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王太子の浴室で
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「ん……っ……」
――ここは……?
周りを見渡すと、侯爵家の屋敷にある自分の部屋ではないと気が付いた。厚手の生地の窓掛けは光沢感があり、細部まで丁寧に金色の糸で刺繍が施されている。ベッドも大きく、弾力性がありふかふかだ。
「起きたか」
扉が開いて、ギルバートが顔を向けて言う。
マシューは驚いた。寝起きのまだ完全に働かない頭で必死に昨夜の出来事を思い出す。
「ここは俺の部屋だ。執務室でお前が寝たのでここへ連れて来た」
昨日は治療と診療所までの往復などかなり動いたし極度の緊張もあった。どうやら薬のことを告白し、ほっとして眠ってしまったらしい。マシューは咄嗟に謝罪した。
「殿下、ご迷惑を――申し訳ございません」
「昨日は疲れたんだろう、構わない」
マシューは自分の服を確認すると、マントとベルト、靴は脱がされているがそれ以外は昨日の装いのままだ。
良かった。シャツを着ているから、多分あれは見られていないと安心する。
ギルバートはその様子を、フィルの時の顔をして見ている。口元が緩み、何か思い出している様子だ。マシューは自分がおかしなことをしたのかと不安になったが、「本当にお前は外見から得る印象と違うな」とギルバートは答える。
その目は記憶の中の、ローレルを見つめる目と同じ優しさを含んでいるように見受けられた。
なのでマシューは相手が王太子殿下ということを失念し、ローレルとフィルの間柄のように訊いてしまった。
「どこが?」
ギルバートは全く気にしていないようで、ベッドの縁に近づきながら話す。
流石は王太子殿下用という大きさと豪華さのベッドだが、ギルバートが座ったのはまだ毛布にくるまりながら体を起こしたマシューと、肩が触れるか触れないか……という感じの位置だ。
「昨日寝ていた時、お前が抱きついてずっと離れず俺を欲しがるので驚いたぞ。おかげで寝不足だ」
「…………」
自分が無意識にそんなことをしていたとは衝撃だった。マシューは顔を真っ赤にして俯いた。
「殿下っ、大変失礼なことを――」
――というか、殿下と一緒に寝たってこと?僕、『フィル』って言ってないよね?
羞恥心でいたたまれない。できることなら逃げ出してしまいたい。
「本当に……ご迷惑おかけして申し訳ありません」
「何も怒っていない。むしろ完璧な王子様と言われているお前があんな甘えてくっついてくるなんて……正直可愛くて驚いたぞ」
「………………!」
「照れているのか」
「王子様は……殿下では、ありませんか」
真っ赤になりながらそう言うと、ギルバートは体を震わせながら笑う。普段聞いていた王太子殿下の人物像と違い、やはりローレルとバジルに見せていたフィルの方が、彼の人となりのようだ。
でも、フィルはローレルの王子様。
その証拠に『印』が熱く反応している。
――やっぱり……
そして――もうひとつのあれも。
マシューは王太子に見つからないように、毛布を手繰り寄せた。これで膨らみは目立たないはずだ。だが、心臓の音は聞こえてしまうほどに速く鼓動している。
「さて、昨日はあのまま寝てしまったからな。浴室は隣の部屋の奥にある。着替えを用意させるので使ってくれ」
「ありがとうございます。ですが、これ以上ご迷惑かけられません。屋敷へ戻り準備しますので……」
「迷惑だと思っていたらそもそもこの部屋へ連れて来ていない。今日は昨日の怪我人を搬送する予定が詰まっている。着替えたらここで朝食を取って直接衛生部へ行け、そのほうが早いからオーウェンも助かるだろう」
そう言われて反論するのは無駄だ。
だがマシューはすぐに立ち上がれない。
「どうした? 疲れて動けないのか」
「いえ、そういうことでは……」
王太子が不思議そうにマシューを見る。
「あの……大変申し訳ありませんが、準備しますので……」
