HEAVEN'S GATE IN THE SKY.

ビター

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 駅前のフラワーショップで花束を買った。
 安騎野のいない新学期が始まって、間もなく衣替えを迎える土曜日、雄高はM市まで足を伸ばした。
 安騎野の面会謝絶が解けたと、知らせがあったからだ。
 総合病院の外科病棟は、よく磨かれた窓から光が降り注いでいた。木々が夏場の濃い緑から、ゆっくりと色を落としはじめている。昼間から虫がもう鳴いている。
 雄高は松葉杖や車椅子で行き交う患者のいる廊下を過ぎて、ナースステーションに近い安騎野の病室までたどり着いた。
 白い引き戸は開かれ、カーテンのかげから、わずかにギブスを巻かれた安騎野の指先が見えた。雄高はためらいながら軽く扉を叩いた。
「はい」
 返事をしたのは、あの日病院に安騎野のために駆けつけた、ただ一人の人物だった。安騎野より十は年上で、長身。雄高は少し見あげるようにして、あいさつをした。
 お見舞いの花束を雄高から渡されると、丸メガネをかけたその人は柔和な笑みを浮かべ病室の中へと招き入れた。
 安騎野の腕から点滴の管が伸び、頭と両手両足はギブスで固定され、顔にはまだかすかに青アザが残っている。遮光カーテンがわずかな日陰をつくり、その中で安騎野はまどろんでいるかのように見えた。
 雄高がすすめられるまま、いすに座るとその人は何も言わずに席を外した。
 雄高の頬を自然と涙が伝った。あのとき、安騎野は六階建ての屋上から飛び降りた。普通ならコンクリートの校庭に叩きつけられ、助からなかっただろう。けれど、一度三階のベランダに体をぶつけ植え込みまで弾かれたのが幸いしたらしく、重症をおったが命は取り留めた。
「うすい?」
 声に驚いて顔をあげると、安騎野がゆっくりと目覚めるところだった。唇の横が切れている。絆創膏が貼られてるいるため、あまりうまく話せないらしい。くぐもってはいたが、確かな声だった。
「安騎野……」
 雄高は慌てて涙を拭いたが、それきり声を失った。安騎野が生きている。それだけで雄高には嬉しくてたまらなかった。
「また、死に損ねた。天国の門は遠いな」
 話す内容とは裏腹に、安騎野は明るい口調だ。安騎野はくすりと笑ったが、すぐに痛みのためか顔をしかめた。
 雄高は何から話せばいいのか、戸惑った。何を話しても差し障りがあるようで、なにも話せずにただ安騎野の顔を見つめたいた。
「史彦が、安騎野に謝ってた。自分のせいで、こんなことになって……」
 史彦は安騎野に会うほどの勇気が持てないと、雄高に打ちあけた。雄高もその責任の一端を担っている。史彦を無理に安騎野の前に連れてこれるほど、雄高も強い態度を取れなかった。
「灰智のせいじゃない。高三の夏からずっと死にたいと思っていた。灰智に責任はないと伝えてくれ」
 うん、と雄高は答えながら安騎野の表情を追った。あのとき屋上で見せたような、どこかふっ切れたような目をしている。
「二矢は、酷い奴だった。小柄で病弱だったから、おとなしい優等生だと周りは思っていた。誰でも騙されたよ、あの姿形だ。でもな、裏ではシンナーやトルエンを学生に売りさばいていたんだ」
 えっ、と雄高は言葉を詰まらせた。あの写真の二矢を思い出す。一点の曇りもなく、ほがらかにほほ笑んでいた写真の二矢。物騒な薬物とは全く結びつかない。なにより店長が話してくれた二矢とイメージがかけはなれている。
「このことは一矢さんも知らない。二矢の恋人は他校の不良グループの頭だった。どうしてそうなったのか、俺は知らない。ただ、俺と出会ったころにはその関係もかなり行き詰まっていた。そのうち、売上の金を全部持ってそいつが消えた」
「金銭トラブルってそのこと?」
 屋上で聞いた話が少しずつ形をとり始める。しかし、まだ二矢の風貌と、そんな破滅的な行動とのギャップを埋められない。安騎野は更に話を続けた。
「二矢はコンプレックスの塊だった。女に間違われるような容姿、それに引きずられるような軟弱な性格。学年上位の成績を収めても尚、両親から一矢さんと比べられることの辛さ。いつも悩んでいた。ただ、そのコンプレックスを押し込めて、まるで違う人格を演じていた。無理をしているように俺には見えたよ。俺は馬鹿なガキだったから、そんな二矢を救えるのは自分しかいないと思い込んだ。……結果、二矢が死にたいと言ったとき、あっさりと死ぬことに同意したんだ」
 はは、と安騎野は乾いた声で笑った。雄高は奇妙な錯覚を覚えた。いま目の前にいるのは、十八才の安騎野だ。雄高はそう感じた。自分とかわらぬ歳の安騎野だ。
「俺の家は崩壊寸前だった。外に愛人を作って家に寄りつかなくなった父親と、捨てられる恐怖にだけ囚われて心を病んだ母親と。誰かそばにいてくれる奴が欲しかったのは俺も同じだ。信じられるか? 心中を起こしたのは、二矢と初めて言葉を交わしてからたった三カ月後。荒んだ俺が、二矢との関係に溺れるのにさほど時間は要らなかったんだ」
「だから、俺と似ているって……」
 安騎野は真っすぐな瞳で雄高を見た。
「俺も不安な子どもだったんだよ」
