餓鬼夢

憑依現象

　詩織は、病院に付属した医療関係者用の図書室にいた。
　病院にはふたつの種類の図書室があって、入院している患者が利用できる図書室と、医師や看護師などが医学・医療情報を調べるための病院図書室がある。病院図書室は、その病院に所属している職員だったら、誰もが24時間いつでも利用できた。
　先ほどまで白衣姿の医師らしき男性が専門書を広げて何かを調べていたが、今は図書室の中は詩織ひとりだけだ。部屋は小学校や中学校の図書室程度の広さで、決して広くはないが、流石に医療関係者用の図書室だけあって医学や医療の専門書がぎっしりと書棚に並んでいる。
　詩織は机の上に何冊かの書籍を積み上げて片っ端から読んでみる。
　まずは、野村の症状を医学的見地から調べてみた。　
　ある日を境に、野村はまるで別人のように変わってしまったという。
　その症状から疑われるのは、双極性障害、解離性同一性障害、統合失調症、パーソナリティ障害等がある。
　さらに晶子の話では、野村は何か別のモノが頭に入ってくる、と云っていたらしい。
　別のモノ。
　いわゆる、狐や幽霊などが憑依してくるということだろうか。憑依妄想があったのか。
　精神疾患の診断基準である、【精神疾患の診断・統計マニュアル5DSM5（Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders）】では、憑依にあてはまる診断を探すと『解離症群／解離性障害群』という項目に求める事ができる。
　それは、統合失調－情動精神病、または精神病像を伴う気分の障害という非定形内因精神病群というものだ。
　他には、WHOのICD-10の診断基準もあった。それは、解離性【転換障害】の項目の『トランス及び憑依障害』というもので、現在認識している自分自身というものが一時的に認識不能になり、それに取って代わって他の人格や、霊魂、神などに取り憑かれているように、振る舞うことということが憑依とされている。
　具体的な診断としては、心因反応、解離性ヒステリー、拘禁反応、統合失調症、非定形精神病、祈祷性精神病、憑依型感応精神病、他には癲癇や鬱病にもみられる。
　特に、祈祷性精神病と憑依型感応精神病に詩織は注目した。
　祈祷性精神病というのは、霊魂とか超自然的なものを信じている人間が、占いとかまじないとかに耽っていると、偶然の出来事や、異様と思われる体験、あるいは霊媒師の加持祈祷による暗示作用を契機として、人格変換、宗教妄想、憑依妄想を発し、数日から数カ月にわたって経過する症例だ。
　疾病学的には、宗教的エクスタシーを伴う、変質性精神病、夢幻精神病、苦悶・至福精神病といった非定形精神病との関連が考えられる。
　憑依型感応精神病というのは、ある人間が祈祷性精神病を発病したとすると、まるでウイルス性の伝染病のようにその憑依状態が回りの人間に伝染していく症例をいう。
　憑依型感応精神病の症例では、このような事例が報告されている。
　ある村で一人の体の不調を訴える女性が、祈祷師に治療のため加持祈祷してもらっていたら祈祷性精神病を発病し、霊に取り憑かれたと暴れ回った。
　すると、この憑依状態が周りの家々にも波及して、女性９人が憑依状態を呈したという。　　
　………まさか。そんなことがあるのだろうか。憑依状態が、周りの家々に波及するなんて。
　いくらちゃんとした医学書に症例報告として記されていても、詩織はにわかに信じることができない。
　また、最近でも中学校や高校でコックリさん遊びを契機として、女子生徒たちが集団ヒステリー状態になったと新聞やテレビでも報道されたという。
　霊の仕業と云われた超常現象を科学的・医学的な立場から解説した本によると、幽霊や動物霊に取り憑かれたという憑依現象は、そのほとんどが精神医学や心理学で説明できるされていた。
　今のところ、収監された精神病院から正式な智紀の診断結果はまだ出ていない。
　野村も智紀も、女が人を食べる夢を見ている。だが、智紀は以前、野村から人が人を食べる話を訊かされと云っていた。それならば、野村の妄想が智紀に伝染して悪夢を見たのだろうか。
　でも、智紀の激しい頭痛が始まったのは、あの保養所の近くのダムに行った後だ。
　それは、野村も同じだ。
　果たして、これは偶然の一致なのだろうか。
　あの場所が、この悪夢の全ての始まりだったような気がしてならない。
　果たして精神医学や心理学で、この現象が説明できるのだろうか。
　詩織は、書籍を閉じると目を瞑った。
　あまりにも色々なことが起こりすぎた。だが、ここで何もかも諦めてしまって、現実を受け入れるだけの自分にはなりたくない。
　智紀を取り戻さなくては。
　私たちは３人家族だ。
　これからもずっと。
　詩織は強く心の中で誓った。