だが、王太子殿下に「向こうに行ってほしい」など言えるわけがない。俯いて声にならない文字を口の中で遊ばせる。
マシューは動くことができない。恥ずかしさからなのか興奮しているのかも自分では分からず、ただ顔を赤く染めている。
一瞬戸惑った王太子だが、すぐに何か察したように視線をマシューのあの場所に向けた。
「もしかして……お前――」
「それ以上、言わないでください……」
マシューは今にも泣き出しそうな声で言う。
「恥ずかしいことではない。若いので当たり前だろう」
「…………」
「最近していないのか?」
「……しておりません」
「特定の相手はいないのか?」
「……おりません」
「娼館の利用は?」
「…………しません」
「それは勤務が忙しくて時間がないからか?」
「…………いえ、行為を……したことがありません」
マシューは本当に泣き出しそうになった。とはいえ、王太子が尋ねたことは普通の疑問だ。
「意外だな。俺が手伝うか?」
心臓が飛び出るかと思うくらい驚いたが、そんなことは有り得ない。
「いえ……自分で何とかします。本当に申し訳ございませんが、浴室を貸していただけますか」
マシューは羞恥心で顔を向けることができず、俯きながら消え入るような声で言った。
やっとの思いで脱衣所まで辿り着くと、服を脱いでから浴室に入りお湯を出す。
広い造りの部屋とはいえ隣に王太子がいると思うと恥ずかしかったが、真ん中で立ち上がっているそれを手で掴み扱いていく。
王太子が壁の向こう側にいるという意識がよりマシューを興奮させ、どろどろとした感情を一気に放出させた。
出し切るとマシューは頭からシャワーを浴びる。昨日の汚れが一気に落ちていき気持ちが良い。置いてあった石鹸を使ったが、普段王太子が使用しているものだと想像してしまう。出したはずの熱が再び戻ってくるようで、慌てて水温を下げた。
マシューは体を洗い終えると、大きなタオルに身を包んだ。だが、用意すると言ってくれていた着替えはない。水滴を拭っていると扉の外からギルバートの声が聞こえてきた。
服を持ってきてくれたようだ。扉を大きく開けられそうになり、マシューは羞恥心から少しだけ開いて隙間から右手だけを伸ばし、お礼を言い受け取る。
ギルバートがマシューの体を確認するために、わざとマシューが脱衣所にいる時を狙って持って行ったのには気付かなかった。
もちろんギルバートが見たかったのは『腹の刺し傷』と――ローレルとの『絆』だ。
――あるわけもないのに、何を俺は期待しているんだ……
ギルバートは自分の考えを振り払うかのように一呼吸置いてから侍従を呼び、朝食の用意を命じた。
マシューが部屋へ入ると、すでにテーブルの上にパンや卵、果物などが置かれていた。
ギルバートの部屋は確かに広くて造りは凝っているが、置かれている家具は最低限という感じの少なさと質素さだ。もちろん部屋の雰囲気を損なわない程度ではある。だが、現在宰相の職に就いているとはいえ、一貴族である父セドリックの部屋の方が余程豪華だ。
そのマシューの疑問を敏感に察したのか、「ここは俺の自室だ。昔から働いている二人しか基本的に入らない。外から見えないところまで王太子として飾る必要はない」と言う。マシューは自分が特別な感じがして少し浮かれそうになったが、『昨日は遅かったから仕方なくかも』と自身に言い聞かせた。
「おはようございます。お飲み物は紅茶でよろしいでしょうか」
聞き覚えのない声で言われ振り向くと、同い年くらいの青年がいた。茶色の髪と明るい琥珀色の瞳、柔和な顔立ちと雰囲気は誰かを彷彿とさせる。
するとギルバートが、「侍従のジェームズ・オールディン、ダヴィンドン伯爵家の三男だ」
「ジェームズ。こっちはマシュー・リュート、シャーディル侯爵の息子だ。現在衛生部所属なのは知っているだろう」と紹介してくれた。
マシューはもちろん、彼がハリーが言っていた王太子殿下付きの侍従で、末の弟だと分かった。
