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廊下の突き当たりに扉があり、前野はぎこちなくノックする。田辺の声で「どうぞ」と返され、彼は胸を撫で下ろし中に入る。
その部屋は窓もなく、ベッドしかなかった。医務室というよりも牢獄という言葉が相応しい部屋だった。
ベッドに腰掛ける田辺の血色は良く、珍しく微笑みを浮かべている。
前野は違和感を覚えつつ、体調を尋ねる。
「あの、調子はどうですか?」
「心配かけて悪かったね。私はもう大丈夫だ。マエノさん」
マエノさん。そう名を呼ばれ、彼は違和感の正体を知った。
「あんた、田辺さんじゃないな」
あえて言うなら日本人ではあり得ない。名を呼ぶ発音が異なるのだ。まるで外国人、ウェリントンに名を呼ばれた時のような感じだ。
「バレましたか」
田辺の顔が歪み、ウェリントンの顔に変わる。
「ニホンには好奇心は猫をも殺す、という言葉があるそうですね」
ウェリントンはにやりと不気味に笑う。
ぞっとして前野は逃げるように後ずさっていた。
『好奇心は猫をも殺す』は日本の諺(ことわざ)ではない。そんなツッコミもできないくらい、彼は余裕がなかった。
「ハッチさんに、タナベさん、そしてマエノさん。一気にニホンに帰るとなるとまずいですかねぇ」
「田辺さんも日本に戻ったのか?」
嫌な予感を覚えて、ここまで来てしまったが、日本に帰ったのであれば、別の話だった。
なぜウェリントンが田辺のフリをしていたのかはわからないが、前野は安堵する。
「そう。タナベさんもニホンへ帰りました。あなたも帰りたいですか?」
前野はなぜか返事ができなかった。
帰りたかったはずなのに、なぜかウェリントンが本当のことを言っているように思えなかったからだ。
「まあ。シャチクのはずなのにあまり働いてくれないマエノさんは、ここには必要ありません。帰してあげましょう」
ウェリントンがベッドから立ち上がり、前野に近づく。
日本に帰してくれる、そう言われているのに彼は後ずさっていた。
「大丈夫。痛くないですから」
ウェリントンの声は子供に言い聞かせるように、優しいトーンだった。
彼が前野に触れる。すると電撃を受けたような痛みが全身に走った。
「お疲れ様でした」
彼のそんな声を最後に前野は動けなくなった。
「宰相閣下。無事タナベの死体を処理してきました。これは新しい死体ですか?最近のシャチクはすぐ死にますね」
「今回は、私が殺してしまいました。役に立たないシャチクは必要ないですから。処理をお願いします」
動かない体で前野はそんな会話を耳にしていた。
ウェリントンと話しているのは田辺を担いで連れて行った騎士だ。
彼は前野の体を軽々と担ぎあげると、部屋を出ていく。
しばらくして、彼の体が投げ出された。
前野の全身は感覚が麻痺しており、痛みは感じなかった。ただ嗅覚はまだ残っているようで、ひどく生臭い匂いがした。
うつ伏せのまま、少しずつ、前野の体に土が被されていく。
口や鼻から土が侵入してきて、とうとう息ができなくなった。
そうして彼は意識を失った。
☆
「前野さん、もう帰るんですか?」
「ああ。今日の分は終わったからな」
前野は驚いた顔をしている後輩にそう返して、帰宅する。
3日前、彼は自分のアパートで目を覚ました。死んだと思ったら生きていて、少しお漏らししてしまったくらいだ。
あの日から、前野は変わった。あれがどこから夢だったのか、今だにわからない。
ただあの日、彼が消えたのは確かだった。1日ほど彼の記憶が抜けていた。いや、夢の記憶はあるが、あれを伝えるには精神科の受診を勧められそうなのでやめている。
会社には気分が悪くなり帰宅したと伝えている。連絡ができなかったのは体調が悪かったと、付け加えた。
前野がいない間の仕事フォローは、後輩達が担当してくれた。あの陰口を叩いていた後輩達だ。
あの世界で召喚された日本人は使い捨てだった。夢かもしれないが、生きたまま埋められた事は生々しく覚えていて、彼は自分の生き方を変える事にした。
ウェリントンは社畜を選んで召喚している。ならば社畜をやめてしまおう。
前野はそう決めて、ほどほどに仕事をする事にした。今後はきっちり昼食時間も取り休みも、申請するつもりだった。
久々に親の顔を見るのもいいかもしれない。
前野は、今だに会社の鏡を見るのが怖い。けれでも今の自分であれば召喚される事はないだろう。
「世紀(せいき)。おかえりなさい」
前野が溜まっていた有給を使って実家に戻ると、見ないうちに随分老いた両親が出迎えてくれた。
もっと早く帰って来ればよかったという思いに加え、あの世界から戻って来れたという実感が湧いてくる。
「ただいま」
