婚約破棄された地味令嬢は、無能と呼ばれた伯爵令息と政略結婚する ~あなたが捨てたのは宝石でした~

新川 さとし

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第9話 世界中の人の顔を忘れても、私だけは忘れない

 夜会の余韻が、まだ王宮の空気に溶け残っている時間だった。

 私はノエルと並んで、用意された私室へと戻っていた。
 喧騒から切り離された廊下は静かで、遠くから聞こえる楽師の音も、もう別世界のもののように感じられる。

 扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。

「……疲れましたね」

 私がそう言うと、ノエルは少しだけ笑った。

「正直に言えば、頭の方が疲れたかな」

 椅子に腰を下ろす彼の仕草は、夜会の場で見せていた緊張をすっかり解いていて、私はそれを見るだけで、胸の奥がふわりと温かくなった。

 でも、心配なのはエルの心情。

 シャルル様が、前と同じように、些細なことを詰問しては、持ちだした話をエルに片っ端から論破された。

 それで、限界を超えてしまったのだろう。王族にあるまじきほど取り乱して、叫んでしまった。

「いい気になるなよ! 顔の覚えられないお前なんて、どうせ欠陥品だ!」

 騒ぎを聞きつけたアルベール様の差配で、シャルル様は連れ出された。

 エルは、表面では平気な顔をしていたけど、傷つかないはずがない。

 今は、二人きりだ。
 誰に気を配る必要もない。
 誰の名前も、顔も、思い出さなくていい。

 私は彼の向かいに座り、そっと手袋を外した。

「……エル」
「うん?」

 一瞬、言葉を探す。
 けれど、探す必要はなかった。ここでは、言葉を選びすぎる必要がないのだと、私はもう知っている。

「さっきのこと……第二王子殿下に言われたこと、気にしていませんか?」

 エルは、ほんの一瞬だけ目を伏せた。

「気にしていない、と言えば嘘になるかな」

 彼はそう前置きしてから、静かに続けた。

「……は、やっぱり欠陥品なんだと思う」

 胸が、きゅっと締めつけられた。

「顔と名前を覚えられない。社交の場では致命的だ。君がいなければ、今日だって何もできなかった」

 違う。

 その言葉は、あまりにも違いすぎて、私は反射的に首を振っていた。

「それは、“欠陥”ではありません」

 はっきりと、断言する。

 エルが少し驚いたように、こちらを見る。

「確かに、あなたは顔を覚えるのが得意ではありません。でも、その代わりに、あなたは“人を見る”ことができます」
「……?」
「名前を聞いた瞬間に、その人の領地、立場、抱えている問題、必要な解決策まで理解する。それは誰にでもできることではありません」

 私は、彼の目をまっすぐに見た。

「あなたは、“人”ではなく、“国”を見ているんです」

 エルの唇が、わずかに震えた。
「……クリス」

「あなたは、私が誇れる人です」

 言葉にした瞬間、不思議と迷いはなかった。

 エルは震える手で、そっと私の頬に触れた。その指先は驚くほど熱い。

「ねえ、エル。名前を呼ばなくても、私が誰か、わかりますか?」

 ふと思いついて問いかけると、彼は愛おしそうに目を細め、迷いなく頷いた。

「わかるよ。どんなに意識の中で他の人の顔がぼやけても、君が纏っている空気の優しさは違うんだ。君だけは、すぐにわかる。世界で一人、君のことだけは、絶対に間違えない」

 その言葉は、どんな愛の囁きよりも私の胸を打ち抜いた。 

 世界中の人の顔を忘れても、私だけは忘れない。

 そう言われた意味を、私はしばらく噛みしめていた。それが、どれほど特別なことなのかを……

「私は、ただ補っているだけ。あなたが安心して力を発揮できるように、場を整えているだけです」

 それは、政略的な役割でも、義務でもない。

「クリス」
「それでも足りないなら、私が、あなたの一番の味方になります」

 そう言ってから、私は一歩だけ距離を詰めた。
 その一歩に、もう迷いはなかった。
 
 夜会でも許されない距離。
 けれど今は、誰の目もない。

 上目遣いに彼を見上げると、エルの瞳に私が映っていた。

 そっとエルの胸元に手を置いた。

 上質な生地越しに、驚くほど速い鼓動が指先に伝わってくる。

「……震えてますね。あんなに堂々と王子殿下を論破した方が」

 からかうつもりはなかった。
 ただ、知ってほしかっただけだ。

「欠陥品なんかじゃありません。ちゃんと、ここで生きている。あなたは、私の目の前で」

 エルの手が、ためらいがちに私の背に回る。
 抱き寄せるほど強くはない。
 けれど、逃がさないと決めた手だった。

「……クリス」

 名前を呼ばれるだけで、胸が熱くなる。

 私はそのまま、彼の額に自分の額をそっと重ねた。
 息が触れるほどの距離で、微笑む。

「一人で立てなくてもいいんです。隣に、私がいるんですから」

 エルの目が、潤んでる。

「隣に立つことを、誇りに思える人。背中を預けてもいいと思える人。それだけで、十分すぎるほどです」

 沈黙が落ちた。

 けれど、それは重い沈黙ではなかった。
 水面に波紋が広がるのを、二人で見つめているような時間。

「……ありがとう」

 エルの声は、少し掠れていた。

「君がそう言ってくれるなら……僕は、もう少しだけ、自分を許せそうだ」

 私は立ち上がり、そっと彼の前に歩み寄る。

「許す必要なんてありません。あなたは、最初から十分なのですから」

 ノエルが、そっと私の手に触れた。
 指先が、少しだけ震えている。

「ねえ、クリス。ひとつ、聞いてもいい?」
「はい」
「……君は、僕といるのが、幸せ?」

 その問いは、政略でも、義務でもない。
 ただ一人の男性としての、不器用な問いだった。

 私は、微笑んで頷いた。

「ええ。とても。だって、あなたと一緒にいる自分を、とっても好きになれますから」

 彼の手が、少しだけ強く、私の手を握る。

 言葉はもう、必要なかった。

 信頼は、いつの間にか形を変え、
 確かな“想い”として、そこにあった。

 夜は静かに更けていく。
 その静けさの中で、私は確信していた。

 ――この人となら。
 どんな未来でも、並んで歩ける、と。
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