その正体

烏屋鳥丸

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11 一線を越える

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諦めようと思った。
彼女を好きな気持ちは消せないけれど、彼女に想いを伝えようとするのはもうやめようと思った。
今まで通り遠くから眺めてるだけでいい。
彼女と話したいだとか、彼女に触れたいだとか、そんな欲望はもう心の奥底に隠してしまおう。
叶わないんだ。叶えちゃいけないんだ。
彼女には大切な人がいる。
彼女が幸せならば、それでいいと思った。

ジャックと酒を酌み交わしたあの日の翌日は、彼の言う通り酷い二日酔いで目が覚めた。
頭はガンガンするし、酷い胸焼けで気持ちが悪い。
重たい身体を引きずってシャワーを浴びに行けば、泣いて腫れた目にゲッソリとした頬。
とても自分だとは思えないほど、酷い顔の男が鏡に映った。
何やってるんだろうな、自分。
確かに全てがどうでもよくなった。
同時に、諦めがついたのだ。
彼女への未練なんて、シャワーと一緒に流してしまおう。
この恋は、もう終わり。
冷たいシャワーを頭から浴びれば、気分がスッキリした。

それからは仕事に打ち込んだ。
いつも以上に頭を使い身体を使い、彼女のことなんて考える余裕もないくらい忙しく過ごした。
幸い彼女と顔を合わせることもなかったし、働いていれば幾分か気分が紛れた。
これでいいのだ。きっと、これが正解なのだ。
大丈夫、ちゃんと区切りはつけられる。
自分はそこまで馬鹿な男じゃない。

連日仕事に打ち込み、さすがにノエルも疲れていた。
少しオーバーワーク気味かな、とこの日は定時で仕事を終えまっすぐ帰宅することにした。
久しぶりにゆっくり湯船に浸かり身体を温める。
心地よさに目を瞑ると、浮かんできたのは彼女の笑顔だった。
収穫祭のあの日、こっそりと耳打ちしてくれた彼女は可愛かったな。
土砂降りのあの日、抱きついてきた彼女の身体は柔らかかった。
彼女の手の温もり。細い肩。唇の感触。
彼女にもう一度触れたい、キスしてみたい、そう思ってしまった。
ダメだ、ダメだ、ダメだ。
何を考えているんだ、自分は。
彼女に初めて触れたあの日から、彼女の感触が忘れられない。
今まで考えもしなかった欲が生まれてしまったのだ。
やっぱり考える時間があるのはよくない。
今日は早めに寝てしまって、明日はいつもより早めに家を出よう。
風呂から上がって服を着て濡れた髪のまま冷たい水を飲む。
喉の渇きは潤せても、心はどんどん渇いていくようだった。

ふいに、コンコンと控えめに扉を叩く音が聞こえた。
こんな時間に誰だろう。
はーいとノックに返事をして玄関へ向かう。
家にまで訪ねてくる人物は数人しかいない。
自分は顔は広い方ではあるが、交友関係は意外と少ない。
アダムかジャックか焔か。
扉を開けると、そこには意外な人物が立っていた。

「こんばんは、ノエル君。」

「アンジェラさん…?どうして…。」

そこに立っていたのはアンジェラだった。
天使のような微笑みを見た瞬間、気持ちが揺らいだ。
やっぱり彼女が好きだ。諦めるなんて、無理だ。
抑えていた感情が揺り戻される。

「この前借りてた服、返しに来たわ。」

彼女は紙袋を一つ差し出した。

「洗っても血が落ちなかったから…新しいものを買ってきたんだけど…気にいるかしら?もちろん、サイズは同じものにしたわ。」

「そんな、いいのに…。」

「遠慮せずに受け取って。」

「ありがとうございます…。」

受け取った紙袋の中には真新しいシャツが1枚入っていた。
律儀な人だな、と思った。
汚してしまったのは自分なのだから、そのまま返してくれてもよかったのに。
あの日のことを思い出す。
彼女にキスをして、彼女を押し倒したあの日。
無意識だった。身体が勝手に動いた。気持ちが抑えられなかった。
自分がそんな短絡的で衝動的な人間だとは思っていなかった。
どちらかと言うと、理性的で論理的で自己抑制ができるタイプの人間だと自負していた。
あの日。あの時、鼻血が出なければ、自分は彼女をどうしていたんだろう。
そう考えると、ひどく恐ろしく、なんだか恥ずかしい気持ちになった。