だがギルバートはそれを口にしない。ダヴィンドン伯爵家にとってハリーは聞きたくもない名前だからなのか、フィルとしてハリーを知っていることを言いたくないからなのかは不明だ。
でも、身分証はこの侍従に用意してもらったはずだよな? それは交流する可能性がないからか……
マシューの思案を止めるかのように、ジェームズが再度飲み物の確認をしてくる。
淹れてもらった紅茶はウィルバーがいつも用意するものよりいくらか濃い。だが苦味はなく、体に染み渡りお腹が空いてくる。
手早く朝食を食べ終えると、マシューは浴室で身支度を整えてから軍事宮にある衛生部へと向かった。
ギルバートも侍従に着替えを手伝わせながらダリス王国に派遣した調査隊の進捗について尋ねた。
「使者によりますと、大方の調査を終え間もなく帰途につくとのことでしたから、おそらく二週間以内にご報告できると思います」
「分かった。それと怪しい動きをしている者はいたか」
「前に送った使者ですが、ダリス王国に入ってから消息が途絶えました。単なる事故かもしれませんが、調査隊の中の人物かダリス国内で動いている人物の仕業の可能性も否定できません。使者は変装に長けており慣れている者でしたので、確証はまだありませんがもし消されたのでしたら、内政宮の者と繋がっていることが考えられます」
「目星はついているのか」
「人物については現在調査中です」
ギルバートが頷いてから、ジェームズが続ける。
「その他にですが――気になる情報をひとつ耳にしました」
「何だ?」
「今回のこととの関係性は分かりません」
「取り敢えず聞くぞ」
「…………」
「お前が言い淀むなんて、よっぽど言い難い人物なのか。構わない、言ってみろ」
「――国王陛下の愛妾でいらっしゃるゾーイ様とリュート宰相が人目を盗んで度々密会しているとの話です」
ギルバートは侍従の口から出てきた意外な人物の名前に一瞬瞠目する。
「それをマシューは知っているのか」
「おそらくご存知ないかと……目撃したのは昔からいる王宮付きの忠実な使用人で、物事の判断に長けている男です」
要するにいくら不義の密会現場を目撃したとしても、面白がって誰彼構わず言いふらす人物ではなく、今回ジェームズに打ち明けたのはそれが王太子に伝わることを見越してということだ。
マルフォニアにおいて、伴侶以外と関係を持つことは褒められる話ではないが、珍しいことでもない。そもそも国王が半ば公に愛人を持っているのだ。
ならば、その使用人が情事以外に何か懸念を抱いたと想像するのは容易い。だが、リュート宰相は今ままでそういった噂話を立てられたことはないし、本人はマシューのように真面目な男だ。
「俺は知らないが――以前から仲が良かったのか?」
「いえ、私の知る限りでは、二人に公務以外での接点はなかったかと。今回のことも知っているのは先ほどの彼も含め我々のみかと思います」
マシューの父であるセドリック・リュートは宰相や大臣を輩出したことのある名門シャーディル侯爵家出身で、自身も約七年前から宰相を務めている。今と違い、まだ父が国王としての公務を担っていた頃だ。
リュートは文官としての最高位まで登りつめたが、確かその父親と祖父はそこまで出世はしなかったはずだ。
「彼の評判はどうだ? 勤務態度や領地経営についてだ」
ジェームズは頭の中の記憶を探るように、少し間をおいてから答えた。
「そういえば――以前書類を整理した時に気になったのですが……侯爵家の財政で少し不自然な金の流れがありました。先代が借金をしていたようです」
「借金? それは初耳だぞ。どちらかといえばあいつの家は裕福だと思うが」
「ええ。ですがすでに返済がすんでおり、現在は領地経営など、特に問題は聞こえておりません」
「返し終えたのはいつの話だ?」
「後ほど確認いたしますが――確か前侯爵が亡くなる直前、現侯爵が若い頃であったかと」
「マシューの父親か……」
ギルバートは何かを考えるような顔をしてから、ゾーイとリュートの関係、借金の経緯を調べることをジェームズに指示し、軍事宮へ向かった。
――ここは……?
