餓鬼夢

にゃあ

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マユミ

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「………ダメだよ、詩織」
 
「いいから! 玲香をこっちに!」
 
「詩織………ダメだ………俺がこうしなけりゃ」
 
「パパ! 智紀! 何を云ってるの!?」
 
「…………」

 どうすればいい? 
 どうすれば。
 詩織は智紀の虚ろな表情を凝視しながら、必死に考える。
 玲香を無理矢理奪って階段から駆け下りる? 
 でも、だめ、玲香を抱いたままあんな急な階段なんて。しかも、階段の板はところどころ腐り落ちている。
 でも、さっきは智紀はすぐに追ってこなかった。
 だから今度もそうかもしれない。
 智紀は玲香を抱いているけど、しっかりと力を込めてはいないはず。
 大丈夫、玲香を取り返せるわ。そしたら、目一杯走ってダムの上に出て車に乗れる。
 車に乗れば何とかなる。
 ———今よ、チャンスは、詩織は玲香を奪い取ろうと、手を伸ばした。
 一瞬早く、智紀は素早い動きで後ろに下がる。
 
「ダメだよ、詩織、もう渡さない………じゃあ俺は行くよ、やることがあるんだ」

 智紀は玲香をしっかりと抱きしめたまま、階段に向かって歩いていく。
 
「何? どこに行くの? ちょっと待って!」

 智紀は詩織の言葉に振り向きもせず階段に脚を掛けた。
 
「待って!」

 智紀は静かな足取りで階段を下りていく。
 
「マユミさん!」

 詩織は叫んだ。
 智紀の脚が止まった。
 
「マユミさん! あなたなんでしょう?」

「…………」

 智紀は動かない。  
 
「………そうなんでしょう? マユミさんあなた、そこにいるんでしょう?」
 
「………マユミ? 誰だ? それは」

 智紀が呟くように云う。
 
「パパ! あなたに取り憑いている霊よ! パパはその霊に操られているのよ」
 
「………俺が霊に?」
 
「そう、ここ、ここで、マユミさんは恐ろしい体験をしたの。その体験に縛られ妄想を起こして自らも同じことを起こそうとした、そして死んだの。マユミさん、あなたいるんでしょう? ね、もう、あなたは死んでいるのよ。私の夫の身体を返してちょうだい。あなたは死んでいるのにまた同じことを繰り返そうとしているのよ」
 
「…………違う。俺は、俺だ」
 
「だったらあの夢は何なの? あの子どもが食べられちゃう夢。それこそがマユミさんが実際に見た、母親に殺され食べられたお姉さんのことなのよ」
 
「…………」
 
「そしてマユミさんは自分も同じように娘さんを殺してしまった。それは連鎖のようにマユミさんを縛っていた………私には分かるの………私も似たようなものだったから」
 
「…………」
 
「………私もね、自分の娘に、そこの玲香に酷いことをしたの。ただ自分勝手な思いこみだけで、本当にすまないことをしたの。だから………だから、わかるの。マユミさんあなたの気持ちがわかるの」

 詩織は涙を流していた。
 後から後から、涙が溢れてきた。

 私、私、良いお母さんになろうとしたの。
 立派な、誰からも褒められるような………お母さんに。
 自分のお母さんも好きだった。
 大好きだった。
 でも、いつも寂しくて寂しくて寂しくて。
 お母さん、子どものこと好き? 
 ううん。私のこと好き? ね? 好きっていって。
 お母さん、お母さん。
 だから、だから、玲香には良いお母さんになりたかったの。
 玲香が私のこと好き? って訊いてきたら、うん! 大好きだよ! って答えるようなお母さん。
 そして玲香にお母さんのこと好き? って訊いたら、うん! お母さん大好き! って答えてくれるように。
 何故か次から次へ、楽しかった頃の思い出が頭を過ぎっていった。
 玲香を妊娠したと分かったとき。
 何か予感めいたものがあって、そっと薬屋から検査薬を買ってきた。おしっこを紙コップにとって智紀の前でそれを付けた。
 え? 驚いた。ホントに妊娠してた。
 マジかよ! 智紀は驚いたような嬉しいような、どういう顔をしていいか分からないようなポカンとした顔をしてた。
 お腹がどんどん大きくなってきて、何度も何度もその時のことを思い出して笑っちゃった。
 破水して、仕事中の智紀を携帯で呼んで、智紀はすぐ行くって焦ってた。
 玲香は安産だった。生まれるときはもちろん痛かったけど、今から考えてみるとアッという間。
 ホントはね、もっと母親になる実感がほしかったんだ、玲香、すぐ出て来ちゃうんだもの。
 玲香が生まれると、自然と智紀のことをパパと呼ぶようになった。
 初めは照れくさかったんだ。
 パパはね、玲香が生まれる前に夢を見たんだって。
 女の子が産まれる夢を見たんだって。
 
「………マユミさん………」

 智紀は無言だった。
 
「………あなたが愛していた人を思いだして。あなたは絶望だけを生きてきたんじゃない。絶望だけなんてことは無いの。絶対、愛する人、そしてあなたを愛した人がいたはずよ。そしてあなたの娘さんが生まれたときも絶望だけでなく、心の深い部分では喜びがあったはず。………あなたはお母さんを愛していたのよ。だからお母さんの行動を真似てしまう。お母さんに愛されたかったんでしょう?………」
 
「…………」 
 
「あなたは自分の中で、なんとか幼い頃に経験した恐ろしい出来事と折り合いを付けようと足掻あがいた。だけど、どうしても過去の呪縛から逃れることはできなかった。でもね………あなたは自分の娘も愛していたはずよ。叩いてしまっても………最後に………殺してしまっても………」
 
「…………」 
 
「ね、お願い。返して。玲香と夫を返してちょうだい」
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