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第三章 虹と失認
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――23:31
さっき時刻を確認した時から、たった一八分しか経過していない。
リキュールの効果は時間感覚にまで影響を及ぼすのかもしれない。それとも集中と惑乱の波状心理がそうさせたのかも。銅音は記憶を見通す眼を一時的に手に入れたが、それも過ぎれば、現在の対応がおざなりになってしまう。加えて未知の疲労も看過できない。
『しっかりして。まだ勝負は決まっていない』星南が叱咤した。
ラウンド3が始まる前に先程のペナルティを両者が課せられることになる。
銅音と星南は、タンブラーに入った橙色のリキュールを――
結丹と漆間は、ピルスナーに入った赤色のリキュールを――
同時に一息に飲み干す。それぞれが体内に迎え入れた液体は紛れもなくこの国では規制された酒精という禁止薬物であり、それ以上に危険な死の棘でもある。銅音にはそれが何色の液体だったのかわからなかったにしろ、その美しい毒薬を喉に滑らせ、破滅への階段、その手すりのない一段に足をかけた。
先にグラスを置いたのは、佐倉結丹だった。
一方、すでに二杯目のリキュールを摂取した銅音は急速な効き目にグワンと視界が歪んで足がよろつく。空っぽの器は手からすり抜けて落ちる。グラスは砕けた。テーブルの外にも飛び散ったシャンデリアの破片があり、グラスの破片と混ざり合って両者の区別は曖昧になる。橙色のリキュールが働きを奪うのは脳のどの部位なのか。それを銅音たちは知らされていない。気が付けば指先にガラスの破片が食い込んでいた。全身が巨大な壁に押し付けられてもぎ離そうにも力が入らない。
「起きろ、小娘」漆間のその呼びかけで自分が倒れているのだと銅音は知る。背徳の間の床面を障壁だと感じるのは、すでに平衡感覚に狂いが生じているからに違いない。次は何が起こる?
硬い平面を押しやると銅音の身体はゆっくりと剥がれた。足の裏で壁を蹴り、上体を力いっぱいに伸ばす。すると縦横の重力の向きが変わって世界は正常に復した。いや、正常とは程遠いだろう。にしても、ガラス片の散らばる中、惨めにつっぷしているよりはマシだった。わたしたちはまだ戦えるのだろうか。
「君が飲んだリキュールは小脳の機能に干渉する。最前の症状と合わせればもはや致命的。複合したダメージがどんな効果を及ぼすかは誰にとっても未知数だ」
銅音は倒れぬよう壁にもたれかかった。星南が内側から必死に励ましてくれる。
『ゆっくり呼吸して。大丈夫。わたしが銅音の意識下の不随意運動を支える』
(そんなことが出来るの?)
『わたしほど何度も繰り返し相乗りした人間は少ないはず。ただいいように弄ばれていたわけじゃない。漆間に大部分の表層意識を押さえつけられて眠っているのと同然だったとはいえ、夢を見ているような状態の中でさえ、わたしは自分の身体を取り戻そうとずっと抗ってきたの』
(それがどう役に立つの……あああ、これって)
『夢の中だと思って、これはちょっと不気味だけどそれなりに楽しい夢』
(広い? いや部屋が大きくなってるの? それてともわたしが縮んでるの?)
新しい異変は、最初の一杯の効果よりさらに甚大だった。距離と比率とサイズがデタラメになってしまう。銅音は自分がまるで小人のように縮んでしまったように思えた。佐倉結丹の頭身も先程とはまったく違う。ひどくひょろ長く、見上げるほど高くに顔があるように思える。反対に散らばるガラスの破片のひとつひとつが小山のようだった。
「言っただろう?」天辺の見えぬほど高い塔の上から声が勝ち誇って落ちてくる。「不思議の国に迷い込むと」
『アリス』
ルイス・キャロルの有名な作品を銅音はまだ読んだことがなかった。ただし星南はそれをよく知っていた。
『アリスは薬を飲んで身体が大きくなったり縮んだりしたの』
「それってフィクションでしょ!」
思わず銅音は声を荒げて、事態のバカバカしさを笑ってみせるが、額に浮かぶ冷たい汗は止められなかった。
「アリス症候群」確信を込めて漆間は言った。「自分を小さく感じているのだろう。そのような知覚発作を体験する子供は多い。外界が広がって感じられる大視症。それに物の比率や形状が歪んで感じられるのを変視症と呼ぶ」
異星の空一杯に広がる衛星のように今度は佐倉結丹の顔が塔のような身体のさらに上方から迫ってくる。まるでデタラメだった。たった二杯のリキュールで銅音の現実は滅茶苦茶になってしまった。
「言ったろう。二杯も飲めばゲームの続行はほぼ不可能だと。その縮んだ身体でどうやってビリヤード台の上にまで水晶を放り投げる?」
『これは幻覚なの。あなたの身体は元のサイズのままよ。惑わされないで』
だとしてもこの認知異常そのものがプレイを妨げるのだ。打つ手はなかった。
『それにリキュールを飲んだのは、相手も同じ。すでに効果が現れ始めてるのかもしれない』
(そんなふうには見えないけれど)
『取り繕っているだけだって可能性もある』
――観察しろ、探求しろ、剔出しろ、と奥村はそう言ったはずだ。
銅音たちはそびえ立つ尖塔を観察した。どこかに構造の脆い部分はないか。
