秘色のエンドロール

十三不塔

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第三章 虹と失認

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 ⒑


 他者の記憶が視える。
 霊視またはサイコメトリーなど非科学的な能力の存在はいくらでも取り沙汰されてきたが、これがそうなのか銅音にはわかりっこない。テレパシーにしろ千里眼にしろ、常ならぬ感知力のことを無数の名前で人々は都合よく呼ばわってきた。
(これは? なんでサーカスなんかが見えるの)
『冷静に。それは超能力なんかじゃない。オムニバスの副作用とも言える記憶転移』
 努めて静かに落ち着いた口ぶりで星南は説明した。
 臓器移植のドナーと受給者の間に起こるとされている現象に記憶転移がある。記憶だけでなく、ドナーの嗜好や性格が受給者レシピエントに転移するというケースが多く報告されていることから、人間の情報は脳だけでなく細胞そのものに宿っているというセルメモリー仮説が生まれた。
『オムニバスの使用者間には、この記憶転移が頻繁に生じるということは知られている』
(わたしはあの娘とオムニバスなんてしていない)
『佐倉結丹は漆間と。漆間はわたしと。わたしはあなたとオムニバスした。つまり多くの人間の経めぐって、佐倉さんの記憶があなたにまで流入した。信じがたいことだけど、結果から眺めれば、これは事実よ』
(つまりわたしは彼女の記憶を視ているのではなく、わたしの中にある彼女の記憶を視てるってこと?)
『そこに大きな差はないのだけれど。少なくとも彼女のオーラの中にある情報を視覚的に読み取っているのではないことは確かね』
 これはただの幻覚じゃなくて、紛れもない現実の切れっぱしだってことだ、と銅音は認識を素早く改める。それが超常的なものであろうとなかろうと銅音には変わりなかったし、どんなささいなチャンスであれ利用しない手はなかった。
 サーカスで生まれた少女。その半生は星南同様、ぬくぬくと生きてきた銅音を恥じ入らせるに充分な過酷さだった。いや、この世界には少女を食い物にする連中が多すぎるのだ。
『同情しちゃダメ。彼女を解放するためにも私たちは勝つ必要がある』
(うん)
 そうだ。佐倉結丹のトラウマを掻きむしってでも、次の一投を乱す他はない。卓上に残っている水晶球を含め、万が一、ふたつの球をポケットに入れられてしまえば、そこでゲームは終了する。
 だから、銅音は同情心を殺してこう言った。
「アイのアイを拾いなよ」
 瞬間、佐倉結丹は身を竦めて、動きを留めた。手から落ちた水晶球は遠くに転がらずに飼い主を待つ従順な犬のごとく足元にとどまっている。身を屈めかけて、キッと銅音を睨む結丹。ようやく感情を露わにしたな、と星南と銅音はほくそ笑む。そうだ、それでいい。冷たい傀儡であることをやめて激情の滾りを思い出せ。
「なぜアイのことを?」
「わたしには人間の罪が見えるの」と空々しく銅音は言った。そうして水晶球を代わりに拾ってやる。もぎたてのリンゴにかぶりつくよう前のように、その表面をごしごしとシャツの裾で磨いてやってから、シャンデリアの光に透かし見る。
「さ、これできれいになった。曇り一つなく透明で澄んでいる」
「余計なお世話」佐倉結丹が乱暴に球を取り返す。
『インチキ臭い霊能者じゃあるまいし』と星南。
(いいでしょう。彼女は動揺してる)
 敵の言葉に耳を貸すなとたしなめられたのか、ついに佐倉結丹は無言で水晶を放り投げたが、そのフォームはどこかぎこちなく、そして弱々しかった。かろうじてボールは卓に届いたものの、ふわりと着地したきり、クッションにも他の水晶球にも当たる音はなかった。
 ――よし。
 二人の少女は喜びに震えた。心理戦において敵を凌駕し、ようやくこの邪まな遊戯において一矢を報いることができた。運命の曲面は、どこに転がっていくのかわかりはしない。水晶は微速だったが、なおも滑り続け、止まらなかった。
 投擲を終えた結丹の表情はみるみるうちに漆間のものとすり替わっていく。象殺しの興奮をまた味わっているのかもしれない。
「おや、これはこれは」と漆間は皮肉のこもった物言いだ。「どうやら、もしかすると……」ゆるゆると息も絶えんばかりに転がっていた水晶は、紫色のリキュールのある新しい奈落へと向かっていく。なんという悪運? 星南は歯がみする。あれが落ちて、次のリキュールを呷る羽目になるのなら、銅音たちは、さらなる混沌へと放り込まれるだろう。そして勝利からまた一歩遠ざかる。