「お礼にケーキを買ってきたんだけど…一緒に食べない?」

アンジェラはもう一つ、手に持っていた紙袋を見せた。
有名スイーツ店のロゴが入った紙袋。
一緒に食べる。それは、家に上がることを意味する。

「すみません、それは…ちょっと…。」

「どうして?」

「だって…彼氏、いるんですよね。他の男の家に上がるのはダメですよ。そういうのよくないです。彼氏にも悪いし…。ほら、体裁的にも…。お互い、立場もありますし…。」

彼女を家に上がらせない理由をつらつらと並べる。
彼女は不思議そうな顔をして、その言葉を遮った。

「彼氏?いないわよ?」

「えっ、だって…。」

「あぁ、別れたの。だから彼氏はいないわ。」

「…本当に?」

「ええ、本当よ。ノエル君、私のことが信じられない?」

「そういうわけじゃ、ないですけど…。」

「ねぇ、ノエル君。私、もっとノエル君とお話したいな。」

その天使は可愛らしく小首を傾げる。
直感的に、嘘だと思った。
けれど、その嘘に騙されてしまいたい欲が、芽生えた。
ノエルは迷った末、どうぞ、と彼女を部屋へと招き入れる。
これは多分、自分が嫌う『悪いこと』だ。

ケーキを皿に移し、コーヒーを淹れる。
生クリームで可愛らしいデコレーションがされたショートケーキ。
客用のティーカップにはブラックコーヒーを注ぎ、自分用のマグカップにはミルクをたっぷりと入れたコーヒーを注いだ。
それらをテーブルに並べ、アンジェラが座るソファの横に腰掛ける。

「…どうして、俺のとこに来たんですか。」

「服、返さなきゃとおもって。」

「そうじゃなくて…。」

当たり前のように彼女は答え、コーヒーに口をつける。
服を返すだとか、お礼のケーキだとか、そんなものは全部後付けの理由だと思った。
そうであったらいい、と淡い期待をしてしまった。

「…言い方、変えます。…どうして、俺に会いに来てくれたの…?」

「ノエル君が、私に会いたがってると思ったから。」

いたずらっ子のような笑みで彼女は答える。
その通りだった。彼女に会いたくて堪らなかった。
その目に自分を映してほしかった。
その声で自分の名前を呼んでほしかった。
その手で自分に触れてほしかった。

「アンジェラさん…人の心が読めるの?」

「そんなわけないじゃない。」

おかしそうに彼女はクスクスと笑う。

「本当は…私が、ノエル君に会いたかったからかな。」

「それって…。」

「ねぇ、ノエル君。私は貴方が好きよ。もっと貴方のことが知りたいと思っちゃった。…迷惑だったかしら?」

ノエルはブンブンと首を降る。

「迷惑じゃない。」

彼女に彼氏がいるのではないかと疑惑を抱いた時、彼女の隣に立つのは自分じゃないと知り、酷く心が揺れた。
彼女が彼氏はいないと言った時、彼女の隣を誰にも譲りたくないと思った。
この気持ちを知られないまま、他の誰かのものになるのは嫌だと思った。

「あのっ…俺…。」

隠していた彼女への想いが、口から溢れる。

「アンジェラさん…。貴女のことが…好きです。子供の頃からずっとずっと…貴女のことばかり考えて生きてきました。貴女のことが好きで好きで堪らない。好き、なんです。」

ロマンチックの欠片もない稚拙で幼稚な告白だった。
それでも、今のノエルには精一杯の告白だった。
彼女は笑うことなくその告白を黙って聞いた。
そしてノエルの手を取り、その綺麗なアーモンドの瞳をゆるりと薄めた。

「嬉しいわ。私も同じ気持ちよ。」

彼女の顔が近づいてくる。
ノエルは目を閉じ、その唇を受け入れた。
柔らかい感触が唇に触れ、離れていく。
名残惜しくて、ノエルはその唇を追いかける。
どちらともなく、何度も触れるだけのキスをした。
彼女の細い肩を抱きしめ、逃がさないように閉じ込めて。
唇を離し、見つめ合って、また口付けて。
止まらなかった。離れたくなかった。
このまま彼女の全部を自分のものにしたかった。
繰り返したキスの後、唇が離れると彼女はそのなめらかな手でノエルの頬をなぞった。

「ふふっ、物足りないって顔してる。」

がっついてしまってみっともないと思われただろうか。
自分より少し年上なだけあって、アンジェラは余裕そうに微笑む。
嫌だな、嫌われたくない。
もっと紳士的に振る舞わないといけないのに。
必死にこの欲望を理性で押さえつけようとする。
そんなノエルの気持ちを崩すように、彼女は耳元で囁いた。

「ねぇ、ベッド行く?」 

「…行く。」

この日、ノエルは初めてアンジェラと身体を重ねた。





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