周りを見渡すと、侯爵家の屋敷にある自分の部屋ではないと気が付いた。厚手の生地の窓掛けは光沢感があり、細部まで丁寧に金色の糸で刺繍が施されている。ベッドも大きく、弾力性がありふかふかだ。
「起きたか」
扉が開いて、ギルバートが顔を向けて言う。
マシューは驚いた。寝起きのまだ完全に働かない頭で必死に昨夜の出来事を思い出す。
「ここは俺の部屋だ。執務室でお前が寝たのでここへ連れて来た」
昨日は治療と診療所までの往復などかなり動いたし極度の緊張もあった。どうやら薬のことを告白し、ほっとして眠ってしまったらしい。マシューは咄嗟に謝罪した。
「殿下、ご迷惑を――申し訳ございません」
「昨日は疲れたんだろう、構わない」
マシューは自分の服を確認すると、マントとベルト、靴は脱がされているがそれ以外は昨日の装いのままだ。
良かった。シャツを着ているから、多分あれは見られていないと安心する。
ギルバートはその様子を、フィルの時の顔をして見ている。口元が緩み、何か思い出している様子だ。マシューは自分がおかしなことをしたのかと不安になったが、「本当にお前は外見から得る印象と違うな」とギルバートは答える。
その目は記憶の中の、ローレルを見つめる目と同じ優しさを含んでいるように見受けられた。
なのでマシューは相手が王太子殿下ということを失念し、ローレルとフィルの間柄のように訊いてしまった。
「どこが?」
ギルバートは全く気にしていないようで、ベッドの縁に近づきながら話す。
流石は王太子殿下用という大きさと豪華さのベッドだが、ギルバートが座ったのはまだ毛布にくるまりながら体を起こしたマシューと、肩が触れるか触れないか……という感じの位置だ。
「昨日寝ていた時、お前が抱きついてずっと離れず俺を欲しがるので驚いたぞ。おかげで寝不足だ」
「…………」
自分が無意識にそんなことをしていたとは衝撃だった。マシューは顔を真っ赤にして俯いた。
「殿下っ、大変失礼なことを――」
――というか、殿下と一緒に寝たってこと?僕、『フィル』って言ってないよね?
羞恥心でいたたまれない。できることなら逃げ出してしまいたい。
「本当に……ご迷惑おかけして申し訳ありません」
「何も怒っていない。むしろ完璧な王子様と言われているお前があんな甘えてくっついてくるなんて……正直可愛くて驚いたぞ」
「………………!」
「照れているのか」
「王子様は……殿下では、ありませんか」
真っ赤になりながらそう言うと、ギルバートは体を震わせながら笑う。普段聞いていた王太子殿下の人物像と違い、やはりローレルとバジルに見せていたフィルの方が、彼の人となりのようだ。
でも、フィルはローレルの王子様。
その証拠に『印』が熱く反応している。
――やっぱり……
そして――もうひとつのあれも。
マシューは王太子に見つからないように、毛布を手繰り寄せた。これで膨らみは目立たないはずだ。だが、心臓の音は聞こえてしまうほどに速く鼓動している。
「さて、昨日はあのまま寝てしまったからな。浴室は隣の部屋の奥にある。着替えを用意させるので使ってくれ」
「ありがとうございます。ですが、これ以上ご迷惑かけられません。屋敷へ戻り準備しますので……」
「迷惑だと思っていたらそもそもこの部屋へ連れて来ていない。今日は昨日の怪我人を搬送する予定が詰まっている。着替えたらここで朝食を取って直接衛生部へ行け、そのほうが早いからオーウェンも助かるだろう」
そう言われて反論するのは無駄だ。
だがマシューはすぐに立ち上がれない。
「どうした? 疲れて動けないのか」
「いえ、そういうことでは……」
王太子が不思議そうにマシューを見る。
「あの……大変申し訳ありませんが、準備しますので……」
だが、王太子殿下に「向こうに行ってほしい」など言えるわけがない。俯いて声にならない文字を口の中で遊ばせる。