 雄高は面食らった。自分よりも年長の人物といるとき、ともすればその人に子ども時代があった事など、すっかり忘れる時がある。安騎野が子どもだった、孤独で不安な子どもだったと、俄に雄高に現実味を帯びて迫って来た。
「ガキだった。生きることも死ぬことも同じ意味しか持たなかったんだ」
 その後、どこか遠い街の病院に長く入院したと店長から聞いた。安騎野はその事に関しては、口を閉ざした。
「碓氷、あのとき『生きてくれ』って言ったな」
「うん」
「誰も俺に生きろとは言わなかった。二矢が死んだとき」
 雄高は耳を疑った。二矢との心中事件の真相は当事者の安騎野がずっと胸に秘めていたのかもしれない。二矢の名誉を守るために。すべての泥は自分が被るように、安騎野は口を閉ざしていたのか。
「父は俺が同性愛者であることを受け入れられず、親子の縁を切った。母は精神のバランスを完全になくして、間もなく亡くなった。一矢さんからは二矢の死について責められ、友人はみな去って行った。収容先のベッドで、特別なはずの自分は平凡で無力な存在にしか過ぎないと思い知らされた」
 なにも持たないーいや、二矢の死が何もかも奪い去っていった。安騎野の人生から。生きる気力さえも。
「だから、だれも生きろとは言ってくれなかった」
 あのアパートで、安騎野はただ死への思いを募らせていたのか。
「淋しかったよ、ずっと」
 安騎野は目を閉じて、口をつぐんだ。恐らく、安騎野は二矢を失ったことを悲しむことすら許されなかったのだろう。その淋しさだけを両手に抱えて。
「今となれば、二矢が俺を好きだったかどうかなんて確かめようもない。なにかの巡り合わせか、単なる勢いだったのか」
「店長が言ってた。二矢は安騎野のことを尊敬していたようだったって。自分にないものをたくさん持っている安騎野が友人で嬉しかったみたいだよ」
 ああ、と安騎野はため息のような声をもらし、目を閉じた。安騎野の脳裏には二矢と過ごした日々が蘇っているに違いない。雄高は安騎野のかすかに潤む瞳を見た。
「碓氷をさんざん傷つけたな。悪かったよ」
 雄高はゆっくりと首を振った。それは確かにそうだけれど……雄高は安騎野の謝罪の言葉が欲しかったわけではない。
「何人もの学生をひどい目に合わせた。碓氷、お前だけだ。いつまでも俺といようとしたのは。傷つけられても、傷つけられても、そのたび俺に飛び込んで来る。正直戸惑ったよ。俺は碓氷の方が灰智よりもひ弱だと思っていた。お前は強い奴だな。だからこそ、俺もお前に打ち明けられたのかも知れない」
「俺、安騎野に会えてよかった。苦しかったけど。安騎野に出会って、史彦の大切さが分かったから。どれほど大切な存在か、よく分かったから」
 安騎野は小さく感嘆の声をあげた。雄高は照れて頭をかいた。不思議だ、こんなふうに安騎野と話せると思わなかった。
「あの人は……」
 雄高は、扉の方を見ながら安騎野に尋ねた。
「クリスチャンの精神科医」
 どこかで聞いた覚えのあるフレーズに、雄高はしばし首をかしげたが、やがて思い出して小さく声をあげた。
「俺の身元保証人だから」
 それ以上の含みはない、といいたげに安騎野は横を向いたが、特別な何かであることには変わりないのだろう。雄高はどこか安心した。安騎野が自分で言うほど、孤独ではないらしい。
 以前なら嫉妬したはずだが、今は違う。色恋とはもっと別の、まるで自分の血肉を分けた者のように感じている。雄高もまた安騎野に自分を重ねて見ていたのかもしれない。
 孤独が互いを引き合わせ、つないでいたのだろう。
 雄高は立ちあがった。もう、長い間話し込んで安騎野を疲れさせてしまった。廊下で待つ彼も痺れを切らしているに違いない。
「それじゃ」
 安騎野がまだ不自由な手をあげ、指先をかすかに雄高の腕に触れさせた。その熱さが雄高に、夏の夜に合わせた肌をしばし思い出させた。
「ありがとう」
 雄高は安騎野と何も言わずに見つめ合った。こんな時間を過ごしたかった。ずっと話したかった安騎野と。安騎野自身と。
 雄高はそのまま目を伏せ、安騎野に一礼すると振り返らずに病室を後にした。ホールで、彼とすれ違った。雄高が贈った花を活けた花瓶を手に、彼は閉じかけるエレベーターの扉越しに雄高に向かって静かにお辞儀をした。
 ぱたんと扉が閉まり、雄高は壁によりかかった。この先、きっと安騎野はあの人と時を過ごすのだ。安騎野の空っぽの腕の中は、彼で満たされるのだろう。
 安騎野は雄高を選ばなかった。そのことが雄高を少しだけ悲しさせたが、それはもう終わったことだ。
 雄高が正面玄関を出ると、向かいの小さな公園のベンチで史彦が待っていた。
「雄高!」
 雄高を見つけ、史彦がうれしそうに大きく手を振る。雄高も胸のあたりで手を振った。
 最後の残暑に陽炎が立つ。雄高はまぶしくて目を細める。
 途端に夏の初めの出来事が走馬灯のように甦った。
 狂おしいほど他人を好きになった夏だった。 はやる胸を押さえて駆け抜けた坂道も、やるせなかった夜の睦言も、あのときにはかけがえのない真実だった。
 雄高は駆け寄る史彦の手を取り、その温もりを確かめる。
 史彦、自分にとってかけがえのない存在。誰よりも大切な存在。
 雄高は史彦と歩いて行く。
 歩いて行く。




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