 ――ゴトリ。
 その音だけは聴くべきでない。眼を背けても意味はないが、二人はそうしたかった。そのくせ卓上から眼が離せなかった。網膜も鼓膜も受け取りたくない刺激を受容してしまうだろう。
 しかしその音は響かず、
「の、残ったよ」
 誰にともなく銅音は言った。いや、それはもちろん星南に向けての言葉ではあった。ここに二人の身体が存在していたら、飛び上がって抱き合い喜んでいたろう。佐倉結丹の投げた水晶は、奈落への落下を免れたのだった。
(よかった)
『うん、でもまだ不利は変わらない。次のラウンド、わたしたちはもう一杯のリキュールを飲むことは決まっている。ここでひとつでも落として彼等にダメージを与えないと』
(そうだね……でも)
 銅音はまたしても何か違和感を覚えた。さっきの敵の水晶球の挙動にである。
(本当なら落ちてもよかったと思わない。やつらに都合よく?)
『ネガティヴな結論をデフォルトとして考えるのに意味があるの?』
(ある。自然な挙動だったのが、むしろ不自然に思えるくらい、これまでの彼等のボールはあまりに作為的だった)
『うん』
(ちょっと考えがある。試していい?)
 後攻の銅音は、水晶を両手に構えた。静かに呼吸を継ぐ。狙いは――
「リキュールの作用が君たちの有利に働いたようだな。限られた時間だろうとはいえ、まさか記憶転移を可視化する能力が芽生えるとは」
 ほら、漆間がキリもない邪魔立てに乗り出してくる。構うものか。
「いたいけな女の子の着ぐるみの安全な内側から猛獣退治とは。最高に熱くなれるゲームだったろうね」銅音は辛辣に呟く。
「ああ」と漆間はご機嫌に声を高くした。「これに勝ったら、君も着ぐるみにしてあげよう。絶対に勝ち目のないグリズリーと向かい合うのはどうだ? 生き残ればもう着ぐるみではない。歴戦の甲冑となる。共にアフリカのビッグ・ファイヴと呼ばれるライオンやサイやヒョウ、それに水牛など倒すのだ」
「屋敷の中にいながらにして? それのどこが楽しい?」
「君の肌を通して野生の空気を感じられる。君の興奮と恐怖がわたしの脳細胞を埋めつくすのだ。犯されているのはわたしの方かもしれないね」
 ニヤニヤと敵は唇を歪めた。
(ふざけやがって)
『動揺しないで。やるべきことをするの』
「わかってる」と銅音は言った。
 顔と色とのラベリングを失った銅音たちは、不定形の敵と世界に飲み込まれつつあった。さらに他者の記憶までもが流入する不可思議な現実。しかし、いくら不条理な認知空間であろうとも人はそれに慣れる。なけなしの理性をまとめあげて銅音たちは、果敢に身を乗り出す。まるで嵐の海の船の舳先に立つような感覚だ。
(いくよ)
 銅音たちの投じた水晶球は、放物線を描かなかった。真っすぐに天井へと放たれ、シャンデリアに激突すると、それを打ち砕き、耳をつんざく轟音を降り注がせた。ビリヤードテーブルに舞い散るガラスの破片。滑らかなバニラアイスの表面に砂糖の結晶が散りばめられたようだった。
「なんということだ」漆間は忌々し気に言った。
「はぁはぁ、や、やっちゃった」
 蒼白になった顔つきの銅音は意気消沈の態で足をもつれさせるが、崩れることはなかった。どうやら奇跡的にボールは卓上に落ちたようだ。それどころかボールは手つかずのポケットにすんなりと吸い込まれる。粉々のガラスだらけの羅紗の上において、それは奇跡に近い僥倖と言えるだろう。またもや卓上にはひとつの水晶が残っている。
「勝負に水を差したな。卓を清めねばならん」
「ううん、このままでいい。だってそうでしょ。卓上で起こる出来事には透明な水晶でしか干渉しない。そんな取り決めだったはず」
「しかし、これは」漆間はまごついた。
「何か都合の悪いわけでもあるの?」
「いいわ、このまま続けましょう」口を挟んだのは佐倉結丹だ。投擲以外で出しゃばることのなかった少女がはじめて意志を主張したのだった。銅音には伝わっていた。アイという象を殺した時の悲しみが。本心では結丹は、あの支配に抗う愚かな象に憧れていた。
「決まりね」銅音たちはきっぱりと言った。

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