マシューは動くことができない。恥ずかしさからなのか興奮しているのかも自分では分からず、ただ顔を赤く染めている。
一瞬戸惑った王太子だが、すぐに何か察したように視線をマシューのあの場所に向けた。
「もしかして……お前――」
「それ以上、言わないでください……」
マシューは今にも泣き出しそうな声で言う。
「恥ずかしいことではない。若いので当たり前だろう」
「…………」
「最近していないのか?」
「……しておりません」
「特定の相手はいないのか?」
「……おりません」
「娼館の利用は?」
「…………しません」
「それは勤務が忙しくて時間がないからか?」
「…………いえ、行為を……したことがありません」
マシューは本当に泣き出しそうになった。とはいえ、王太子が尋ねたことは普通の疑問だ。
「意外だな。俺が手伝うか?」
心臓が飛び出るかと思うくらい驚いたが、そんなことは有り得ない。
「いえ……自分で何とかします。本当に申し訳ございませんが、浴室を貸していただけますか」
マシューは羞恥心で顔を向けることができず、俯きながら消え入るような声で言った。
やっとの思いで脱衣所まで辿り着くと、服を脱いでから浴室に入りお湯を出す。
広い造りの部屋とはいえ隣に王太子がいると思うと恥ずかしかったが、真ん中で立ち上がっているそれを手で掴み扱いていく。
王太子が壁の向こう側にいるという意識がよりマシューを興奮させ、どろどろとした感情を一気に放出させた。
出し切るとマシューは頭からシャワーを浴びる。昨日の汚れが一気に落ちていき気持ちが良い。置いてあった石鹸を使ったが、普段王太子が使用しているものだと想像してしまう。出したはずの熱が再び戻ってくるようで、慌てて水温を下げた。
マシューは体を洗い終えると、大きなタオルに身を包んだ。だが、用意すると言ってくれていた着替えはない。水滴を拭っていると扉の外からギルバートの声が聞こえてきた。
服を持ってきてくれたようだ。扉を大きく開けられそうになり、マシューは羞恥心から少しだけ開いて隙間から右手だけを伸ばし、お礼を言い受け取る。
ギルバートがマシューの体を確認するために、わざとマシューが脱衣所にいる時を狙って持って行ったのには気付かなかった。
もちろんギルバートが見たかったのは『腹の刺し傷』と――ローレルとの『絆』だ。
――あるわけもないのに、何を俺は期待しているんだ……
ギルバートは自分の考えを振り払うかのように一呼吸置いてから侍従を呼び、朝食の用意を命じた。
マシューが部屋へ入ると、すでにテーブルの上にパンや卵、果物などが置かれていた。
ギルバートの部屋は確かに広くて造りは凝っているが、置かれている家具は最低限という感じの少なさと質素さだ。もちろん部屋の雰囲気を損なわない程度ではある。だが、現在宰相の職に就いているとはいえ、一貴族である父セドリックの部屋の方が余程豪華だ。
そのマシューの疑問を敏感に察したのか、「ここは俺の自室だ。昔から働いている二人しか基本的に入らない。外から見えないところまで王太子として飾る必要はない」と言う。マシューは自分が特別な感じがして少し浮かれそうになったが、『昨日は遅かったから仕方なくかも』と自身に言い聞かせた。
「おはようございます。お飲み物は紅茶でよろしいでしょうか」
聞き覚えのない声で言われ振り向くと、同い年くらいの青年がいた。茶色の髪と明るい琥珀色の瞳、柔和な顔立ちと雰囲気は誰かを彷彿とさせる。
するとギルバートが、「侍従のジェームズ・オールディン、ダヴィンドン伯爵家の三男だ」
「ジェームズ。こっちはマシュー・リュート、シャーディル侯爵の息子だ。現在衛生部所属なのは知っているだろう」と紹介してくれた。
マシューはもちろん、彼がハリーが言っていた王太子殿下付きの侍従で、末の弟だと分かった。
だがギルバートはそれを口にしない。ダヴィンドン伯爵家にとってハリーは聞きたくもない名前だからなのか、フィルとしてハリーを知っていることを言いたくないからなのかは不明だ。
