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第6章
襲名会見
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杜若は会見のために病院から一時外出の許可を得た。病院まで迎えに行った綾之助を満足そうに見て、にこにこと笑った。紋司郎も機嫌よく、専務も上機嫌で、綾之助だけが落ち込んでいた。
今さら、やめられないのも分かっているし、杜若も紋司郎もこんなに喜んでくれていて、こんなに幸せなことはないとも思うのだけれど、綾之助は疲労困憊していた。杜若の名を継いで、こういう諸々の精神攻撃に耐えていけるのかどうか、綾之助は自信を持てなかった。
「どうした、綾ちゃん。顔色悪いで」
肩をポンと叩いて、専務が言った。
「緊張してます」
気分が落ち込んでいる、とは流石に言えなかった。本当は諸々の心配事で吐きそうである。
「大丈夫やで。襲名の記者会見は笑いとか取らんでええから、普通に喋ったらええねん」
「え、は、はい」
そんなことは一ミリも心配していなかった。
「綾之助、葦嶋さんからお祝いをいただきましたよ」
紋四郎が箱を持ってきて言った。記者会見の日に合わせて、ホテルに届けてくれたらしい。
「ありがとうございます」
綾之助はそれを受け取って、中を開いてみた。
平打ちの簪だった。丸に二つ花杜若の立花屋の紋をかたどっている。一緒に手紙が入っていることに気づいて、綾之助は胸を高鳴らせた。この筆跡は葦嶋会長のものではない。
「綾之助さん。ご襲名の内定、おめでとうございます。祖父に頼んで、手紙を書かせていただきました。祖父も今回のこと、殊のほか喜んでおり、相模屋の役者さんの幹部昇進として、出来るだけの力添えはしたいと申しております。簪は祖父のアドバイスに従って、私が発注いたしました。これが、相模屋後援会の葦嶋の息子として、あなたにできる最後のことです。六代目芳沢杜若のご活躍を心より願っております。葦嶋拓真」
あなたにできる最後のこと。つまり、決別宣言だ。
分かっていたことだ。なのに、実際に突きつけられると、こんなに辛い。
「どうしたんや、綾」
「え?」
心配そうに紋司郎に声をかけられて、綾之助は戸惑った。
「何を泣いてるんや」
言われて初めて、綾之助は自分が涙していることに気づいた。
「いえ。よいものをいただいたのでうれしくて」
慌てて涙を拭った。
「そろそろ準備せなあかんな」
紋司郎は深く追求しなかった。
「しっかり頼んますよ」
杜若の車椅子を押して、綾之助は会見場へと向かった。
==================
大坂新聞 五月二日 朝刊
「歌舞伎役者の芳沢杜若さん(七二)が二代目芳沢橘香を、井筒綾之助さん(三二)が六代目として芳沢杜若を襲名することが決まり、大阪市内で記者会見した。来年一月、竹田座にて襲名披露公演を行う。
「五代目(杜若)のように、お客様に愛される、上方になくてはならない女方となれるよう、精進してまいります」と綾之助さん。杜若さんは、「杜若という看板を下ろしますが、むしろこれからが勝負と思っとります。上方歌舞伎の芸を次代に伝えるため奮迅していきたい」と語った。杜若さんは二月末に脳内出血で入院して以来療養中。「今はちょっとゆっくりさせてもろてますが、来年の襲名披露公演では、皆様の前に立たせていただきます」と、来年一月に舞台復帰することも合わせて発表された。
綾之助さんは井筒紋司郎門下であったが、今回、以前より薫陶を受けていた芳沢杜若の芸養子となる。
==================
「ちょっと話が盛ってある!」
東京へ向かう新幹線の中で思わず綾之助は叫んだ。
「んん?」
隣の席に座っているのは知八だ。綾之助の読んでいた新聞を見て、はは、と笑った。
「僕、そんなに杜若さんから薫陶受けてないです……」
「ええやん。全然ウソでもないし。それよりほら! こっちのスポーツ紙も読んで! こっちの方が、綾の経歴細かく載せてあるで」
「いえ、もう十分です。ていうか、なんでこんなにいっぱい新聞持ってるんですか?」
「全紙買ったよ。全国紙の関西版、京阪神の地方紙、あとこれ! 奈良の地方紙はさすが綾之助の地元やな、扱いおっきいよ! 紋乃に頼んで買うてきてもろた」
どうしてそんなに。
綾之助も気にはなったので新聞はチェックしたが、買ったのは結局一紙だけである。知八の度を越えた行動はちょっと理解に苦しむ。
綾之助は、蓮十郎の口添えがあって、二日間の休暇を得ていた。蓮十郎から東京行きのチケットとホテルの手配までしてもらい、大阪での諸々のめんどくさい事柄を一時忘れて、東京滞在を楽しめるはずだった。
それなのに、新大阪駅まで行って、お弁当を買って蓮十郎のくれた新幹線の指定席に行くと、なぜか隣の席に知八が座っていたのだ。
「なんでここに?」
「蓮十郎兄さんに頼んで、僕も行かせてもらうことになってん」
蓮十郎さん。うち、何も聞いてません。
「ホテルも同じホテルやから」
「え!」
「嫌か?」
綾之助が大げさに驚くと、知八は少しすねたように言った。
「いや、嫌とかではないんですけど」
ただ、せっかく一人でゆっくりできると思っていたので、ちょっと期待が外れただけだ。
「じゃあええよな。なあなあ、蓮十郎兄さんの舞台はじまるまでどこ行く? 僕、スカイツリー登りたいんやけど、ちょっと遠いかなあ? 綾はどっか行きたいところある?」