そう返した前野の声は、かなり湿り気があるものだった。
(了)
その部屋は窓もなく、ベッドしかなかった。医務室というよりも牢獄という言葉が相応しい部屋だった。
ベッドに腰掛ける田辺の血色は良く、珍しく微笑みを浮かべている。
前野は違和感を覚えつつ、体調を尋ねる。
「あの、調子はどうですか?」
「心配かけて悪かったね。私はもう大丈夫だ。マエノさん」
マエノさん。そう名を呼ばれ、彼は違和感の正体を知った。
「あんた、田辺さんじゃないな」
あえて言うなら日本人ではあり得ない。名を呼ぶ発音が異なるのだ。まるで外国人、ウェリントンに名を呼ばれた時のような感じだ。
「バレましたか」
田辺の顔が歪み、ウェリントンの顔に変わる。
「ニホンには好奇心は猫をも殺す、という言葉があるそうですね」
ウェリントンはにやりと不気味に笑う。
ぞっとして前野は逃げるように後ずさっていた。
『好奇心は猫をも殺す』は日本の諺(ことわざ)ではない。そんなツッコミもできないくらい、彼は余裕がなかった。
「ハッチさんに、タナベさん、そしてマエノさん。一気にニホンに帰るとなるとまずいですかねぇ」
「田辺さんも日本に戻ったのか?」
嫌な予感を覚えて、ここまで来てしまったが、日本に帰ったのであれば、別の話だった。
なぜウェリントンが田辺のフリをしていたのかはわからないが、前野は安堵する。
「そう。タナベさんもニホンへ帰りました。あなたも帰りたいですか?」
前野はなぜか返事ができなかった。
帰りたかったはずなのに、なぜかウェリントンが本当のことを言っているように思えなかったからだ。
「まあ。シャチクのはずなのにあまり働いてくれないマエノさんは、ここには必要ありません。帰してあげましょう」
ウェリントンがベッドから立ち上がり、前野に近づく。
日本に帰してくれる、そう言われているのに彼は後ずさっていた。
「大丈夫。痛くないですから」
ウェリントンの声は子供に言い聞かせるように、優しいトーンだった。
彼が前野に触れる。すると電撃を受けたような痛みが全身に走った。
「お疲れ様でした」
彼のそんな声を最後に前野は動けなくなった。
「宰相閣下。無事タナベの死体を処理してきました。これは新しい死体ですか?最近のシャチクはすぐ死にますね」
「今回は、私が殺してしまいました。役に立たないシャチクは必要ないですから。処理をお願いします」
動かない体で前野はそんな会話を耳にしていた。
ウェリントンと話しているのは田辺を担いで連れて行った騎士だ。
彼は前野の体を軽々と担ぎあげると、部屋を出ていく。
しばらくして、彼の体が投げ出された。
前野の全身は感覚が麻痺しており、痛みは感じなかった。ただ嗅覚はまだ残っているようで、ひどく生臭い匂いがした。
うつ伏せのまま、少しずつ、前野の体に土が被されていく。
口や鼻から土が侵入してきて、とうとう息ができなくなった。
そうして彼は意識を失った。
☆
「前野さん、もう帰るんですか?」
「ああ。今日の分は終わったからな」
前野は驚いた顔をしている後輩にそう返して、帰宅する。
3日前、彼は自分のアパートで目を覚ました。死んだと思ったら生きていて、少しお漏らししてしまったくらいだ。
あの日から、前野は変わった。あれがどこから夢だったのか、今だにわからない。
ただあの日、彼が消えたのは確かだった。1日ほど彼の記憶が抜けていた。いや、夢の記憶はあるが、あれを伝えるには精神科の受診を勧められそうなのでやめている。
会社には気分が悪くなり帰宅したと伝えている。連絡ができなかったのは体調が悪かったと、付け加えた。
前野がいない間の仕事フォローは、後輩達が担当してくれた。あの陰口を叩いていた後輩達だ。
あの世界で召喚された日本人は使い捨てだった。夢かもしれないが、生きたまま埋められた事は生々しく覚えていて、彼は自分の生き方を変える事にした。
ウェリントンは社畜を選んで召喚している。ならば社畜をやめてしまおう。
前野はそう決めて、ほどほどに仕事をする事にした。今後はきっちり昼食時間も取り休みも、申請するつもりだった。
久々に親の顔を見るのもいいかもしれない。
前野は、今だに会社の鏡を見るのが怖い。けれでも今の自分であれば召喚される事はないだろう。
「世紀(せいき)。おかえりなさい」
前野が溜まっていた有給を使って実家に戻ると、見ないうちに随分老いた両親が出迎えてくれた。
もっと早く帰って来ればよかったという思いに加え、あの世界から戻って来れたという実感が湧いてくる。
「ただいま」
そう返した前野の声は、かなり湿り気があるものだった。
(了)
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