あまり大きくはない。引っ張り出すと、それはクリアケースに収められた革で表装された聖書だった。
 安騎野には似つかわしくない。けれど、何度もページを繰ったらしく紙が薄汚れていた。雄高がケースから引き抜くと、ばさばさと足元に紙が散らばった。
 白と黒の正方形に近い厚紙が床に散らばったかに思えた。しかしよく見れば、それはポラロイドで撮られた十枚ばかりの写真だった。 中の一枚を取り上げる雄高の手が、びくりと震えた。
 そこには全裸の男子学生が横たわっていた。
 ーー全て、全てがそんな写真だった。
 自分と、史彦だけではなかったのだ。安騎野の手にかかった生徒は。
 雄高は虚ろな目を、写真の中の史彦に向けた……。
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