でも、身分証はこの侍従に用意してもらったはずだよな? それは交流する可能性がないからか……
マシューの思案を止めるかのように、ジェームズが再度飲み物の確認をしてくる。
淹れてもらった紅茶はウィルバーがいつも用意するものよりいくらか濃い。だが苦味はなく、体に染み渡りお腹が空いてくる。
手早く朝食を食べ終えると、マシューは浴室で身支度を整えてから軍事宮にある衛生部へと向かった。
ギルバートも侍従に着替えを手伝わせながらダリス王国に派遣した調査隊の進捗について尋ねた。
「使者によりますと、大方の調査を終え間もなく帰途につくとのことでしたから、おそらく二週間以内にご報告できると思います」
「分かった。それと怪しい動きをしている者はいたか」
「前に送った使者ですが、ダリス王国に入ってから消息が途絶えました。単なる事故かもしれませんが、調査隊の中の人物かダリス国内で動いている人物の仕業の可能性も否定できません。使者は変装に長けており慣れている者でしたので、確証はまだありませんがもし消されたのでしたら、内政宮の者と繋がっていることが考えられます」
「目星はついているのか」
「人物については現在調査中です」
ギルバートが頷いてから、ジェームズが続ける。
「その他にですが――気になる情報をひとつ耳にしました」
「何だ?」
「今回のこととの関係性は分かりません」
「取り敢えず聞くぞ」
「…………」
「お前が言い淀むなんて、よっぽど言い難い人物なのか。構わない、言ってみろ」
「――国王陛下の愛妾でいらっしゃるゾーイ様とリュート宰相が人目を盗んで度々密会しているとの話です」
ギルバートは侍従の口から出てきた意外な人物の名前に一瞬瞠目する。
「それをマシューは知っているのか」
「おそらくご存知ないかと……目撃したのは昔からいる王宮付きの忠実な使用人で、物事の判断に長けている男です」
要するにいくら不義の密会現場を目撃したとしても、面白がって誰彼構わず言いふらす人物ではなく、今回ジェームズに打ち明けたのはそれが王太子に伝わることを見越してということだ。
マルフォニアにおいて、伴侶以外と関係を持つことは褒められる話ではないが、珍しいことでもない。そもそも国王が半ば公に愛人を持っているのだ。
ならば、その使用人が情事以外に何か懸念を抱いたと想像するのは容易い。だが、リュート宰相は今ままでそういった噂話を立てられたことはないし、本人はマシューのように真面目な男だ。
「俺は知らないが――以前から仲が良かったのか?」
「いえ、私の知る限りでは、二人に公務以外での接点はなかったかと。今回のことも知っているのは先ほどの彼も含め我々のみかと思います」
マシューの父であるセドリック・リュートは宰相や大臣を輩出したことのある名門シャーディル侯爵家出身で、自身も約七年前から宰相を務めている。今と違い、まだ父が国王としての公務を担っていた頃だ。
リュートは文官としての最高位まで登りつめたが、確かその父親と祖父はそこまで出世はしなかったはずだ。
「彼の評判はどうだ? 勤務態度や領地経営についてだ」
ジェームズは頭の中の記憶を探るように、少し間をおいてから答えた。
「そういえば――以前書類を整理した時に気になったのですが……侯爵家の財政で少し不自然な金の流れがありました。先代が借金をしていたようです」
「借金? それは初耳だぞ。どちらかといえばあいつの家は裕福だと思うが」
「ええ。ですがすでに返済がすんでおり、現在は領地経営など、特に問題は聞こえておりません」
「返し終えたのはいつの話だ?」
「後ほど確認いたしますが――確か前侯爵が亡くなる直前、現侯爵が若い頃であったかと」
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