このバグった脳でこそ発見できる何かがあるはずだ。記憶転移で読み取ったように新しい弱点が見つかるかもしれない。とはいえ、リキュールの効果が容易に取り繕えるものだとは思えない。佐倉結丹はリキュールに耐性があると仮定してみる。こんな勝負を数限りなく繰り返していく中で効果を乗りこなす術を見つけたのだとしたら、これははじめから勝ち目のない勝負だったことになる。
「察したようだな。この身体、佐倉結丹はリキュールの影響を受けない」
「それって真実なの? 佐倉さん」と星南が言った。銅音は星南の意識の広大なバックグラウンドとなって相棒の思惑をサポートする。星南が出てきたということは何か考えがあるはずだ。漆間と佐倉結丹の利己的な繋がりしかなく、心の底の方では互いを蔑視し、あるいは嫌悪しているのだとしたら、その亀裂をもっともっと拡げるべきだった。
「佐倉結丹。答えなさい」はっきりと一語ごとを区切りながら、星南は強く命じた。「あなたの身体はこのリキュールの毒に蝕まれているのではないの? 尊厳だけでなく命までも損なっているのなら、この戦いに未来なんてない。たとえわたしたちに勝ったとしてもいつか倒れる日がくる。銃弾を浴び続けた象がやがて地に伏したみたいに」
塔がぐらりと揺らめいた。
この中には囚われの姫がいる。姫は塔に囚われていながら、崩壊寸前の塔そのものでもある。問題は別の何かも塔に潜んでいるということだ。
「関係がない。わたしは客の前で芸を続けるだけ。サーカスは続く、たぶん永遠に」
第三ラウンドの水晶球が佐倉結丹の手より放たれた。
縮んだ銅音たちにとっては遥か高みから砲弾が頭上を横切っていくように見えた。
ビリヤードテーブルの上に残った水晶と投げ込まれたもうひとつの水晶は激しくぶつかってなんどもクッションを跳ね返った。いずれどこかの穴に落ちねば済まない、それほどの勢いだったにも関わらず、どこにもボールは落ちず、二つの水晶は砕けたガラス片の散乱する白い羅紗に残ったのだった。いや、その前に奇妙な現象が起きた。テーブルに散乱するシャンデリアの破片の一部がぐにゃりと畝を形作ったのだった。
「漆間。外したね。それであの奇妙な畝は何?」
「は、外した。馬鹿な」精密機械のようだったナイフ投げ芸人が、ここでとうとうしくじったのだ。漆間が出てきて舌を鳴らした。
「説明しなさい。あのパターンはあなたのボールの周囲に広がっている。ふん、あれがあなたのイカサマ。もうボールを操ることもできない。でしょう?」
「何を言ってる。何の話だ?」銅音を振り返り、漆間は眉を吊り上げた。
「あんたのやり口ならわかってる。この水晶球には透明な磁性塗料が吹き付けてある。中身まで透けて見える水晶はまるで明け透けで純粋そのもののように見えるけれど、そうじゃない。透き通っているからといって不正がないとは限らない」
巨大な世界に押しつぶされそうな圧迫感に逆らいながら銅音たちは言った。直観は確信に変わりつつあった。漆間の反応はあまりにもわかりやすい。うろたえ、口ごもったあげく「だから、あのシャンデリアを砕いたのか」とだけ返答した。
それを受けて、星南は淀みなく銅音の口を動かした。
「おそらくテーブルの下から磁石でボールの微妙な挙動をコントロールしているんでしょう? わたしの狙いは卓上にガラス片をぶちまけてボールの転がる軌道を荒らす――いわば未舗装にすることだった。それに古い照明器具には、軟磁性体である電磁ステンレスが使われているというから仮説が正しければ――ほら、あんな畝ができる」
銅音はテーブル上の奇妙な模様を指さした。磁気を帯びた砂鉄が描くのと似たパターンである。水晶球には磁性塗料が吹き付けてあるものの、それは磁化されていない。その証拠に、銅音がスマートフォンケースのマグネットの留め金部分を近づけてみても反応はなかった。
「この部屋の天井付近には強力な磁界が渦巻いている。その高さまでを放り投げることで水晶球は一瞬で磁化されてテーブルの上でコントロール可能になるというわけ。手の込んだ仕掛けよね。わたしの水晶球の速度が鈍ったのは、投擲のコースが天井高くまで達した時で、だとするなら、もちろん同じ高さに下がるシャンデリアは極めて強く磁化されているはず」
漆間は、ロシアンルーレットの安心院のようにボタボタと滝のような汗を流した。
「脳に甚大な影響を受けながら、そこまで観察と推理を巡らせていたというのか。おまえは――おまえたちは化け物か」
「卓上の清掃をわたしが拒んだ時、あなたのオーラがひどく乱れた。恥と不安のくすんだ色が放射された。わたしには底の底まで見える。あなたの罪も」
「絵空事を言うな。いつまでもそんなオカルトじみた脅しが効くと思うなよ」
「記憶転移。そう教えてくれたのはそっちでしょう」
「図に乗るな」漆間は吐き捨てる。
「さて、次はこっちの番だよね。信じるの佐倉結丹。あなたはあの象じゃない。サーカスもいつかは終わる」
矮小な存在だった銅音はいきなり部屋から溢れ出んばかりに膨らんだ。代わりに巨塔と見えていた少女はちっぽけで悲し気な人形となり、部屋の調度もまたドールハウスめいたミニチュアへと変貌した。
大視症から小視症へと――世界が反転した。
心理的に風上に立ったことで認知空間が推移したのだった。
そして生気のない人形となった佐倉結丹は糸が切れたように足元に崩れた。
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