「え、いえ。特には」
「じゃあスカイツリーでいい? 楽しみやなあ」
知八は非常にご機嫌だった。仕方ないな。綾之助は思った。結局綾之助はかわいいぼんに甘いのだ。
今さら、やめられないのも分かっているし、杜若も紋司郎もこんなに喜んでくれていて、こんなに幸せなことはないとも思うのだけれど、綾之助は疲労困憊していた。杜若の名を継いで、こういう諸々の精神攻撃に耐えていけるのかどうか、綾之助は自信を持てなかった。
「どうした、綾ちゃん。顔色悪いで」
肩をポンと叩いて、専務が言った。
「緊張してます」
気分が落ち込んでいる、とは流石に言えなかった。本当は諸々の心配事で吐きそうである。
「大丈夫やで。襲名の記者会見は笑いとか取らんでええから、普通に喋ったらええねん」
「え、は、はい」
そんなことは一ミリも心配していなかった。
「綾之助、葦嶋さんからお祝いをいただきましたよ」
紋四郎が箱を持ってきて言った。記者会見の日に合わせて、ホテルに届けてくれたらしい。
「ありがとうございます」
綾之助はそれを受け取って、中を開いてみた。
平打ちの簪だった。丸に二つ花杜若の立花屋の紋をかたどっている。一緒に手紙が入っていることに気づいて、綾之助は胸を高鳴らせた。この筆跡は葦嶋会長のものではない。
「綾之助さん。ご襲名の内定、おめでとうございます。祖父に頼んで、手紙を書かせていただきました。祖父も今回のこと、殊のほか喜んでおり、相模屋の役者さんの幹部昇進として、出来るだけの力添えはしたいと申しております。簪は祖父のアドバイスに従って、私が発注いたしました。これが、相模屋後援会の葦嶋の息子として、あなたにできる最後のことです。六代目芳沢杜若のご活躍を心より願っております。葦嶋拓真」
あなたにできる最後のこと。つまり、決別宣言だ。
分かっていたことだ。なのに、実際に突きつけられると、こんなに辛い。
「どうしたんや、綾」
「え?」
心配そうに紋司郎に声をかけられて、綾之助は戸惑った。
「何を泣いてるんや」
言われて初めて、綾之助は自分が涙していることに気づいた。
「いえ。よいものをいただいたのでうれしくて」
慌てて涙を拭った。
「そろそろ準備せなあかんな」
紋司郎は深く追求しなかった。
「しっかり頼んますよ」
杜若の車椅子を押して、綾之助は会見場へと向かった。
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大坂新聞 五月二日 朝刊
「歌舞伎役者の芳沢杜若さん(七二)が二代目芳沢橘香を、井筒綾之助さん(三二)が六代目として芳沢杜若を襲名することが決まり、大阪市内で記者会見した。来年一月、竹田座にて襲名披露公演を行う。
「五代目(杜若)のように、お客様に愛される、上方になくてはならない女方となれるよう、精進してまいります」と綾之助さん。杜若さんは、「杜若という看板を下ろしますが、むしろこれからが勝負と思っとります。上方歌舞伎の芸を次代に伝えるため奮迅していきたい」と語った。杜若さんは二月末に脳内出血で入院して以来療養中。「今はちょっとゆっくりさせてもろてますが、来年の襲名披露公演では、皆様の前に立たせていただきます」と、来年一月に舞台復帰することも合わせて発表された。
綾之助さんは井筒紋司郎門下であったが、今回、以前より薫陶を受けていた芳沢杜若の芸養子となる。
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「ちょっと話が盛ってある!」
東京へ向かう新幹線の中で思わず綾之助は叫んだ。
「んん?」
隣の席に座っているのは知八だ。綾之助の読んでいた新聞を見て、はは、と笑った。
「僕、そんなに杜若さんから薫陶受けてないです……」
「ええやん。全然ウソでもないし。それよりほら! こっちのスポーツ紙も読んで! こっちの方が、綾の経歴細かく載せてあるで」
「いえ、もう十分です。ていうか、なんでこんなにいっぱい新聞持ってるんですか?」
「全紙買ったよ。全国紙の関西版、京阪神の地方紙、あとこれ! 奈良の地方紙はさすが綾之助の地元やな、扱いおっきいよ! 紋乃に頼んで買うてきてもろた」
どうしてそんなに。
綾之助も気にはなったので新聞はチェックしたが、買ったのは結局一紙だけである。知八の度を越えた行動はちょっと理解に苦しむ。
綾之助は、蓮十郎の口添えがあって、二日間の休暇を得ていた。蓮十郎から東京行きのチケットとホテルの手配までしてもらい、大阪での諸々のめんどくさい事柄を一時忘れて、東京滞在を楽しめるはずだった。
それなのに、新大阪駅まで行って、お弁当を買って蓮十郎のくれた新幹線の指定席に行くと、なぜか隣の席に知八が座っていたのだ。
「なんでここに?」
「蓮十郎兄さんに頼んで、僕も行かせてもらうことになってん」
蓮十郎さん。うち、何も聞いてません。
「ホテルも同じホテルやから」
「え!」
「嫌か?」
綾之助が大げさに驚くと、知八は少しすねたように言った。
「いや、嫌とかではないんですけど」
ただ、せっかく一人でゆっくりできると思っていたので、ちょっと期待が外れただけだ。
「じゃあええよな。なあなあ、蓮十郎兄さんの舞台はじまるまでどこ行く? 僕、スカイツリー登りたいんやけど、ちょっと遠いかなあ? 綾はどっか行きたいところある?」
「え、いえ。特には」
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