目を凝らして

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ひかりのはなし

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 ゆるく揺れるカーテンの隙間から、冷たい夜が見え隠れしていた。そろそろもうちょっと大きいのにしようか、とか話してからゆうに一年は経ったテレビで、特に興味もないアニメを眺めながらおれたちは、茹でただけの豚肉を食べている。茹でただけの豚肉、洗って切っただけのトマトとレタス、パックを開けただけのキムチ、週末に凍らせていた白米。となりの彼はお気に入りのドレッシングを豚肉にちゃぱちゃぱとかけては、はむ、はむ、と着々とそれらを口に運んでいた。

「ごめんお味噌汁くらい作ればよかったね」
「ん? いや十分よほんと、むしろいつもありがとうね、ほんとに」

 アニメからちらりとこちらに視線を向けて、彼はまた豚肉を口に入れた。そんな、おれべつに感謝されるようなもの作ってないよ。作ってくれるだけでありがたいのよ、ごめんね俺が料理できないばっかりに。……いや、それはいいんだけど。おれはトマトをお箸で掴んで、それからその先を忘れたみたいに、そのまま口にも入れずにぼーっとしていた。なんだか、どうにもひどく疲れていた。彼と楽しい話をしたいのに、彼の笑っている顔が見たいのに、どうしてもだめな日だった。トマトのどろどろにゅるにゅるした種の部分がぺちゃ、とお皿に落ちて、ああもうだめだなあとか思ったら、知らないうちにぽろりと一粒、涙がこぼれ落ちてしまった。

「おっ……!? ちょっ、ちょっとどうした」

 いちどこぼれてしまったら、そこからはもう、どんどん出ていくだけだった。びっくりしてこちらを見る彼の顔がすぐにぼやけて見えなくなって、ううんなんでもない、の言葉も涙でぐしょぐしょに滲んだ。彼のすこし冷たくて骨張った手のひらがそっとおれの背に触れる。とん、とん、というゆったりとしたリズムで触れられて、彼のやわらかいにおいにふんわりと包まれて、涙は余計に止まらなくなってしまった。

 涙がすこし落ち着いてきたころ、彼はティッシュを数枚抜き取って、鼻と目元をそっと拭ってくれた。彼もおれも何も言わなかった。いつのまにか、アニメは消されていて、部屋には静寂がじんわりと満ちていた。

「落ち着いた?」
「……うん」
「何があったのか聞いてもいい?」

 言おうとして少しだけくちびるを開いたけれど、どう伝えていいのかがわからなくて、結局何も言葉にならなかった。彼が困ったように眉を下げて笑う。まあ、言いたくないこともあるよね、と彼は、おれの目尻からまたはらはらとこぼれた涙を指先で拭き取ってくれた。かさついていて冷たくて、ささくれがすこしだけ痛かった。ごめん、ごめんね、ありがと。ううん、でも言いたくなったらいつでも言ってね、聞くくらいしかできないかもしんないけど。ううん、あのね、あの、ごめんちがくて。言い訳じみた言葉ばかりが口からぼろぼろとこぼれ落ちる。無意識のうちに掴んでいた自分の服の裾が、手の中でくしゃくしゃになっている。
 ごめん、べつに悲しいとか、さみしいとかそういうんじゃなくて、なんか今日、ほんとうにだめで。彼の顔をまっすぐに見ることができなくて、見慣れた彼の部屋着のすそを見つめる。もうてろてろになっていて、けれど着心地がいいからと彼が一向に捨てない、かわいい部屋着。あのね、自分で自分がわかんなくなっちゃって、ぜんぶ無理になっちゃって、って、そういうときがたまにあるんだけど、その、だから、……うまく言えないけど、ほんとにそれだけだから、だから大丈夫、ごめん。

「そっか」

 彼はそう言うと、おれの背中をさすっていた手をゆっくりと離した。それから、かたく握り締められたおれの手の甲に触れた。彼の手は大きいから、おれの握りこぶしひとつくらい、すっぽりと包んでしまう。じんわりと力が抜けていく。
 柊、今から言うことは、まあ言わば俺の希望……というか願望だから、だから柊が、嫌だなぁとかそれはちょっとなぁとか思ったら別に守らなくてもいいんだけどね。彼はおれの手にその大きな手を重ねたまま、言葉を選ぶようにゆっくりと言った。うん、なに。あのね、俺に遠慮して、感情を抑え込むのだけはやめてほしいなって。
 彼の目は、じっとおれのことを見ていた。その瞳の中に映っているのは、ただのまっさらなおれだった。どんなに取り繕っても全て解けてしまいそうだった。彼だけは、どんなにだめでもどんなに弱くても、本当のおれを受け入れてくれるような気がした。
 ほら、言いたくないことは言わなくていいし、秘密にしたいことは秘密でいいし、俺の近くにいたくないときはいなくたっていいのよ、寂しいけど。でも、俺に迷惑かなとか、心配かけちゃいけないかなとか思って、我慢するのはやめてほしくて。

「だってさ、もしそれで柊ちゃんがいなくなっちゃったりしたら俺は、……それこそ本当に、どうなっちゃうかわかんない」

 彼が冗談っぽくそう言った瞬間、心臓がぎゅっと縮まったみたいになって、おれは思わず彼から目を逸らした。彼はそれを気にする様子もなく言葉をつづけた。ねえ柊はさ、いつもがんばってるからさ、だからこそ……というか、きっとこれからもたくさん、無理しちゃうようなことがあると思うのね。本当はそれもやめてって言いたいんだけど、柊が決めたことなら尊重したいのよ俺は、……それでもやっぱり、俺くらいにはね、やっぱ。遠慮しないでわがままになってくれてもいいのかなって、思うからさ。
 ぽつんぽつんと紡がれていく彼の言葉を聞きながら、おれは必死で呼吸を整えていた。彼が話すたびに彼の体温が伝わってきて、その温度に安心している自分に気がつく。彼はいつもこうして、おれのことを受け入れてくれる。おれがいちばん欲しいときに、いちばんぴったりの温度の言葉を紡いでくれる。

「……ありがと」
「ううん、落ち着いた?」
「うん、うん」
「ならよかった」

 それから少しのあいだ、おれたちはふたりでぼーっとしていた。彼はおれの硬く握りしめていた手をそっとほぐして握ってくれた。おれはその手を握り返す代わりに彼の肩にもたれかかった。すこし伸びた彼のくせっ毛がそよそよとおれの耳元を撫でる。豚肉もご飯も冷え切っていて、トマトは形が崩れたそのままで、ドレッシングは蓋が開いたままだった。冷蔵庫の中には中途半端に残った食材たちが詰め込まれていて、ジャケットは椅子にかけられたままで、部屋の隅には宅配のたびに増える段ボールが積まれたままになっていた。いつも通りの光景のなかに、いつも通り、おれたちがいた。おれがふへへと笑うと、彼もつられたようにふふふと笑ってくれた。
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